本書ではアジア・太平洋戦争を3つの点から検討する。
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◆所感
日本軍の実態や兵士たちの経験をまとめたものである。そして、医療体制の不備や補給軽視など、一部の問題は80年後の現在でも改善されておらず、同じような大被害を招くことは必至である。
終章では、1990年代以降に生まれた日本軍の理想化・美化の傾向にも言及している。荒唐無稽な戦争観は、準備不足や他国に対する過小評価を呼び起こすと考える。
圧倒的な戦病死(餓死)の多さは1854年~1856年にかけてのクリミア戦争を連想させるものである。
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序章 戦争の長期化
盧溝橋事件により始まった日中戦争は1940年には頭打ちになり、日本軍は少ない人数で広大な範囲を警備しなければならなかった。その後始まった太平洋戦争は約4年続いた。
日本の犠牲者軍民あわせて310万人程度のうち、9割が1944年8月のサイパン陥落以後に発生したものである。
なおアジア・太平洋戦争でもっとも被害を受けたのはアジアの諸国民であり中国を含めて1900万人以上が死亡している。米軍の犠牲者は約10万人である。
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1章 死にゆく兵士たち
日本兵の最大の死因は戦病死・餓死だが、これは近代戦争では例を見ない異様な結果である。
日露戦争で2割程度だった病死者数は大戦では4~6割に増大した。これは制空権・制海権喪失による物資窮乏、栄養失調と疫病の蔓延によるところが大きい。
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1945年には、要求された物資の半分しか海外拠点に到着しなかった。餓死、栄養失調、マラリアは当時の軍も認識していたが、効果的な対策を取ることができなかった。栄養失調はしばしば精神疾患を併発し、「生ける屍」のようになり、程なくして死ぬ兵士が続出した。
その後の研究では、栄養失調が、拒食症やストレスといった神経症と関連していた可能性も指摘されている。
アジア・太平洋戦争での海没者数は陸海軍あわせて35万人である。兵士たちは狭い船内に押し込まれたため、撃沈された場合全員が脱出するのは不可能だった。また商船が不足したため8ノットの低速船を使わざるを得ず、船団が潜水艦攻撃等の格好の標的となった。
船内の兵士は熱射病になり移動中に死ぬ者も多かった。
入隊したばかりの初年兵など、甲板に出られない兵士が多かったのは、福岡によれば、甲板への出入り口付近に涼を求めて古手の古参兵たちが我が物顔でたむろしているからだった。
海中を漂流している兵が助けを求めて『大発』にすがりつくのを将校が刀で切り落とすのを何件か見たと証言している。
船への攻撃を受けて床や水面に落下し傷を負う者、爆雷の衝撃を受けて肛門から海水が入り内臓破裂し死に至る者も多かった。
海没・溺死への恐怖に発狂する者が続出した。
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航空特攻では陸海軍死者合計3848人に対し、撃沈実績は小型艦艇47隻である。なお航空機が爆弾を搭載したまま体当たりした場合速度が落ちるため、爆弾単体よりも威力が減衰する。
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軍においては自殺も多発したが、日本軍は私的制裁を必要悪と考え、また一部の将校は、落伍者が死ぬのは当然であるとみなしていた。
ところが、平時の徴集率が同世代の2割程度だったのに対し、戦況悪化につれて多数の不適格者が入隊したため、落伍者を切り捨てるこの思考は成り立たなくなった。
捕虜:
ノモンハン事件で発生した日本軍捕虜に対し、軍中央は、将校には自決を、負傷のない下士官兵には「敵前逃亡罪」適用をもって対処した。陸軍の要務令は当初、傷病兵の残置・保護を容認していたが、1940年の作戦要務令改定では、「動けない兵は処理(自決か殺害)」の方針が公式となった。さらに1941年1月の「戦陣訓」示達で、捕虜になることは完全に禁じられた。
インパール作戦では、最後尾に陣取る落伍者捜索隊および後尾収容班が、動けなくなった仲間に自殺を強要し、あるいは射殺した。
腕など程度の軽い部位を自ら撃って戦線離脱をおこなう自傷が散見された。
インパールや南方では崩壊した軍のなかから盗賊団となる日本兵(将校を含む)があらわれ、仲間を殺害し死肉を食らうものも現れた(ジャパン・ゲリラ)。
2章 身体から見た戦争
戦線拡大につれて体格・体力の劣る兵も召集された。
1944年以降は30歳以上の妻子持ちや極度に体力の無い人員、知的障害者に近い人員、ひらがなの書けない人員もやってきた。
かれらは銃の取り扱いも学んでおらず、手ぶらで戦地に送られてきた。知的障害者の入隊は軍内でも問題になった。
戦地での給養事情が悪化し、1940年からは現地自活方針がとられ、さらに中国人からの略奪が常態化した。また内務班でのリンチは体力のない初年兵を消耗させ、結核を蔓延させた。
満州の第二航空軍野戦航空隊では、知的障害兵と非行兵からなる特別作業隊が設置された。
歯科医制度は欧米に比べて遅れていた。
内地では学校付きの将校、帰還兵、退役軍人、マスメディアが中国人に対する蔑視と好戦主義を煽っていた。
戦争神経症は頻繁に起こっていたが、軍はこれを問題視せず無視した。
戦争が激化する。……そうなると、……いつまでも生きている将や兵が白い目で見られたり、皮肉や嫌味をいわれたりという奇妙な傾向が表れ始める。……それにしても、きさまはいつまで生きる気かなどと、上官が部下をつかまえて嫌味がましく口にする風潮というものが、はたしてアメリカやイギリス、中国の軍隊内にもあったであろうか。
……また今問題の覚せい剤も陸軍の所産であり、ヒロポンを航空兵、または第一線兵士の戦力増強剤として、チョコレートなどに加えていたことも事実。
敗戦直後、陸海軍の保有していたヒロポンが闇市で横流しされ、人びとのあいだで流行した。
※ 高校生の頃に読んだ本
軍服を含む被服装備もまた劣化し、民間人からも「みすぼらしい、支那兵のようだ」と評されるようになった。
……フィリピンの第一〇五師団独立歩兵第一八一大隊に赴任した那須三男は、部隊長は裸足、将校以下全員が草鞋で訓練に励んでいるのを見て驚いたと回想している。
3章 無残な死
短期決戦主義と作戦至上主義:
日本軍のドクトリンは「帝国国防方針」に示されているが、それは第1次世界大戦の結果を反映しない、短期決戦主義であり、終戦までこの方針が改善されなかった。
日露戦争で確立された精神主義・白兵決戦主義は、短機関銃開発の軽視・遅延をもたらした。
陸軍はソ連を仮想敵国としており、根拠文書もそのまま変更されず、対中国・対米英に関する研究は低調であり、ようやく問題視されたのが1943年後半以降だった。
米軍のM4戦車は陸軍にとって脅威であり、対抗手段がなかった。このため1944年当時参謀次長だった後宮淳大将を中心に、体当たり肉弾特攻が戦術として採用された。
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帝国国防方針については黒野耐の本に詳しく書いてある(まだアップロードしていません)
統帥権独立の欠陥:
日本軍の根本的欠陥として、その憲法体制があげれられる。陸海参謀総長の権限は、法律上は小さい。司令官の任命や作戦命令は、大元帥天皇から直接指揮官に下達される。
このため例えば連合艦隊司令長官が軍令部を押し切って決心することもよくあった。
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また明治憲法下では、権力は分散していた。陸海軍、その中の陸軍省・海軍省と参謀本部・軍令部とは一枚岩ではなかった。
また内閣総理大臣は各国務大臣に対する指揮権・任免権を持たなかった。内閣に対しては枢密院が、衆議院に対しては貴族院が牽制の役割を果たしていた。昭和天皇即位以降は内大臣ら宮中グループが力を持った。
こうして、日本は、統一した国家戦略を決定できる政治システムを持たないまま戦争を戦った。
私的制裁について:
私的制裁の横行した理由として、憂さ晴らし、新参者の安楽な生活に対する嫉妬、戦地生活による人間性の麻痺等があげられている。
規律の低下:
満州のある駐屯部隊では、昼間からの飲酒・賭博、夜間の慰安所通い、乱暴狼藉が蔓延し、応召された将校たちはこれに見て見ぬ振りをした。この中隊では浅草と千住の暴力団組員が幅を利かせていた。
この暴力団グループは炊事班とトラブルになり大乱闘が発生、80人程度の兵が処罰された。
女性と少年兵:
女性の動員は低調であり、また未亡人の再婚に対し批判的だった。一方、少年兵の登用には積極的だった(予科練、海軍特別少年兵制度、少年船員制度)。
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機械化の立ち遅れ:
自動車ではなく馬と人力が主力であり、国産車は悪評だった。戦争後期、歩兵たちは自分の体重の5割近い荷物、ひどいときは体重と同じ量の荷物を背負って歩かされた。
機械力不足は飛行場設営や道路工事といった面でも明らかになった。
通信:
陸軍に専門の通信部隊が作られるようになったのは日中戦争以降である。さらに前線部隊が有線通信を重視したため、たびたび指揮通信が途絶した。
終章 戦争の傷跡