3 アジア太平洋戦争における天皇の戦争指導
天皇が、対英米戦争への躊躇から、容認へと転換した理由について考える。
海軍……「ジリ貧論」(アメリカから石油禁輸されたら数か月以内に開戦すべし)、勝利の可能性は不明、覚束ないとの永野総長回答
杉山総長に対する昭和天皇の有名な台詞……
――支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。
見通しのない対英米戦争に対し天皇は、外交を優先せよと指導した。このため陸海軍は、天皇をいかに説得するかに腐心した。
9月、10月、陸軍部は持久戦可能のデータを、海軍部は真珠湾攻撃計画の説明と持久戦概要資料を作成した。
11月15日、御前兵棋演習の際、天皇は勝算についてではなく戦術的な問題について下問した。
――……明日御前に出ると「昨日あんなにおまえは言っていたが、それほど心配することもないよ」と仰せられて、少し戦争の方へ寄って行かれる。また次回にはもっと戦争論の方に寄っておられる。つまり陸海の統帥部の人たちの意見がはいって、軍のことは総理大臣には解らない。自分の方が詳しいという御心持のように思われた。
10月18日、首相に就任した東条は、一般的なイメージとは違い、あくまで天皇の意志に忠実であり、主戦論者たちをけん制した。しかし、天皇自身は開戦論に既に傾いていた。
天皇は自身の意見である「ローマ方法を介した外交交渉」も含めた開戦案に同意した。
開戦後、連合艦隊や陸軍の中堅幕僚が、統帥部の意図を超えた拡大方針をとりはじめた(インド洋、オーストラリアへの進出、ビルマ・インパール方面への進出)。
緒戦勝利の雰囲気に流されつつ、天皇は作戦の繰り上げや督戦を指導し、また各戦線について増派などを要望した。
――統帥部は、現地軍に兵力や弾薬・食糧を贈れないとき、あるいは送りたくないとき、しばしば天皇の「ごかしょうの御言葉」や「ご×念」を打電して、将兵に物的戦力以上のものを発揮するよう要求した。
1942年6月ミッドウェー海戦の敗北の際、天皇は東郷を見習い泰然と振舞った。
――天皇の言動に余裕が感じられなくなるのは、1942年8月以降、東部ニューギニアとガダルカナルでの攻防戦が激化してからである。
ガダルカナルでは陸軍航空隊の増派を主張し陸軍部の方針を変えさせた。
この時期の特徴……陸海軍の作戦を認めたうえでの叱責や督促、消極性批判。
1943年、アッツ島玉砕やアリューシャン作戦失敗により天皇は不機嫌になり、陸海軍双方に疑念を持ち始めた。
――……何とかしてどこかの正面で米軍を叩きつけることはできぬか。
天皇は決戦、前進、戦力拡充を促した。アッツ島失陥以来天皇は海軍の消極的作戦指導に不満を抱いていた。永野総長は上奏のたびに小言を言われている。
1943年9月の絶対国防圏設定後は、攻勢防御を主張した。
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4 敗戦と天皇
1944年3月以降、疲労のためか、戦争指導意欲が低下し、下問や注意が極端に少なくなる。
クーデタをたくらむ勢力(海軍中堅幹部ら)のコメントでは、天皇の東條英機への信任はまだ篤かった。
1944年2月、天皇の了解を得て、東條は、周囲の反対を押し切り参謀総長も兼任した。しかし戦況悪化から民心は離れ、天皇も不満を持つようになった。
――……六月上旬、宮中での毎週恒例の映画鑑賞会のおりに、高松宮が「陛下の御耳には少しも政府以外の情報が入らぬ」と進言したところ、天皇は「そんなことはない」と言い返し「激論」になったという。……天皇は東條を信任し、東條は天皇の信任を盾に断固として権力にしがみつく構えであった。
1944年7月のサイパン陥落、8月のテニアン喪失は、米軍の本土爆撃を可能にした。このため、軍人たちの一部は敗戦がほぼ確実だと感じた。
天皇は陸軍主導の一撃講和方針を支持したが、一方、戦争指導への意欲はなくなり、通り一遍のコメントしかしなくなった。
戦況上奏について……
・日日戦況報告:戦況に関し奏上、戦況に関し御説明資料、用兵時効に関し上聞書、今後の作戦指導に関する件など。
――報告を見る限り、すくなくとも天皇は日本軍の損害については熟知していたはずである。
――大本営の発表はともかく、統帥部としては戦況はもし最悪なものでも包まず遅滞なく天皇には御報告申し上げておったので……(木戸幸一日記)
ただし戦果は大本営発表同様過大報告だった。
1944年10月の台湾沖航空戦は、過大報告の典型であり、天皇は勅語を出した。
――結論的に言えば、台湾沖航空戦の幻の大戦果は、戦闘に参加した現地航空部隊からの報告自体が錯誤に基づく膨大かつ曖昧なものであり、それが大本営においても厳密な戦果判定審査を経ないままに戦果として認定され、天皇に上奏されたのである。
現地部隊の報告は元々過大な傾向があるが、連合艦隊(慶応大日吉キャンパスに移転していた)から大本営海軍部に伝わるにつれてさらに戦果が水増しされていった。
――大本営は虚報を意図的に捏造したというよりも、誤報と希望的観測によって自己欺瞞に陥ったのである。
――その後も、全滅させたはずの米空母を続々と発見したという策敵機からの報告が上奏されていることからも明らかなように、……以前の戦果報告との矛盾は明らかである。……台湾沖航空戦についても、「朕深く之を嘉尚す」との勅語まで出してしまった以上、統帥部も天皇も引っ込みがつかなかった。
10月25日から始まったフィリピン沖海戦では特攻隊が導入された。
天皇の「よくやった」発言は、特攻隊計画者たちの回想にのみ出現するため、真偽に疑いがある。
レイテ決戦断念の顛末……小磯首相も天皇も知らされておらず、決戦に向けて国民を鼓舞してきたためどうしたものかと困惑した。
天皇は軍人以外を近づけず、戦争終結の手立てを打とうとしなかった。
1945年2月の近衛上奏文は、敗戦必至・講和促進を訴えるものだったが、天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と拒否した。
沖縄戦においては、大本営陸軍部だけでなく天皇も、持久戦を非難し攻勢をかけるよううながした。
大和の「海上特攻隊」は、連合艦隊作戦参謀神重徳らの提案だが、天皇の「航空部隊だけの総攻撃か」という下問が影響していた。こちらは、天皇の言葉を参謀が利用したものである。
「聖断」シナリオは、原爆投下とソ連参戦の後に実行された。天皇は軍に対する信頼を失っていた。
軍服を着た大元帥イメージの払しょく……地方巡幸
天皇は大元帥感覚が抜けず、1947年にGHQ外交顧問シーボルトに密使を派遣し、「沖縄を米が軍事占領し続けることを希望する」との意志を伝えた(沖縄メッセージ)。
天皇は芦田内閣にしばしば内奏を求め、また政府の頭越しに保守勢力として外交を展開していた。
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疑問と回答
・天皇は積極的に戦争指導を行い、戦況についても細かく把握していた。
・天皇は領土拡大論者だった。一方、軍部にありがちな極端な精神主義、冒険主義、謀略は嫌った。
・末期には決戦にこだわった。また基本的に決戦後講和論を支持していたため、「聖断」シナリオ発動は遅れた。
・最高司令官としての振る舞いを意識
・軍事思想はオーソドックス(軍部との違い)、先制と集中、攻勢主義者
・帝国憲法には「君主無答責」(責任なき権力)の規定はない。
・天皇は戦争遂行の中核であり、制度上も、実際の運用においても、その最高責任者だった。