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『大元帥・昭和天皇』山田朗 その1 ――最高指揮官の行動をたどる


 ――本書は、大元帥としての昭和天皇の軍務と戦争関与の実態を、可能な限り具体的に明らかにしようとしたものである。

 

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 ◆所見

 天皇は何も知らなかった説、常に戦争に反対していた説が、資料(側近、軍部、天皇自身の発言録)によって明確に否定される。こうした説は、天皇とGHQ、その周辺が生き残りのために流布した説である。

 軍の最高指揮官としての、命令決裁、御下問、日々の戦況報告受けや、作戦指導、士気高揚策など、具体的な天皇の活動を知ることができる。

 

 指揮官としての心構え……部下に動揺を見せないこと、士気に気を配ること等、天皇は気を使っていたようである。また、戦術についてはオーソドックスを好み、極端な冒険主義、精神主義、国際社会の非難を受けるやり方を嫌っていた。

 

 しかし、より高い次元での判断――中国戦線拡大、満洲国設立、対米開戦――が明らかに失敗だった。

 また、満州事変や盧溝橋事件など、隷下の軍による独断行動を、「結果良ければすべてよし」として容認した結果、規律を低下させ、部隊のコントロールを失うことになった。

 

 戦果については、軍が天皇をだましていたのではなく、軍と一体化し、いい加減な情報分析で間違いを繰り返していただけである。

・失敗指揮官としての責任

国家元首としての責任

 

  ***

 1 大元帥への道

 裕仁は1901年に生まれ、弟雍仁(のちの秩父宮)とともに、枢密顧問官・海軍中将川村純義宅に預けられた。

 1912年、喜仁親王大正天皇)が即位したときは、学習院初等科で院長乃木希典から教育を受けていた。同年陸軍歩兵少尉・海軍少尉となった。

 

 将来の大元帥となるため、24歳までに大佐に昇進した。

 

 1913年からは東郷が長を務める東宮御学問所での勉学が始まった……「倫理・歴史・地理・数学・地文・国漢・博物・理化・フランス語・習字・法制経済・美術史・体操・武道・馬術軍事学」。

 健康状態の優れない大正天皇にかわって、1919年頃から代理で業務に就くことが多くなっていた。

 

 ――皇太子(裕仁)の欠点とは、人前で落ち着きのないこと、性格が内気で、物事を徹底的に追究しようという気力に欠けることであった。

 

 皇太子は20歳で摂政となった。

 大元帥は日本の軍隊を親率する立場であり、1898年、元帥府設立によって制度化された。あわせて統帥権の独立(内閣からの独立)も確立した。

 実際の統帥権の行使は

・最高命令の発令

・下問などを通しての作戦指導

将兵の士気の鼓舞

 に集約された。

 

 大元帥たる天皇を補佐したのが元老・内大臣侍従長・侍従次長・宮内大臣・侍従武官長・侍従武官などである。

 

 

  ***

 2 大陸への膨張と昭和天皇

 1926年、大正天皇が死亡し裕仁践祚した。天皇山東出兵の裁可や行事出席などで非常に多忙となった。

 1928年、張作霖爆殺事件が発生した。

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 ――従来、張作霖は日本の支援で満州を支配し、日本は張作霖の協力で満州に権益を拡張してきた。……この爆殺事件は、関東軍高級参謀河本大作らの仕組んだ謀略であった。河本らは、張作霖を暗殺することによって満州の治安状態を悪化させ、それに乗じて関東軍を出動させて一挙に武力占領してしまおう、ともくろんでいた。だが関東軍司令部は、部隊の出動を認めず、日中両郡の衝突事件もおこらず、この計画は失敗した。

 

 

 翌1929年、天皇は、事件をうやむやにしようとした田中義一を叱責した。

 田中内閣総辞職には、天皇大権(上奏の重み、人事)を軽視する田中を排斥しようとする宮中の意図も働いていた。

 

 1931年9月18日の満州事変では、天皇閣議の不拡大方針に賛同したが、奈良侍従武官長の楽観論に影響を受け、関東軍の抑制にはあまり熱心ではなかった。

 翌年3月の満洲国まで、天皇はどっちつかずの態度をとり、時には大元帥として、関東軍を鼓舞した。

 

 ――これにより、関東軍の謀略と朝鮮軍による越権行為ではじめられた満州事変は、天皇によって「東洋平和の基礎を確立」する正義の戦いと認定された形となったのである。

 

 天皇満洲だけならば取得しても国際問題にはならないと考えていた形跡がある。

 

 ――天皇は、関東軍の熱河侵攻という新たな膨張行動を憂慮しつつも、かつての暴走の主役たちを国威を発揚した英雄として手厚く遇したのである。

 

 1933年2月、熱河侵攻が始まり直後、日本は国際連盟を脱退した。天皇は侵攻作戦を批判したが、中止は要求しなかった。

 

 1936年の二二六事件において天皇が激怒したのは、自らの天皇大権が侵されたことによる。『独白録』では、天皇免責論の観点からこの要素は省かれた。

 

 盧溝橋事件直後、天皇は不拡大・早期収拾を望んだが、上海に戦線が拡大すると、早期決戦のため大規模増派を主張した(『独白録』)。天皇ソ連の動向を警戒していた。

 

 1937年11月に大本営が設置された。明治の大本営と異なり、構成員が軍人に限られていたが、「独自の世界戦略を構想し、政府を引きずり回す存在となっていく」。

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 さらに大本営内部でも陸軍、海軍が別個に戦略を立て命令を出していた(大陸命と大海令)。

 天皇は命令の允可、下問等を行い、参謀たちも天皇に納得してもらうため、説明資料や想定問答集を準備した。

 

 1938年の御前会議に先立ち、西園寺は天皇が責任を負わないことに腐心した。

 天皇は不拡大方針の参謀本部ではなく、国民党拒否・戦争継続派の政府(近衛首相、杉山陸相、広田外相、木戸文部大臣)に賛成した。

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 天皇は、国策決定の場である御前会議とは異なり、大本営御前会議では積極的に御下問・御意見を発した。

 個別の作戦や戦況についても質問するため事務当局は苦労した。

 

 1938年には大陸軍は68万人に達していた。動員限界に達したため、以後は不拡大・持久戦・奥地爆撃に依存せざるを得なかった。

 

 以下、天皇統帥権行使の例を挙げている。

 

 1938年7月、張鼓峰に進出したソ連軍への攻撃を板垣陸相が上奏した際、「海相、外相も賛成している」とうそをついたため、天皇は激怒した。

 ところが現地の第十九師団が独断で攻撃すると(張鼓峰事件)、これを賞賛した。

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 ――またしても、天皇の結果優先の論理により独断専行の戦争挑発者は、英雄になったのである。

 

 1940年の「宜昌をなんとかならないのか」発言は、陸軍の方針を転換させた。

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 また年度作戦計画奏上の際、中立国タイを侵犯する計画が気に食わず、陸軍に変更させた。

 

 天皇はナポレオンを尊敬しており、マキャヴェリズムではなく、八紘一宇精神に基づいた領土拡大を自らの使命と考えていた。

 

 1940年8月から、海軍は戦時体制移行である「出師準備」(すいしじゅんび)を開始していた。対米戦の準備を受けて、天皇は陸軍に対しても南方進出の準備を促した。

 日タイ軍事協定問題をめぐって、政府と統帥部が対立したことを天皇が非難したため、以後、首相・両総長の列立上奏が採用された。

 

 1941年6月 独ソ戦開始を受け、7月、帝国国策要綱にて、日中戦争継続、南方進出、対ソ戦、対米戦辞せずの方針を決定した。

 天皇は、対英米戦不可避としながら計画や物資のない状況を懸念し、南部仏印進駐に否定的だった。

 関特演についても、火事場泥棒的な徴発として消極的だった。

 

  ***

 [つづく]

 

大元帥 昭和天皇 (ちくま学芸文庫)

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  • 作者:山田 朗
  • 発売日: 2020/07/10
  • メディア: 文庫
 

 

 ◆参考メモ

 

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