戦争に関して大手メディアの動きをたどり、その責任の一端を明らかにする。
◆メモ
新聞は第四の権力と評されるように、世論形成や誘導に絶大な影響力を持つ。
また国民が正しい情報を知ることできるかどうかは、民主主義の根幹にかかわる。
この点で、日中太平洋戦争における新聞は間違いなく失敗戦争の責任を負っている。
新聞は、満州事変以後軍部との癒着や軍部による脅迫によりその言説を歪めていくが、追従と抵抗のあいだをある程度往復しており、初期にはまだ志が残っていたことが確認できる。
メディアを権力の1つと考えれば、会社の経営や身の安全を優先して虚偽報道を行い権力に追従することは、罪に加担したことと同じである。
本書の中にある言葉や場面……「国賊朝日をやっつける」や「国難がやってくる」などは、いまもよく聴こえる言葉であり非常に興味深い。
メディアと権力との歴史は常に繰り返している。
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1 自らを罪するの弁 新聞と検閲
敗戦直後、二大新聞の『朝日』と『毎日』は反省文を掲載し首脳部は総辞職した。
満州事変以降、新聞は実質的に軍・政府と一体化した。
当局による規制があったものの、進んで満州事変を賛美したのは新聞社自身である。戦況報告によって『朝日』、『毎日』、業界三位の『読売』は部数を拡大させた。
戦後の反省弁によれば、新聞社は言論の自由と事実の報道よりも、会社と社員の保全を優先した。一方で、小規模の『福岡日日』は軍部批判を続けた。
言論統制の根拠は新聞紙法であり、特高警察がすべての新聞社の紙面をチェックし、必要に応じ懇談、差し止め等の処分を行った。
満州事変が勃発すると禁止事項が増大し、また執行(差し止め等)も増大した。当局による出版差し止めは新聞社によって大きな打撃となった。
2 日中対立から満州事変への道
日露戦争の勝利に伴うポーツマス条約(1905年)により獲得した満洲権益とは……
・韓国への日本の指揮監督権
・旅順・大連の租借権と満鉄の獲得
・樺太とその付属諸島の獲得
以後、満蒙特殊権益は日本の行動を束縛する存在となった。
1914年、大戦中に日本が突きつけた21か条要求は中華民国を激怒させ(最後通牒により受諾させた)、日貨排斥運動が起こり、また1918年の五四運動へとつながった。
1920年以降の原内閣から若槻内閣まで、国際協調を掲げる「幣原外交」により、中国の反日ナショナリズム運動は緩和された。しかし1927年の田中義一内閣以降外交方針が変わり情勢はふたたび悪化した。
・蒋介石の北伐
・山東出兵と済南事件
・張作霖爆殺事件
・張学良の蒋介石国民革命軍への帰順
間島は現在の延辺朝鮮族自治州にあたり、歴史的に朝鮮人移民が多く、中国人との間で衝突をおこしていた。また間島の帰属をめぐって当初は清とロシアが、次に中国と日本が対立していた。
1930年の間島暴動(朝鮮人独立派と中国共産党による)の余波で、多数の朝鮮人が満洲の他地域へ移住を強いられた。
1931年、万宝山事件(朝鮮人入植者と中国人との対立)や中村大尉事件では、新聞が反中国感情を煽った。
満州事変前夜、『朝日』は緒方竹虎などを筆頭に、まだ軍部に対する批判的姿勢を表明していた。
ところが満州事変後は軍の強硬主張に賛同するようになった。
3 満州事変
満州事変の計画者たち……石原莞爾、板垣征四郎、花谷正(参謀)、参謀本部支那班長根本博、ロシア班長橋本欣五郎、第一部長建川美次、朝鮮軍司令官林銑十郎(独断越境)。
朝日新聞が突如関東軍賛美を始めた原因……国を挙げての戦争を応援すべきだというナショナリズム、不買運動への配慮。
また、事変直後、参謀本部が右翼の大物である黒龍会内田良平を派遣し、かれが新聞社を恫喝した記録が残っている。
朝日新聞は事変勃発後の10月に、幹部会議において事変支持の方針を決定した。
毎日新聞はより軍に追従的であり、「毎日新聞後援、関東軍主催、満州事変」と揶揄された。
大手二紙とは反対に、軍部や事変を批判した人びともいた……石橋湛山、帝大新聞の横田教授、河北新報。
4 上海事変と肉弾三勇士
満州事変から国際世論の眼を背けさせるため、軍は謀略により上海事変を引き起こした。具体的には、上海において中国人を雇って日本人真宗僧侶を殺させ、すぐに右翼団体に報復させ、軍事介入のための契機をつくった。
上海事変中に、爆弾三勇士の美談が捏造され、新聞社が中心となり様々なイベント(義援金、作詞コンテスト、映画化)が催され、三勇士産業の様相となった。
内務省の秘密文書に聴き取り記録があり、これによれば、3人は爆弾を置いて避難しようとしたが設置を命令されそのまま爆死したという。
5 国連脱退
国際連盟による批判や、翌1932年のリットン報告書は、軍や国民のなかに強い怒りと反感を引き起こした。
陸軍が世論指導計画に基づいて国民とメディアを操作していたのもあるが、新聞もこぞって国際連盟への非難を掲載し、脱退を呼びかけた(一部の新聞は脱退には否定的だった)。
――「敢然脱退すべし」「危機は連盟に日本は利益」「国際関係の悪化杞憂に過ぎず」「経済封鎖恐れじ我等、世界に誇る大海軍」
国連を脱退すれば、自由に行動できるようになる、という意見が大勢を占めた。
松岡外相は国連脱退を宣言したとき、非常に意気消沈し、国内での反発を恐れて当初米国に滞在しようとした。
ところが国民は歓迎ムードであり、英雄として帰国した。
清沢冽は、軍需産業だけでなく新聞社も戦争で儲けていたことを指摘する。
――「日本はこの14年間、連盟の常任理事国として大きな役割を果たしてきた。二人の事務次長、新渡戸稲造氏と杉村陽太郎氏は多くの人びとの支持と尊敬を得ていた。しかし、日本はいま立ち去ろうとしている。……日本は世界に孤立し、いったいどのような見通しを未来に持っているのか。前世紀ならいざしらず、もはや国際社会に孤立して生きることはできない。日本はそのことに気づいていない」(『ジュルナル・ド・ジュネーブ』)
6 五・一五事件
五・一五事件が発生したとき、ほとんどの新聞は行動を批判したものの、首謀者たちには同情的だった。福岡日日新聞の菊田のみが、暴力行為を徹底して批判した。
7 軍民離間と言論統制
言論統制に関与したのは軍部、在郷軍人会、右翼、政治家、軍国主義者、国内革新派、暴力団だった。
かれらは直接的なテロ・暴力、脅迫・威圧、不買運動、謝罪要求などで言論を屈服させていった。
財界は、当初満洲国が産業界を排除したため、後年まで軍に批判的だった。
桐生悠々は軍部の政策を批判したため新聞社を追放された。
満州事変のときに新聞社が挙国一致を煽り建てたため、このときには軍部に意見することが憚られるような空気が醸成されていた。
新渡戸稲造は軍閥の危険性を指摘し、また国連脱退を批判したため、記事の謝罪撤回を余儀なくされた。
五・一五事件当時、電通社長光永星郎が各新聞社を集めて、「軍部に忖度しよう」という方針を定めようとしたが、このときは拒否された。
――「今回は軽々に速報することが場合によっては皇軍の威信を傷つけるところあり、国家的見地よりよろしく陸海軍の面目を失する報道は協定して慎みたい」
軍は、「軍民離間」を惹起するような言論を厳しく取り締まると声明を出した。
代表的な対象は平和論である。
1936年に「国難」が来るとのキャンペーンを張り、危機を煽り建てた。
その後、軍事費が国家予算の半分にまで膨張すると再び政党政治家・新聞は批判した。
[つづく]
◆参考
the-cosmological-fort.hatenablog.com
the-cosmological-fort.hatenablog.com