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『流転の王妃の昭和史』愛新覚羅浩 ――血統がいい人の話

 愛新覚羅溥傑(溥儀の弟)と政略結婚させられた嵯峨侯爵家出身者の自伝。

 著者は終戦で夫の溥傑と離別したあと、周恩来の取り計らいで中国に戻り夫と再会、その後北京で生活した。

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 ◆所見

 嵯峨家はもともと正親町三条と名乗っており明治天皇に近い血統であることから著者の価値観にも血統が強く反映されている。結婚相手の溥傑やその親族は、清朝の血をひくことから優れた素養を持っているととらえられる。

 後半の長女に関する章はあまり興味がわかなかった。

 

 溥儀、嵯峨浩、ジョンストンなど、満州国関係者の自伝はどれも100%事実を伝えているわけではないらしく、偏見やうそが含まれているとされる。自伝だけでなく学者による研究や説明も参考にする必要がある。

 

 終章において著者は、「わたしは普通の日本人の2、3倍も激動の人生を送ってきた」と書いている。

 確かに著者の生まれや経歴は一般人とはかけ離れたものだが、物資窮乏の時代や敗戦直後も子供をヴァイオリン教室に通わせたりと十分な暮らしをしている。

 戦争中に一般人が受けた苦痛を考えると、このような考えは思っていても言えないものである。わたしのような平凡民としてはまったく共感できない価値観である。

 

 

  ***

 1

 昭和11年(1936年)、23歳だった著者は、満洲国皇帝の弟溥傑と婚約することが内定した。これは関東軍(宮内府の吉岡)と、侍従武官の本庄繁大将が断りなく決定したことだった。

 溥儀と夫人・側室との間に子供が生まれなかったため、関東軍は、溥傑(陸士卒業後、千葉の歩兵学校に入校中)と公卿華族の娘を結婚させようと考えた。関東軍と軍の横暴は各所で見られたが、当人たちはお互いに気に入り結婚することになった。

 

 皇太后に謁見の際は、聞きなれない宮中言葉や礼儀作法を覚えるのに苦労した。同じようなことが、満洲に渡ってからも繰り返された。

 結婚式の後しばらくは千葉に居住したが、日中戦争の勃発とともに2人は満洲国に向かった。

 

 

 2

 新京で溥儀夫妻と晩餐するが、夫人(エンヨウ)はすでにアヘン中毒で、食欲が麻痺しているため何度も七面鳥を食べていた。

 

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 日満友好の名目で結婚したが、満州国関東軍との間には溝があり、とても友好的な雰囲気ではなかった。

 

 著者が第一子を出産したときのこと。

 

 ――……ひとり宮内府宮廷掛をつとめる関東軍の吉岡大佐だけは男児でなかったと知らされるや、手にした祝いの品を部下の者に「それ」と投げるようにして渡し、顔も見ずに帰ってしまわれたということです。

 

 著者は近所の子供たちを通じて、日本人や関東軍の横暴を知った。

 著者自身も、上尉(溥傑の階級)の妻ということで吉岡らから冷遇された。

 

 ――吉岡大佐にかぎらず、「五族協和」のスローガンを掲げながらも、満州ではすべて日本人優先でした。日本人のなかでも関東軍は絶対の権力を占め、関東軍でなければ人にあらず、という勢いでした。

 

 一方では中国と戦争し、一方では満州国と友好を深めているという矛盾を解決するため、関東軍満洲人なる民族を創設し、その祖先を祭るため神道を強制した。

 こうした行為は満洲国内の中国人の怒りを買った。

 

 

 3

 王府、紫禁城等の訪問について。

 

 溥儀は同性愛者であり夫人と仲良くなかったと記載されている。

 

 昭和18年、大戦末期に溥傑が陸大に入校したため、著者らは東京での生活を再開した。物資は窮乏していたが、溥傑は特に気にせず雑炊やすいとんを食べたという。

 

 新京において溥傑は蒙古徳王と会談したが、そのとき溥儀について詰問された。

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 ――われわれ蒙古族が溥儀皇帝をわれらが王としていまだ尊敬しているのは、清朝の直系なればこそです。……ところが、どうです。満州は日本の植民地にされてしまい、皇帝は手をこまねいてみておられるだけだ。はっきりいって、私たちは不満です。これでは日本のロボットではないですか。

 

 溥傑は次のように回答した。

 

 ――はっきり申します。兄上は日本軍を信用しすぎたのです。おっしゃるとおり、いまの皇帝はまったくのロボットです。……でも、武力や権力だけで、民族の心が抑えられるものでしょうか。

 

 吉岡が、飲み屋の娘を貴婦人と偽って溥儀の側室にしようとしたため、満人たちは激怒した。

 

 ――皇帝なんて、かわいそうなもんさ。身寄りもなし、跡継ぎもなし、わしが世話してやらにゃ、どうにもなりゃせん。うん、まあ早い話、わしの子供のようなものさ。

 

 ――ほう、貴様は満人びいきか、それならいつでも首にしてやるぞ……

 

 「関東軍天皇、満鉄=中将、警官=少佐、残りの日本人は下士官、満人は豚」という言葉が流布した。

 

 

 4

 ソ連が空襲を行い、大軍で攻めてくると、吉岡中将は意気消沈し、新京を棄てて逃げなければならないと告げてきた。著者は関東軍の体たらくとだらしなさに失望した。

 

 ――無念のおもいを必死に耐えているのでしょう、眼には涙が光っていました。……吉岡中将は御用掛という権威をかさに、宮内府に着流しでゆかれ、そのまま御前に伺候するということを平気でする方でした。皇帝をはじめ日満の職員に嫌われていた傲慢な人物でしたが、それでも日本人でした。

 

 ――「さすがは関東軍の精鋭だ。負けるのも早いが、逃げ足も早い」

 

 ソ連軍や暴徒、八路軍などから逃げまどい、その中で親族たちの心の醜さがあらわになる。

 著者らは共産党軍のトラックで通化に移送された。

 

 

 5

 八路軍の公安局に拘束された著者ら一行は、通化事件――国民党軍と日本軍残党による通化奪回作戦―――の戦闘に巻き込まれた。

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 その後吉林で収容されたが、エンヨウ皇后は次の様子だった。

 

 ――阿片が手に入らなくなったため、禁断症状に苦しむようになったのです。……食事だけは召し上がりますが、用便はもうご自分でできなくなっておられました。

 

 ――皇后は下着だけになっておられ、……大小便が垂れ流しとなっていたため、ひどい臭気でした。

 

 その後、一行から外され、小さな町でだれにも知られず死んだという。

 紆余曲折を経て、著者は日本に帰国した。溥儀や溥傑はソ連軍に捕えられた。

 

 

 6

 帰国後の生活や子供たちの教育について。

周恩来に手紙を送った長女

学習院で人気者の長女

 

 

 7

 著者の血統主義的な台詞。

 

 ――……あなたがこの地球上でたった二粒の清朝直系の胤なの。中国はたしかに変わったわ。でもエコちゃん、あなたが清朝の大切な血を受け継いだ人間であることだけは、変えようもないのよ。

 

 長女の心中事件について(略)。

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 8

 溥傑との再会やその後について。

 中国での生活に際しては、周恩来から様々な支援を受けたという。文革のときも、周恩来の指示で、著者や溥傑に対する攻撃が取りやめとなった。

 

流転の王妃の昭和史 (中公文庫)

流転の王妃の昭和史 (中公文庫)