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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『韓国併合』海野福寿 ――植民地政策の時代


 明治政府による朝鮮保護領化から併合までを時系列で説明する本。

 

 ◆所見

 著者の立場は、韓国併合は、当時の国際法上は適法だったものの、道義的には問題があったというものである。

 

 明治政府は設立後すぐに台湾や沖縄、朝鮮などの獲得に乗り出しており、完全な帝国主義政策を実行した。

 日清戦争日露戦争はともに朝鮮と満州を誰が手にするかという争いであり、朝鮮側からすれば侵略国同士の戦争である。

 

 当時は国際関係に関する倫理が現在とは異なっており、日本は他国と同じように、植民地化・領土拡張を当然の事業ととらえていた。

 日露戦争は、ロシアの南下を阻止するために英国が日本に援助を与え実施させた代理戦争だった。

 

 軍隊の進駐、内政外交への介入、軍事力を背景にした強制的な「自主的な併合受入」など、当時の国際法や国際関係に配慮してはいるが、実態は明白な植民地化である。

 その過程で多くの叛乱が発生し、また討伐・弾圧行為があったため、現在でも遺恨を残している。

 

 欧米列強の植民地支配を批判するなら、日本による植民地化も当然批判の対象となる。

 韓国側の教訓は何か……軍事力がなければ中立と主権は維持できないということ。

 

 

  ***

 1 朝鮮の開国

 明治政府の朝鮮との国交は1868年から始まったが、当時の政府運営者は朝鮮蔑視思想を持っており、書契の文言をめぐって朝鮮外交担当とトラブルになった。

 大院君政権は清朝冊封体制に組み込まれていたが、日本政府は自らを宗主国と規定する言葉(皇、勅)を用いた。

 大院君に続き、高宗と王妃一族の閔氏政権となり、譲位鎖国政策を緩和した。しかし、高圧的な日本政府との関係は修復しなかった。

 

・1875年 江華島事件

 日本は朝鮮に対し砲艦外交を行った。

 

・1876年、森有礼に続き黒田清隆が日朝交渉を行った。その目的は近代国際法に則った国交条約の締結だった。

 

 日朝修好条規と貿易規則の締結により、釜山が開港し、日本公使が漢城(ソウル)に常駐するとともに、日本町は租界と同等の治外法権区域となった。日本商人の進出に韓国政府は危機感を抱いた。

 

 

 2 「軍乱」とクーデター

 清の李鴻章は、朝鮮を伝統的な保護国とみなしていたが、日本の進出に危機感を覚えたため、各国に同様の条約を結ばせることで互いにけん制させる戦略を進めた。

 

・1882年 壬午軍乱

 攘夷派大院君のクーデタ失敗、清国の宗主国支配強化

・1884年 甲申事変

 開化派のクーデタ失敗、李鴻章袁世凱による統制強化

・清の朝鮮支配が強まるにつれて、日清の対立が深まっていった。

 

 

 3 日清戦争前後

 1984年、甲午農民戦争鎮圧のために日本・清が互いに軍を進駐させるが、その後も撤兵しようとせず、開戦となった。

 

 日清戦争により、清の影響力は排除され、朝鮮は日本の下での独立を保障された。

 これは、あくまで日本が権益を独占するための独立だったため、朝鮮国内では反乱が相次いだ。

 

・乙巳事変

・義兵闘争

 

 開化派は、近代国家の建設こそ標榜していたものの、実際には日本の片棒担ぎとして同胞から敵視されていた。

 

 やがてロシアが満洲・朝鮮に進出を試みたため、日本側は満韓交換論を提案した。しかしロシアはこの提案を拒否した。

 日本とロシアという侵略国同士の関係が決裂し、日露戦争となった。

 韓国は中立を宣言したが日本に無視され、「日韓議定書」に調印させられ軍の駐留や協力を強いられた。

 

 ――中立国が中立を維持できる条件は、他国による領土侵犯を排除しうる防衛力を自らもつが、中立を保障した担保国が中立国を援助し、中立侵害を許さないか、にかかる。

 

 

 4 日露戦争下の韓国侵略

 日露戦争の開戦と同時に、日本は韓国に対し議定書の締結をせまり、さらに漢城に日本軍部隊を進駐させた。

 名目上、朝鮮の独立を守ることを掲げていた一方で、明治政府は植民地経営の準備を始めていた。

 やがてこの名目も捨てて、第二回日英同盟協約では韓国の保護国化を英国に了承させた。

 日露間のポーツマス講和では、韓国が日本の保護領となることを明記した。

 

 

 5 保護国化をめぐる葛藤

 植民地化という語を日本は慎重に避けていたが、保護領化に対し韓国では様々な反対運動や闘争が発生した。

 

・皇帝による、列強・国際社会への反対訴え

・義兵の蜂起

伊藤博文初代統監(朝鮮統監府)、長谷川好道韓国駐箚軍司令官への非難

・統監府は国内政府や国会からも独立しており、完全に天皇の直轄として親政を行う権限を持っていた。つまり、日本が名目上掲げていた近代国家機構から外れた統治だった。

・内政外交の掌握、軍隊の解散

・高宗皇帝を子の純宗皇帝に強制譲位させた。純宗皇帝は、幼少時に毒を盛られ知的障害を持っていた。

・解散させられた軍隊による反乱、義兵の叛乱

・ゲリラ討伐の過程で、村落の焼き討ちや虐殺があった

・抗日ゲリラや義兵の一部は、満州や間島(現在の延辺朝鮮自治州)に逃げた。

 

 

 6 韓国併合への道

 伊藤博文は、韓国併合に反対であり、保護領という間接的な形式によって朝鮮人を懐柔し、服従させることができると考えていた。

 しかし、相次ぐ叛乱により挫折した。

 

 一方、日本国内世論は韓国の併合に積極的だった。韓国の親日派と、当山満や内田良平黒龍会)はお互いに連携し併合のため圧力をかけた。

 1910年、寺内統監は李完用首相に対し韓国併合条約の受諾を迫った。

 

 ――……日本が韓国「扶翼」のために保護してきたが、それでは施政改善の目的を達成できないので、韓国皇室と韓国民のために韓国を併合する、という論理は、保護から併合への転換を正当化するために必要だった。

 

 このため寺内は、皇帝が自発的に併合を求めた、という形式にこだわった。

 併合に際し「韓国」という名称は廃止され「朝鮮」(これ自体は蔑称ではない)となり、皇帝は王に格下げとなった。

 

 同化政策に基づく統治においては、「植民地」ではなく「外地」という語を使った。

 日本国内では、韓国併合に反対する新聞や世論はほぼなかった。また、以後朝鮮に対する蔑視がさらに悪化することになった。

 

 現在でも、朝鮮統治が朝鮮に恩恵を与えた論が強く、外交上の火種となっている。

 

韓国併合 (岩波新書)

韓国併合 (岩波新書)

  • 作者:海野 福寿
  • 発売日: 1995/05/22
  • メディア: 新書