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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『KGB衝撃の秘密工作』スドプラトフ その1 ――NKVD暗殺の歴史

 

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スターリン時代に暗殺作戦を担当した人物が亡命後に出版した回想録。

 

パーヴェル・スドプラトはちょうど大粛清の時代からNKVDの下級工作員として働き始めた。

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粛清で上の人間が一掃されると、モスクワに呼び戻され、スターリンから直接、トロツキー暗殺の指令を受けた。

以後、かれは特殊任務局長として、原爆開発におけるスパイ工作や、スターリンの様々な粛清事件を担当した。

スドプラトフのキャリアはベリヤの権勢とほぼ一致しており、ベリヤが失脚すると、かれの部下だったとして逮捕され、以後長い間牢獄の中にいた。

本書は、1992年にアメリカのジャーナリストが、息子アナトーリーの協力の下、スドプラトフ本人から聞き取った回想をまとめたものである。

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  ***

 

◆所感とメモ

本書は、核のスパイに関する部分で特に論争が多いものの、ソ連内部の動きやスドプラトフ自身の体験した部分の多くは非常に確度が高いとされている。

スドプラトフはスターリン時代に秘密作戦(海外工作、破壊活動、暗殺)の中心にいた人物であり、かれの回想は自身の活動だけでなくソ連社会や歴史上の多くの事実を浮き彫りにした。

 

  • 秘密組織職員となる恩恵として、正式にその子弟への縁故入学等が約束されており、新しい身分制社会を思わせるものだった。
  • ソ連の核開発に関するスパイの話は、刊行当時議論を巻き起こした。スドプラトフによれば、原爆の開発情報をソ連に渡した科学者たちは、「2大国による勢力均衡が平和をもたらす」という信念を持っていた。

 

スドプラトフは科学者たちとつきあううちに、彼らが自らを新種のスーパー政治家であってその使命は国境を超えると考えていることを知った。スドプラトフのチームは、科学者たちのこの自惚れを利用したのだ。

 

 

  • スドプラトフ自身は、強烈なソ連体制の信奉者でありつつ、ソ連の体制に疑念を抱くこともあり、忠誠心は揺れ動いている。各所に見られる、西側諸国に対する挑戦的な言葉が面白い。
  • かれはNKVD時代に直接の暗殺や暗殺指揮に従事しているが、その働きはソ連体制への絶対的な信頼に基づくものだった。
  • ウクライナバルト三国ポーランド民族主義は強固であり、戦後も武装闘争が続き、スドプラトフら秘密警察はその破壊に従事した。ソ連崩壊後から現在にいたる民族紛争は、ただ共産主義によって抑圧されていたに過ぎない。
  • 一蓮托生となっていたベリヤに関する評価は高く、かれの性犯罪等についてはあまり言及されていない。そして、自身を失脚させたフルシチョフに対しては敵意をむき出しにしている。
  • スウェーデン人外交官ヴァレンベリ暗殺をめぐる書類の抹消・破棄について語られる。またポーランドカチンの森における将校団虐殺に関しても、ソ連はすべての証拠を抹消した(しかし完全には破棄できずソ連崩壊後に発見された)。
  • 権力闘争の細部まで書かれているが読んでみると政治的キャンペーンのほとんどは単なる手段で、目的は政敵を失脚させることだけである。
  • ソ連崩壊後に公文書を駆使し多くの伝記を書いたヴォルコゴノフに対する言及がある。ヴォルコゴノフは公文書を自由に閲覧できる立場にあり、スドプラトフの助けを借りてトロツキーの関連文書を見つけた。そして、『トロツキー』伝記の中で、ヴォルコゴノフはスドプラトフの功績を取り上げた。それは、かれの名前と業績が初めて表に出た瞬間だった。

 

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ヴォルコゴノフの著作は完全ではないが、ソ連の歴史研究上重要であるとスドプラトフは考えている。

 

保安機関の変遷

ソ連の情報・保安機関は常に組織改編を行い名称や編制を変えた。スドプラトフの所属した特殊任務局はNKVD時代に、対外情報部INOとともに創設された。

 

 1917年 CHEKA
 1922年 GPU/NKVD
 1923年 OGPU
 1934年 GUGB/NKVD
 1941年 NKGB
 1941年 GUGB/NKVD
 1943年 NKGB
 1946年 MGB
 1953年 MVD
 1954年 KGB
 1991年 MB
 1991年 SVRが分離
 1993年 FSK

 

プロローグ

スドプラトフはソ連の正義をまったく疑ってこなかった。しかし第2次世界大戦が終わると、ソ連のやり方に疑問を持った多くの同胞が投獄された。このことはソ連に弱みを作り出した。

 

だが西側の皆さんのなかにも弱点はある。……アメリカの多様性……われわれはこれらのコミュニティのなかに、両国間で戦争が起きたときには、米国を破壊する用意のあるエージェントを数千人も用意していたのだ。

 

スターリンとベリヤは、政治家と犯罪者、両方の素質を持っている。かれらは数々の不正や非道を行うと同時にソ連超大国にした。この回想録はスドプラトフの経験をもとにその活動を明らかにすることが目的である。

 

1 発端

スドプラトフはウクライナで生まれた。ロシア革命が始まるとウクライナの内戦に巻き込まれた。

当時のかれはブハーリン共産主義入門を読み、理想のためにボリシェヴィキの軍隊に加わり、ウクライナ民族主義者や白衛軍と戦った。小学校を出ており、読み書きができたため、通信および暗号解読班で勤務した。そこでチェーカーの委員長ジェルジンスキーの命令を復号したが、これは後のキャリアの糧になった。

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その後かれはNKVDに採用され、ロシア内戦における海外浸透工作に従事することになった。

組織潜伏前に出会った妻は、スドプラトフよりキャリアの長い工作員だった。妻はブロンドに青い目のユダヤ人だったため、ドイツ人の中に潜伏し活動した。

 

国外活動のためアジトで週5日間ドイツ語を訓練し、また銃器の取り扱いや戦闘について学んだ。その後ウクライナ民族主義者の一員になりすまして、組織に潜伏し、指導者の信任を得て地下組織の動向を探った。

 

1930年代、ウクライナクロアチア民族主義団体に対しては、ドイツ国防軍の情報機関アプヴェーアが大規模な資金援助を行っていることがわかった。

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かれは帰国途中、フィンランド国境で捕らえられるが無事解放され、その成果はスターリン以下ウクライナ共産党首脳部にも報告された。かれは赤旗勲章を受けた。

その後も、ウクライナ民族主義者のリーダー、コノヴァレツの腹心として西側に渡り、情報を収集した。

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1937年、かれはNKVD長官エジョフと面会した。

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……私は彼の凡庸な外見にショックを受けた。彼は諜報技術の初歩的事項についてばかげた質問をした。情報提供者の扱いについての基本も知らなかったのだ。……かれがどんな知的資質によってこんな高位についたのか、私は本当に理解ができなかった。

 

そのままエジョフに連れられスターリンと面会することになり、スターリンウクライナ民族主義者の情勢を報告した。組織は分裂状態だが、問題はコノヴァレツがドイツから資金を受けて対ソ戦を準備していることだった。

 

「で、君たちの提案は?」とスターリンが尋ねた。

 

エジョフは黙っていた。私も黙っていた。今、答えは用意しておりませんと答えた。

「じゃあ一週間以内に提案を用意してくれ」とスターリンは言った。

 

かれはスターリンの命令を受けて、コノヴァレツをチョコレート型爆弾で爆殺した。逃亡しそのままスペインに向かい、NKVD指揮下のゲリラ部隊に参入した。 

 

 

2 スペイン

スペイン内戦では、反乱軍と共和国軍が戦うと同時に、共和国軍内部ではスターリン派とトロツキー派が内部抗争を展開した。

スドプラトフは、特殊任務局の上官レオニード・アレクサンドロヴィチ・エイチンゴンと、後のトロツキー暗殺の下手人となるラモン・メルカデル・デル・リオと知り合った。

海外に正式の外交拠点を持たない当時のソ連にとって、非合法活動部門は非常に重要だった。

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1938年7月に帰国後、かれはNKVD国家保安管理本部責任者ベリヤと面会した。ベリヤは、非合法活動に精通しており、著者の情報工作について詳しく知りたがった。海外での切符の買い方や駅の様子、アジトの出口・非常口確認等について質問された。

エジョフは無能で知られていたが、組織内の粛清のため特別捜査部を設置し強引な自白偏重捜査を行っていた。

 

ソ連は名目上、スペイン共和国政府を支援していたが、1937年には、共和国政府が保有する金塊5億ドルを秘密裡に没収しモスクワに移送した。このプロジェクトを担当したアレクサンダー・オルロフは優秀な工作員だったが、粛清の不安からアメリカに逃亡し、スターリンに対し直接暗殺をとどまるよう手紙を送った。オルロフはスターリン死後に暴露本を書き有名になったが、脚色が多いとされる。

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スドプラトフは対外情報部長官パゾフの特別補佐官として、亡命者やトロツキストの暗殺を指揮した。

1941年に不審死したクリヴィツキーも暗殺対象だったが、かれによればNKVDの仕業ではなく自殺である。

 

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3 粛清時代

 

ソ連からの亡命者が死んだり政治活動家が暗殺されたときに、それを利用しない手はない。

 

1934年に殺害されたキーロフは、多数の愛人を作っていた。かれは、不倫相手の夫によって射殺された。これをスターリンはライバルの陰謀に仕立て上げ、フルシチョフゴルバチョフスターリンの陰謀に仕立て上げた。

キーロフは、悲劇の人物という一般的なストーリーとは異なり、スターリンの信奉者として熱心に政敵を粛清していた。

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私たちは、無実の人びとに対して申し訳なかったと思わざるをえない。

 

NKVDは皆事件の真相を知っていたが、「支配権力でありソヴィエト人民の道徳的手本であるはずの党にとって大変なダメージなるため」、これまで真相は隠されてきた。

 

上司のスルツキー、パゾフが逮捕されたため、スドプラトフはベリヤとその部下メルクーロフから対外情報部長に命じられた。NKDVは、海外において合法と非合法、2つのネットワークを持っていた。

もう1つの部署である特殊任務局は、純粋な非合法活動および暗殺を任務とする工作員を抱えていた。

 

エジョフ粛清については、ベリヤが陰謀をでっち上げたのが真相だった。スドプラトフは、そのときたまたま上級役職についていなかったおかげで処刑を免れた。

 

スドプラトフの知人(粛清された)が話していたジョークについて。

 

「五カ年計画も4年目になると、賄賂で培ったコネこそが計画達成のカギになる」

 

スドプラトフも嫌疑をかけられ、2か月間窓際族になり、逮捕が近づいているように思われた。しかし、ベリヤに呼び出されると、再びスターリンの前に連れていかれた。

 

 

4 トロツキー暗殺

 

スターリンの率直な反応は今でも私の心に残っている。そのような人間が人を欺くなど考えにくいことだ。彼の反応はそれほど率直で、みじんも気取りを感じさせなかったのである。

 

かれは対外情報部長代理となり、トロツキー暗殺作戦の指揮官にされた。

1929年に、政争に敗れてソ連を追放されて以降、トロツキー世界同時革命を掲げて国外で運動を広げ、ソ連の地位を低下させていた。トロツキースターリンの敵であり、国家の敵だった。

スドプラトフは、自分と同じように当局から監視されていたエイチンゴンを呼び出し、トロツキー暗殺用の工作員採用を始めた。

 

暗殺後、引き続き対日工作やアメリカ浸透工作を指揮した。当時ソ連は日本の参戦を恐れていた。

 

5 ヒトラースターリン

スドプラトフはトハチェフスキー失脚の原因を、かれの越権行為とヴォロシーロフ非難に帰し、ドイツ情報機関工作説を否定する。

 

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スターリンは、二正面作戦を回避しソ連超大国にするため、イデオロギーを捨てた。しかし、独ソ不可侵条約はほぼスターリン単独の判断だった

その後ソ連は、バルト三国などを情報機関によって操作しようと積極策を取り始めた。それをスドプラトフは担当した。

 

先にも述べたように、クレムリンにとって共産主義の使命は第一に、ソ連の国力を強化することだった。軍事力を持ち周辺諸国を支配することのみが、われわれに超大国の役割を確保してくれるのだ。

共産主義革命を世界に宣伝するという考えは、わが国の世界制覇の野望を隠すイデオロギーの幕だった。

 

スドプラトフはベリヤに気に入られ、他の高官とともにサッカー観戦に招かれた。

 

その後、かれはガリツィア地方の民族主義者の監視を担当した。ここで浸透作戦をめぐってフルシチョフと険悪になった。フルシチョフは人を見る目がなく、部下のウスペンスキーが捕まるとしがらみを断つためその妻もろとも処刑せよと命じた。

 

一般にベリヤは、地位の高い者と話すときは、極端に無礼な言葉を使っていた。それでいて、名前も知らぬ平職員に対しては、つねにていねいで行き届いていた。その後、それがソ連の組織のルールだとわかった。

無礼はトップレベルの人間に対してのみ示されるのだ。普通の人の前では、党政治局のメンバーは、尊敬すべき同志らしく振舞った。

 

スターリンモロトフ独ソ戦を不可避と考えていたが、ドイツの電撃戦遂行能力を見誤っていた。情報機関も、必要な情報を提供していなかった。

 

1941年4月、NKVDが(諸説あり)ユーゴスラヴィアでクーデタを行うと、すぐにヒトラーはドイツ軍を送り政府を打倒した。ヒトラーは信用ならない動きを見せていたが、スターリンはまだ協定が可能であると考えていた。

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開戦直前には、ドイツが侵攻するのか、平和的解決を求めるのか、矛盾する情報が錯綜していた。

開戦のとき、スドプラトフは自分の職場で当直につき居眠りしていた。

[つづく]