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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Ivan's War』Merridale, Catherine その2 ――第二次世界大戦のソ連兵の体験談

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 8月までにソ連ウクライナベラルーシバルト三国の大半を失い、またレニングラードは包囲された。秋にはドイツ軍、ソ連市民の多くが破滅を確信していた。

 モスクワ防衛を担ったのはNKVD特殊部隊自動化歩兵旅団「OSMBON」だった。かれらは外敵と戦うよりも、市内の略奪防止に注力した。

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 11月から始まったモスクワの戦いにおいて、ドイツ軍の侵攻は赤軍によって食い止められた。モスクワは包囲を免れた。モスクワはじめ各都市では人民自警団が編成された。

 

・体制の恐怖支配をもってしても脱走は減らなかった。戦争がはじまり、恐怖(テロ)による統治は徐々に効力を失っていった。将軍や将校の脱走、任務放棄も多く、特に大粛清で昇任した将校は部下を鼓舞する能力がまったくなかった。

・ドイツ軍は各地でユダヤ人や赤軍捕虜を殺害した。ある村ではドイツ兵たちがソ連兵を建物に閉じ込め生きたまま焼き、逃げようと飛び降りた者を射撃した。

・ドイツ軍の占領地ではどこでも大量射殺がおこなわれたが、その大半はアインザッツグルッペンではなく国防軍が実施した。

 

 ドイツ軍の暴力や、集団農場温存策に、農民たちは間もなく反発した。

 

スターリンの威信保持に腐心する宣伝者や秘密警察たち。

・占領地ではスターリンの指令によりパルチザンの活動が始まった。1942年には約2万人のパルチザンがいたとされる。最大の効果は妨害活動(サボタージュ)よりも住民の統制(支配)だった。

・1942年春までに、赤軍は200万人程の死者を出していたが、士気に影響しないよう、この数字は隠された。

・この時期最大の激戦地はクリミア半島・ドン河沿岸だった。ケルチKerchでは多数のソ連兵・市民が地下トンネルの中で死んだ。

 

 1942年7月、ドイツ軍はロストフとノヴォシビルスクを占領し、コーカサス、さらにスターリングラードへ向かおうとしていた。

 

 

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 7月にスターリンが発した命令第227号は督戦隊編成や、懲罰大隊について示したもので、冷戦末期まで非公開だった。中央の指示なしに後退した者は容赦なく処罰されることになった。

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・指揮官は懲罰大隊に優秀な者を入れるのを嫌がったので、無能や個人的な友人が送られ、仲間の射殺ではなく洗濯など雑用に従事した。その後懲罰隊は廃止された。

・この時期に軍を混乱させていた能力に欠ける将官……ヴォロシーロフ、メフリス、ブジョンヌイらは更迭され、より若く、軍事的能力を持った将校が任務についた。

 

 政治将校(ポリトゥルック)は権威を失った。

 

疎開した生産拠点が再稼働し、また米国からのレンドリースによる物資が軍を支援した。

・表彰の数は米国の10倍で、約1100万人が勲章を受けた。服装や装具が充実し、将校の特権(肩章など)が復活した。

・兵士の大多数が若い補充兵に入れ替わり、また緒戦を生き延びた古参たちが精鋭となった。新兵たちは過酷な訓練隊を乗り越えた後、激戦地に送られた。

・女性兵の採用が始まり、主にスナイパーとして前線任務についた。

 

・1942年8月、ドイツ第6軍(パウルス)と赤軍26軍(チュイコフ)との間でスターリングラードの戦いが始まった。

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・兵たちは屍体から装備や弾薬をはぎとった。飲料水のほとんどは腐敗で汚染されていた。

・大量の虱は、ねずみや猫と違って食糧にならず、兵たちを悩ませた。

 

 1942年10月、ドイツ軍は包囲され、急激に士気を喪失した。

 

 赤軍の後方では、闇市などの犯罪は増加していたが、脱走は減少していた。これは、収容所から釈放された者たちが兵として前線に送られてきたことによる。かれらにとっては、兵となって汚名を返上するチャンスだった。

 また、収容所の生活は前線よりも苦痛だったという。

 

 1943年1月にドイツ軍が降伏し10万人の捕虜を出すと、ソ連の士気は劇的に向上した。人びとは勝利に興奮し、周辺の戦線で待機していた兵たちもスターリングラード守備隊を羨んだ。

 

 

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 スターリングラードでの勝利は、ソ連兵たちの精神を劇的に変えたが、同時にスターリンと党も統制強化と宣伝に乗り出した。

 勝利はスターリンの功績とされ、50万人という犠牲者数は隠された。赤軍側は常にドイツ軍の3倍の被害を出していたがこうした数字は公開されなかった。1941年の緒戦の失敗も、英雄神話に置き換えられつつあった。

 

 1943年1月、レニングラード包囲が解除されたが、それまでに市民が苦しんだ飢餓や餓死について口にすることは許されなくなった。ソヴィエト情報局(Sovinformburo)は、スナイパー、射撃種、戦車乗り等のテンプレートを好んで、スポーツ選手のように英雄を宣伝した(ザイツェフ、女性パルチザンのコスモデミャンスカヤなど)。


 兵の大部分は読み書きのできない農民であり、将校団との間には大きな差があった。

 こうした農民たちは迷信・まじないを好んだ。信仰は表面上禁止されていたが十字架を持ち歩いたり神を信じる者もいた。兵たちはみな歌うことを好んだ。

 前線の兵たちは独特のスラングを用いて暗いユーモアや猥談に興じたがこうした精神生活は公式の歴史には決して記録されなかった。

 

・ある兵士は富農の息子ゆえに迫害され配給券を偽造していたが捕まり、戦争がはじまると懲罰大隊(shtrafniki)に志願した。

 

 犯罪者で集まる兵舎は危険で、皮をはがれて物をとられたり、盗みの為に睡眠中に殺される恐れがあった。親玉のような犯罪者が兵たちを支配していた。

 しかし懲罰大隊は徴集兵や将校以上の勇気を発揮し、尊敬を受けた。

 

・ドイツ軍の占領から解放されたクルスクには、犯罪者となった脱走兵たちがたむろしていた。占領期にはスリ、強盗、レイプが多発し、父のない赤子(レイプ被害やドイツ軍人との子供など)は食料にされた。農村でもパルチザン掃討のため多数の民間人が殺害された。成人はみな強制労働に駆り出された。

 

 ロシア領内であっても、赤軍が住民から激しい抵抗を受けることがあった。戦闘準備のため住民と家畜を疎開させようとしたが、その様子が集団化にそっくりだったので、農民はかれらが土地と家畜を収奪しようとしていると考えた。

 武装農民を排除する汚れ仕事はNKVDに任され、赤軍は直接人びとの反感を買わないよう配慮された。

 

・一般に兵士たちよりも後方の民間人のほうが食糧難は厳しく、様々な小動物の摂取が党機関によって奨励された。

 

・ドイツ軍は旧式の戦車がT-34に苦戦したため、パンターティーガーを開発した。ソ連はT-34とKVの改良生産を続けた。生産数はソ連が圧倒的に多かった。

 

 1934年7月のクルスクの戦いでは、技術や物量ではなく搭乗員の技量と精神が赤軍に勝利をもたらした。ソ連の若者にとって戦車は憧れの乗り物・職種であり、3か月にも満たない戦車学校の訓練では、それぞれの役割に細分化された技術だけを学んだ。

 

・戦車搭乗員の高い死亡率と、クルスク戦車戦について。

赤軍がクルスクで勝利したことで、ドイツ軍の士気も低下を続けた。精鋭を集めた武装SSに所属していない一般兵たちは戦意を喪失しかけていた。

 

 

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 戦況が上向くにつれ前線の士気は向上したが、NKVDの後継であるSMERSH(スメルシ、「スパイに死を」)が絶えず兵士の会話に耳を傾け、対独協力者や脱走兵を処刑していた。

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・ドイツ軍の焦土作戦によって、町や森は荒野に代わっていた。ある兵士は、毎年やってくる渡り鳥が、風景を認識できず混乱しているのを発見した。

・国民の団結をうたう党のプロパガンダに反して、前線兵士と後方との溝、軍と民間人との溝は深まっていった。

 

赤軍兵士たちは、故郷に残してきた家族がひどい飢餓や物不足に苦しんでいるのを知り怒った。勲章は家族に対し特権を付与することができるため、兵士たちの奮闘の原動力にもなったが、それでも食糧不足・物不足のために、ソ連邦英雄の家族が貧窮することが多々あった。

 

闇市で最も価値があったのはドイツ軍の物資だった。ある証言では、ドイツ兵の屍体からブーツを取ろうとしたら足ごととれた。

 

・従軍妻(愛人)の風習、性病の急増、党による性教育の欠如

・前線兵士となった女性は、後方勤務女性に比べ偏見にさらされた。女性兵士は将校に性的サービスをすることで勲章を受けるのだと陰口を言われた。

・戦場でのストレス・傷により、兵士は急速に老化し、髪は白くなった。とある兵士は頭部の負傷がもとで不能になった。

・身寄りのない子供はしばしば部隊で下働きし随行した。

 

・前線での防諜活動は、ドイツ軍占領地に進んでいくにつれて本格化する。NKVD国境警備隊はゲリラや工作員を即決処刑し、スメルシは脱走兵や離反者を尋問した。占領地の共産党員はただちに招集されるか収容所送りになった。ヒトラーから冷遇されていたにも関わらず、ウラソフ将軍率いるロシア解放軍(ROA)はスメルシの最重要目標だった。

 

・敵後方で活動していたパルチザンは、主に社会階層の高い労働者や活動家によって構成されていたが、赤軍の解放に伴い、質の悪い地方出身者が多数加わった。住民の反感を買うような振舞いをしないよう統制には苦労が付いて回った。パルチザンの一部は、撤退するドイツ軍に包囲されて全滅した。

 

・1944年4月、クリミアが解放されたが、ここはドイツ人お気に入りの景勝地・リゾートであり、ヒトラーが隠居のための宮殿を作るのだと噂されていた。セヴァストポリは激戦地の1つとなった。

 

セヴァストポリの制圧、クリミアの奪還後、NKVDは約20万人のタタール人を、対独協力分子として中央アジアに強制追放した。その大半はソ連に忠実な住民で、中にはパルチザンとしてソ連邦英雄の称号を受けた軍人も含まれていた。ベリヤは既にコーカサスの諸民族たちを同じように追放していた。

 ソ連少数民族たちは平等の精神を信じソ連体制を支えていたが、戦後160万人が強制移住させられ、3分の1が死んだ。

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 [つづく]

 

 

 ◆参考

 コーカサスにおける「強制移住」の実態……

・単なる強制引っ越しではない

 

 速やかな追放を達成するため、僻地の村では、人びとを家に閉じ込め焼き殺して処分する方法がとられた。老人や足の悪い人間はその場で射殺された。

 

 

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