うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Ivan's War』Merridale, Catherine その2 ――第二次世界大戦のソ連兵の体験談

 4

 8月までにソ連ウクライナベラルーシバルト三国の大半を失い、またレニングラードは包囲された。秋にはドイツ軍、ソ連市民の多くが破滅を確信していた。

 モスクワ防衛を担ったのはNKVD特殊部隊自動化歩兵旅団「OSMBON」だった。かれらは外敵と戦うよりも、市内の略奪防止に注力した。

en.wikipedia.org

 

 11月から始まったモスクワの戦いにおいて、ドイツ軍の侵攻は赤軍によって食い止められた。モスクワは包囲を免れた。モスクワはじめ各都市では人民自警団が編成された。

 

・体制の恐怖支配をもってしても脱走は減らなかった。戦争がはじまり、恐怖(テロ)による統治は徐々に効力を失っていった。将軍や将校の脱走、任務放棄も多く、特に大粛清で昇任した将校は部下を鼓舞する能力がまったくなかった。

・ドイツ軍は各地でユダヤ人や赤軍捕虜を殺害した。ある村ではドイツ兵たちがソ連兵を建物に閉じ込め生きたまま焼き、逃げようと飛び降りた者を射撃した。

・ドイツ軍の占領地ではどこでも大量射殺がおこなわれたが、その大半はアインザッツグルッペンではなく国防軍が実施した。

 

 ドイツ軍の暴力や、集団農場温存策に、農民たちは間もなく反発した。

 

スターリンの威信保持に腐心する宣伝者や秘密警察たち。

・占領地ではスターリンの指令によりパルチザンの活動が始まった。1942年には約2万人のパルチザンがいたとされる。最大の効果は妨害活動(サボタージュ)よりも住民の統制(支配)だった。

・1942年春までに、赤軍は200万人程の死者を出していたが、士気に影響しないよう、この数字は隠された。

・この時期最大の激戦地はクリミア半島・ドン河沿岸だった。ケルチKerchでは多数のソ連兵・市民が地下トンネルの中で死んだ。

 

 1942年7月、ドイツ軍はロストフとノヴォシビルスクを占領し、コーカサス、さらにスターリングラードへ向かおうとしていた。

 

 

  ***

 5

 7月にスターリンが発した命令第227号は督戦隊編成や、懲罰大隊について示したもので、冷戦末期まで非公開だった。中央の指示なしに後退した者は容赦なく処罰されることになった。

ja.wikipedia.org

 

・指揮官は懲罰大隊に優秀な者を入れるのを嫌がったので、無能や個人的な友人が送られ、仲間の射殺ではなく洗濯など雑用に従事した。その後懲罰隊は廃止された。

・この時期に軍を混乱させていた能力に欠ける将官……ヴォロシーロフ、メフリス、ブジョンヌイらは更迭され、より若く、軍事的能力を持った将校が任務についた。

 

 政治将校(ポリトゥルック)は権威を失った。

 

疎開した生産拠点が再稼働し、また米国からのレンドリースによる物資が軍を支援した。

・表彰の数は米国の10倍で、約1100万人が勲章を受けた。服装や装具が充実し、将校の特権(肩章など)が復活した。

・兵士の大多数が若い補充兵に入れ替わり、また緒戦を生き延びた古参たちが精鋭となった。新兵たちは過酷な訓練隊を乗り越えた後、激戦地に送られた。

・女性兵の採用が始まり、主にスナイパーとして前線任務についた。

 

・1942年8月、ドイツ第6軍(パウルス)と赤軍26軍(チュイコフ)との間でスターリングラードの戦いが始まった。

ja.wikipedia.org

 

・兵たちは屍体から装備や弾薬をはぎとった。飲料水のほとんどは腐敗で汚染されていた。

・大量の虱は、ねずみや猫と違って食糧にならず、兵たちを悩ませた。

 

 1942年10月、ドイツ軍は包囲され、急激に士気を喪失した。

 

 赤軍の後方では、闇市などの犯罪は増加していたが、脱走は減少していた。これは、収容所から釈放された者たちが兵として前線に送られてきたことによる。かれらにとっては、兵となって汚名を返上するチャンスだった。

 また、収容所の生活は前線よりも苦痛だったという。

 

 1943年1月にドイツ軍が降伏し10万人の捕虜を出すと、ソ連の士気は劇的に向上した。人びとは勝利に興奮し、周辺の戦線で待機していた兵たちもスターリングラード守備隊を羨んだ。

 

 

  ***

 6

 スターリングラードでの勝利は、ソ連兵たちの精神を劇的に変えたが、同時にスターリンと党も統制強化と宣伝に乗り出した。

 勝利はスターリンの功績とされ、50万人という犠牲者数は隠された。赤軍側は常にドイツ軍の3倍の被害を出していたがこうした数字は公開されなかった。1941年の緒戦の失敗も、英雄神話に置き換えられつつあった。

 

 1943年1月、レニングラード包囲が解除されたが、それまでに市民が苦しんだ飢餓や餓死について口にすることは許されなくなった。ソヴィエト情報局(Sovinformburo)は、スナイパー、射撃種、戦車乗り等のテンプレートを好んで、スポーツ選手のように英雄を宣伝した(ザイツェフ、女性パルチザンのコスモデミャンスカヤなど)。


 兵の大部分は読み書きのできない農民であり、将校団との間には大きな差があった。

 こうした農民たちは迷信・まじないを好んだ。信仰は表面上禁止されていたが十字架を持ち歩いたり神を信じる者もいた。兵たちはみな歌うことを好んだ。

 前線の兵たちは独特のスラングを用いて暗いユーモアや猥談に興じたがこうした精神生活は公式の歴史には決して記録されなかった。

 

・ある兵士は富農の息子ゆえに迫害され配給券を偽造していたが捕まり、戦争がはじまると懲罰大隊(shtrafniki)に志願した。

 

 犯罪者で集まる兵舎は危険で、皮をはがれて物をとられたり、盗みの為に睡眠中に殺される恐れがあった。親玉のような犯罪者が兵たちを支配していた。

 しかし懲罰大隊は徴集兵や将校以上の勇気を発揮し、尊敬を受けた。

 

・ドイツ軍の占領から解放されたクルスクには、犯罪者となった脱走兵たちがたむろしていた。占領期にはスリ、強盗、レイプが多発し、父のない赤子(レイプ被害やドイツ軍人との子供など)は食料にされた。農村でもパルチザン掃討のため多数の民間人が殺害された。成人はみな強制労働に駆り出された。

 

 ロシア領内であっても、赤軍が住民から激しい抵抗を受けることがあった。戦闘準備のため住民と家畜を疎開させようとしたが、その様子が集団化にそっくりだったので、農民はかれらが土地と家畜を収奪しようとしていると考えた。

 武装農民を排除する汚れ仕事はNKVDに任され、赤軍は直接人びとの反感を買わないよう配慮された。

 

・一般に兵士たちよりも後方の民間人のほうが食糧難は厳しく、様々な小動物の摂取が党機関によって奨励された。

 

・ドイツ軍は旧式の戦車がT-34に苦戦したため、パンターティーガーを開発した。ソ連はT-34とKVの改良生産を続けた。生産数はソ連が圧倒的に多かった。

 

 1934年7月のクルスクの戦いでは、技術や物量ではなく搭乗員の技量と精神が赤軍に勝利をもたらした。ソ連の若者にとって戦車は憧れの乗り物・職種であり、3か月にも満たない戦車学校の訓練では、それぞれの役割に細分化された技術だけを学んだ。

 

・戦車搭乗員の高い死亡率と、クルスク戦車戦について。

赤軍がクルスクで勝利したことで、ドイツ軍の士気も低下を続けた。精鋭を集めた武装SSに所属していない一般兵たちは戦意を喪失しかけていた。

 

 

  ***

 7

 戦況が上向くにつれ前線の士気は向上したが、NKVDの後継であるSMERSH(スメルシ、「スパイに死を」)が絶えず兵士の会話に耳を傾け、対独協力者や脱走兵を処刑していた。

ja.wikipedia.org

 

・ドイツ軍の焦土作戦によって、町や森は荒野に代わっていた。ある兵士は、毎年やってくる渡り鳥が、風景を認識できず混乱しているのを発見した。

・国民の団結をうたう党のプロパガンダに反して、前線兵士と後方との溝、軍と民間人との溝は深まっていった。

 

赤軍兵士たちは、故郷に残してきた家族がひどい飢餓や物不足に苦しんでいるのを知り怒った。勲章は家族に対し特権を付与することができるため、兵士たちの奮闘の原動力にもなったが、それでも食糧不足・物不足のために、ソ連邦英雄の家族が貧窮することが多々あった。

 

闇市で最も価値があったのはドイツ軍の物資だった。ある証言では、ドイツ兵の屍体からブーツを取ろうとしたら足ごととれた。

 

・従軍妻(愛人)の風習、性病の急増、党による性教育の欠如

・前線兵士となった女性は、後方勤務女性に比べ偏見にさらされた。女性兵士は将校に性的サービスをすることで勲章を受けるのだと陰口を言われた。

・戦場でのストレス・傷により、兵士は急速に老化し、髪は白くなった。とある兵士は頭部の負傷がもとで不能になった。

・身寄りのない子供はしばしば部隊で下働きし随行した。

 

・前線での防諜活動は、ドイツ軍占領地に進んでいくにつれて本格化する。NKVD国境警備隊はゲリラや工作員を即決処刑し、スメルシは脱走兵や離反者を尋問した。占領地の共産党員はただちに招集されるか収容所送りになった。ヒトラーから冷遇されていたにも関わらず、ウラソフ将軍率いるロシア解放軍(ROA)はスメルシの最重要目標だった。

 

・敵後方で活動していたパルチザンは、主に社会階層の高い労働者や活動家によって構成されていたが、赤軍の解放に伴い、質の悪い地方出身者が多数加わった。住民の反感を買うような振舞いをしないよう統制には苦労が付いて回った。パルチザンの一部は、撤退するドイツ軍に包囲されて全滅した。

 

・1944年4月、クリミアが解放されたが、ここはドイツ人お気に入りの景勝地・リゾートであり、ヒトラーが隠居のための宮殿を作るのだと噂されていた。セヴァストポリは激戦地の1つとなった。

 

セヴァストポリの制圧、クリミアの奪還後、NKVDは約20万人のタタール人を、対独協力分子として中央アジアに強制追放した。その大半はソ連に忠実な住民で、中にはパルチザンとしてソ連邦英雄の称号を受けた軍人も含まれていた。ベリヤは既にコーカサスの諸民族たちを同じように追放していた。

 ソ連少数民族たちは平等の精神を信じソ連体制を支えていたが、戦後160万人が強制移住させられ、3分の1が死んだ。

ja.wikipedia.org

 

  ***

 [つづく]

 

 

 ◆参考

 コーカサスにおける「強制移住」の実態……

・単なる強制引っ越しではない

 

 速やかな追放を達成するため、僻地の村では、人びとを家に閉じ込め焼き殺して処分する方法がとられた。老人や足の悪い人間はその場で射殺された。

 

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

the-cosmological-fort.hatenablog.com

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

 

『Ivan's War』Merridale, Catherine その1 ――第二次世界大戦のソ連兵の体験談

 ◆メモ

 当時、兵たちが作成した手紙や(違法とされていた)日記、秘密警察の報告文書、また元軍人からの聴き取りを頼りに、第二次世界大戦における赤軍の内部を明らかにする。

 

 ドイツを撃破した兵隊たちは一枚岩ではなく、そこには迫害される少数民族ユダヤ人が存在した。

 戦況が上向くにつれて、戦争犯罪や賄賂、掠奪も盛んになり、「前線者(Frontviki)」たちの素行は悪くなっていった。

 

 ソ連当局は戦争の実態を隠蔽したため、公文書はかれらの悲惨さや内部の戦争犯罪については何も語っていない。戦場の現実を明らかにしてくれるのは兵士たちの証言だけだが、かれらにとっても、あまりに惨めな現実を覚えておくことは苦痛だった。

 兵士たちの多くは、悲惨な現実、仲間を見殺しにした経験、人格を疑われるような犯罪行為の記憶から逃れるため、類型的な英雄譚や戦争譚だけを話すようになった。

 

 

  ***
 独ソ戦における赤軍兵たちの体験は、史上最大規模の動員と犠牲――赤軍の死者数(800万~1300万)は、米英独参加国を合わせた数よりも大きい――を伴ったにも関わらず、これまで表立って語られてこなかった。

 これは戦争を英雄譚として取り扱うソ連の方針が影響しており、生々しい体験や記録は公開を許されなかった。ソ連崩壊後、教師を務めていた著者は、学校の子供たちとともに退役軍人たちから直接体験談を聞く機会を得た。

 

 ソ連兵は、ナチスや冷戦時代のアメリカが分析したような「アジア的・モンゴル的野蛮人」ではない。

 ロシア人、ウクライナ人その他草原、農村から多数の民族が集められ、年齢は青年から第1次大戦経験者まで多様であり、1つの民族性でくくれるものではない。

 

 史上最も野心的な独裁体制によって統治されていたにも関わらず、兵隊たちはそれぞれ個別の性質を持っている。

ソ連兵の士気の源泉は何か

・戦後、彼らは後遺症に苦しんだ

 

 

  ***

 1

 スターリン体制は、来るべきファシズムとの戦いに向けて備えていたが、それは到底ドイツ軍を抑えられるものではなかった。

 

 1938年のプロパガンダ戦争映画「If There is a War Tomorrow」を例に、対独戦に対する楽観的な見方が映画界だけでなく軍事戦略にも浸透していたことを示す。防御を重視する軍人は排除され、敵地に乗り込む攻撃作戦だけが採用された。

 ソ連は設立以来、戦争(第1次大戦、内戦)と飢餓、貧困に苦しみ続けてきた。1929年から始まった五か年計画では1000万人の農民が餓死し、その後も貧困は続いた。

 しかし、内戦後に生まれた若者にとって、ソ連はかれらが唯一知っている理想の社会だった。貧しい農村で生まれた多くの若者が、軍隊に入り教育を受け出世した。若者は労働力として重宝され、また出世の道もあったため、かれらにはソ連を守る動機があった。

 

 第一次世界大戦に従軍し、後に赤軍のトップとなった者(ジューコフ、コーネフ、ティモシェンコら)も、多くは農村出身だった。

 

 革命後に育った世代は共産主義の理想を信じ、また革命の本質は戦争であることを教え込まれた。軍はかれらの憧れであり、30年代後半には航空機と落下傘降下が隆盛を極めた。

 

 内戦後に生まれた若者は、大粛清の直接的な被害者ではなかった。古参党員の多くが粛清され、密告やNKVDによる拉致、拷問、処刑が常態化したが、これは人民の統合のために必要なものと考えられていた。

 

 「われわれは偉業をなしとげる準備はしていたが、敵軍には備えていなかった」

 

 

  ***
 2

 1939年10月に始まったフィンランドとの冬戦争は、ソ連軍が12万人以上の死者を出す実質的な大失敗に終わった。

 戦争を通じて、これまで秘密に包まれていた赤軍の欠陥があらわになった。

 

 フィンランド軍はモロトフカクテルやスキー部隊でソ連兵を翻弄した。

 赤軍内部の士気や練度は、それまで全く明らかになっていなかった。特に徴集兵の士気は非常に低かった。

 

・特にドイツは赤軍を過小評価するようになった。冬戦争で生き残ったソ連兵は、独ソ戦初期にほとんど消滅した。

・徴集兵の大半を占める農民は、帝国時代と同様、召集を災いと考えていた。村から地方の軍事務所に出頭する時点に既に泥酔していたが、軍もそのほうが取り扱いやすかった。

・最良の若者はNKVD(内務人民委員部、ソ連の秘密警察)にとられ、通常軍には、スターリンの名前を知らない者、字の読めない者が採用された。

・平時の兵隊は集団農場の手伝いが主であり、皆不平たらたらだった。

・下着、足布(靴下の代用品)は共有品だった。将校だけがけん銃と腕時計を支給された。兵隊が実際の武器を目にするのは演習時だけだった。

・軍隊の規模拡大に伴う住宅不足と食糧事情……兵たちは屋根のない地面に寝た。密集したためチフスが流行した。ねずみ入りのスープ、生きた虫入りの食事、腐った肉、黒い泥水でつくったコーヒー等。

・軍は30年代を通して、食糧調達のため自ら農場を経営した。

・備品の盗難、闇市の隆盛。

・政治教育は連隊、大隊レベルではコミッサール(政治委員)が、中隊以下ではPolitrukと呼ばれる政治将校が担った。政治将校らは宣伝者、従軍牧師、スパイの役割を兼ねた。政治教育を統括したのはレフ・メフリスの指揮するPURKKA(Political Administration)という組織だった。

・政治将校は、教育や宣伝を適時行っていたが、肉体労働をせず銃もあまり使わないため兵たちは偽善を感じていた。また、服務事案の責任者であるため憎まれていた。

 戦争が始まってから、共産主義の理解度と戦場での信頼性はあまり関係がないことに気がついた。

 

・戦争勃発前の時点で、若手将校の自殺率は驚異な数字を示していた。かれらは目の前のみじめな現実(環境、物資不足、訓練不足)を体制のせいにすることができなかった。

・新たに徴兵されたベラルーシポーランド地方の若者はロシア語が読めず、敬虔なクリスチャンで、共産主義を信じていなかった。

トハチェフスキーの粛清により、かれの縦深防御戦略は捨てられた。

独ソ不可侵条約は、政治将校だけでなく兵隊たち皆を唖然とさせた。

・冬戦争においてソ連兵はフィンランド兵の機関銃の的になった。兵たちは銃撃されたときに伏せることを知らず、一部の将校は迷彩を臆病者の道具と考えていた。

・一方、督戦業務を担当したNKVDは自動小銃を持っていた(逃亡兵や臆病者を撃つため)。

 

 このときの赤軍は後の精鋭とは程遠い存在だった。

 

  ***

 3

 1941年6月22日のドイツ軍侵攻について、スターリンが多数の警告や情報を黙殺していたことはよく知られている。

 前線では、西方特別区司令官パヴロフら担当指揮官たちが後に処刑された。しかしスターリンは当初反撃を禁じていた。

 

 ドイツ侵攻とともにソ連国民の大多数は対独戦に志願した。

 

・非ロシア人(ドイツ系、衛生諸国、グルジア等)の中にはモスクワの危機を自民族・自国の好機と考えるものもいたと秘密警察は記録している。

・都市部では志願者が殺到したが軍は処理しきれず、通りや駅に大量の若者が寝泊まりし、ほとんどは酔っぱらっていた。招集命令を受けても、移動手段は確保されていないため、どうにかして出頭しなければ脱走扱いになった。

・7月3日に行われたスターリンの演説は絶大な効果を及ぼした。人びとは自分たちの頼るべき指導者を見出した(非ロシア系民族、農村部は除く)。演説では前線の実態は示されなかったが、大量の戦死、捕虜、逃亡が発生していた。

・装備・物資不足……前線への輸送手段なし、ライフルが行きわたらず、19世紀のライフルで銃剣突撃、ヘルメットで塹壕を掘る、4分の3の旧式戦車が使用不能かつ部品枯渇、貧弱な通信、平文で無線を使う技師たち。

 

・「西洋人」…ウクライナ人、ベラルーシ人、バルト三国出身者の脱走が相次いだため、かれらは戦車乗組員になることを許可されなかった。

 

ウクライナでは、住民が商店を略奪し、NKVDが人家を略奪していた。ドイツ軍はその無法状態に驚いた。

  ***

 

 [つづく]

 

 

 

イワンの戦争:赤軍兵士の記録1939-45

イワンの戦争:赤軍兵士の記録1939-45

 

 

 

中東の歴史の本、労働について

 ◆本

 冷戦時代のルーマニア情報機関将官パチェパの本を読み終わった。

 この本自体がかなり危険な本で、どこからどこまでが事実なのかが疑わしいものだった。

 

 

 いま読んでいるのは、1967年の第三次中東戦争(六日間戦争)についての本である。

 

 

 特に、アラブ諸国間の分裂・不調和や、国内での政争などについて今まで知識が不足していたので参考になる。

 

 

 ◆労働

 現在、無職戦闘員からジョブチェンジし民間企業で働いているが、実際に内部で仕事をすると、外からはわからない致命的な問題や欠陥に気が付くことがある。こうした問題は、ブランドイメージ戦略や広報によって、外部の人間からはわからないようになっている。

 最後の砦となっている日本の基幹産業も、近々あっという間に崩壊するのではないかと心配している。

 

『法哲学』平野仁彦 編 その2 ――法とは何かを考える入門

 4 法と正義の基本問題

 法が実現すべき正義とは何か。どのような法秩序を形成していくのが望ましいか。

 

(1)公共的利益

 公共の利益を増進するにあたり、功利主義とその批判を並べ、問題を検討する。

 功利主義の問題点……個人の人格がなおざりにされる、少数者の犠牲を肯定できる、個人的善を無批判に受容する(原発は無条件にいいもので、その需要を減らそうという考えにならない)、目的がよければ過程や約束を無視してもよい。

 功利主義の問題は、多数決原理の功罪にも通じる。こうした作用の防止のために、自由・平等たる基本的な権利が求められる。

(2)自由

 リバタリアニズムの視点を検討する。

 自由は実際には法的・事実的に制約を受けているが、リバタリアニズムは、「様々な規制によって狭められた個々人の自由領域を拡大し、基本的な自由権にもとづいて法秩序の再構築をはかろうとする考え方」である。

 その共通項は、個人的自由の擁護、拡大国家に対する批判、市場の有意性の主張である。

 リバタリアニズムの根拠……個人の尊厳――個々人は目的であって単なる手段ではない、何らかの目的のために個人が犠牲にされたり利用されたりすることがあってはならない(カント)。また、自己所有が所有権の根拠である(ロック)。

(3)市場――効率性と倫理

 市場における規制強化と規制緩和について。

 経済市場の意義……自由、普遍性、効率性。

 政府の失敗……非効率的、公費無駄遣いにつながる

 市場の失敗……情報不均衡、市場がうまく働かない、外部不経済、公共財の問題

 商品と格差……何でも商品にされてしまう、格差の拡大

(4)平等

 

 ……尊厳を傷つけるような差別をなくし、等しい者として扱うところに平等原則の主旨がある。

 

 法の下の平等

 分配的正義

 機会の平等と結果の平等という区分が現在では発展し、形式的な機会の平等、資源の平等、福利の平等に細分化されている。

(5)共同体と関係性

 自由社会の病弊を指摘し、平等な自由への権利を基本原理とする法秩序に疑問を投げかけるのが共同体論である。

 自由平等が、共同体や家族を破壊する。

 我々は実際には「負荷なき自我」ではなく、国、民族、宗教などによって属性づけられた「位置づけられた自我」を持つ。

 

 共同体論の主張……共同善の秩序、関係性を視野に入れた、実質的な考慮にもとづいた秩序づけ。

 自由主義理論からの反論……全体主義につながる、国策に利用される、複雑な現代にそぐわない。

 

(6)議論

 

 議論は、法によって実現されるべき正義の意味内容について意見が対立するとき、調整をはかる1つの手段として重要な意味合いをもっている。

 

 重要なのは、「相互了解と合意の形成をめざして議論をすること」である。

 手続的アプローチとしての議論の重要性について。

 法もまた本来議論的なものである。法システムを、「議論、手続き及び合意からなる「対話的合理性」が制度化されたもの」とみる見解がある。

 

 

  ***

 5 法的思考

(1)法的思考とは何か

 ここでいう法的思考は、裁判を念頭に置いた職業的な法律家の思考である。

・判決の理由づけ、正当化

・法学教育と法制度、法的思考の関連

 近代の法律家による法的思考には、共通したイデオロギーがある。

 

 イデオロギーとは一般に……自己の主張が真理ではないのに、自己または自己の属する集団の利益のために、それを真理だと主張する場合、その主張はイデオロギーとなる。

 

・実質的イデオロギー……実定法の内容にかかわるもの、法の下の平等や人権尊重など。

・形式的イデオロギー……法の運用に係る思考。教義の法的思考。

 

 以下、各種の法的思考について……

法治国家

・予測可能性

・法的安定性……法による予測可能性。

・判決三段論法……大前提、小前提、判決。自然言語を用いるため、「解釈及び無自覚的変化の余地」がある。

・事実問題と法律問題……法適用のためには事実がある程度固まっている必要がある。法規範の適用には、当該事件の事実が大きく影響する。

・事実認定……わが国では事実認定は裁判官が行うが、その教育は軽視されがちだった。裁判官は経験則(Aであれば、Bであろう)に基づいて事実を認定する。それに反対するには反証の必要がある(アリバイなど)。

・制定法主義と判例法主義……わが国や大陸国家では制定法を第一次的に適用する。英米など判例法主義国家では、制定法に準拠しつつも、先例を考慮した判決を行う。

・先例……判例とは異なり、過去の事件で示された法規範を指す。「先例拘束の法理」は、同種事件は原則として同じように扱うというものである。

・日本での判例……最高裁判決理由の内、制定法の解釈をルールとして定式化したもの。

 

 ※ レイシオ・デシデンダイ……判決主文に直接かかわる判決理由

   オービオ・ディクタ……傍論

 

 一般基準と原理……「できるだけ何々せよ」という規範。

 

(2)制定法の適用と解釈

 裁判で用いられた法的推論は蓋然性を含むため、論理必然的なものではない。

 法文の意味は明白でないため、法の解釈が必要になる。

 

 解釈の種類……制定時客観説と適用時客観説、立法者意思説と法律意思説。

 

 法の欠缺……「適用すべき法規範が既存の法源、とくに制定法の中に見出せない場合を指す……罪刑法定主義をとる近代的な刑事裁判では被告人は無罪となる」。

 解釈の技法……文理解釈、拡張解釈と縮小解釈(法文の「真の意味」と表現との間)、厳格解釈、類推と擬制(フィクション)、反対解釈、勿論解釈、論理的解釈

 概念法学的客観説……「立法時、適用時とは無関係に、法解釈学によって構成された概念体系を参照すれば法規の客観的意味が定まる」

 

 歴史的解釈……立法時の意図や記録、過程を参照

 目的論的解釈……「法文はその目的を考慮して読むべきである」。

 整合性とは、法秩序全体に「おかしなこと」がない状態。理性性とは、「正義にかなっている」、「筋が通っている」こと。

 

(3)法的思考と経済学的思考

 法学の内部に経済学的思考を取り入れようとする試みは、アメリカで70年代以降盛んである。

 ミクロ経済学に依拠する。初歩的な経済学の理論を応用するためイデオロギー性が強い。

 

・パレート効率

・費用便益分析……功利主義との類似

コースの定理……(略)

・経済学から学ぶべき概念……費用、犠牲、トレードオフ

 

 

  ***

 6 法哲学の現代的展開

(1) デモクラシーとは何か
古代ギリシア、ルソー、功利主義者たちの「人民のための統治」から、ケルゼンらの「人民による統治」(多数決)へ。

・人民による統治は、やがて「政治家のためのデモクラシー」に至る。

・議会主義……議員が選挙によって選ばれない場合もあるため、元々は民主主義とは関連がない。議会主義は自由主義の系譜に属し、公開の討論を保障する。

・自由の分類……政治的自由、市民的自由、経済的自由

・リベラル・デモクラシー……自由主義と結びついた近代民主主義

・共和主義……市民の政治参加が不可欠。

直接民主制と間接民主制

 

 決定の方式として多数決を採用する制度が、必ずしも多数意見を反映するものではないということは、現代政治学の常識として知っておくべきであろう。

 

・民主制は人権を担保するわけではない。

 

 

法哲学 (有斐閣アルマ)

法哲学 (有斐閣アルマ)