うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Three Trillion Dollar War』Joseph Stiglitz and Linda Bilmes その1 ――イラク戦争のコストは3兆ドル

 

◆所感

スティグリッツ経済学』のスティグリッツが書いた本。

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イラク戦争のコストは冒頭で示されており、以後はその細部や、個々の問題点に関する指摘が続く。

911以降、ブッシュ政権がおこなったのは議会・国民への欺きであり、またずさんな調達業務と不正な契約行為である。契約業者への過度の依存も、戦場において多くの問題を引き起こした。

 

本書の目的は、イラク戦争の是非に関わらず、アメリカ国民に対し正確な戦争のコストを認識させることである。

イラク戦争湾岸戦争ともに、多くの人的損耗を生んだだけでなく、傷痍軍人や遺族のケアのための莫大なコストを生んだ。イラク戦争開始後、退役軍人省や軍病院はパンクし、傷痍軍人は非効率な役所手続きに苦しめられた。

当初見積もられていた戦争の利益……民主化されたイラクと中東、大量破壊兵器の処理などはいずれも実現しなかった。イラク戦争では、アメリカの石油産業と軍需産業を除いて勝者はいない。

もっとも残念なのは、ほぼすべての不安要素が、戦争前にすでに学者や専門家によって予測されていたということである。

 

著者は本書の出る前にイラク戦争コストを1兆から2兆ドルと見積もったが、さらに正確に推測すると3兆ドルを超える。さらに、諸外国のコストはこの数倍にも上るだろう。

 

戦争をするということは多数の死者、負傷者、遺族を出すということである。つまり、社会保障費や傷痍軍人に関わるコストが増大する。

イラク戦争のように自主的に始めるにしろ、他国から攻撃を受けるにせよ、社会経済全体にとっては災厄となる公算が大である。

 

現在イラク戦争に対し米国世論は冷たいようである。

私が米軍で働いていたときはそういうテーマはほとんど話題に出なかったが、身近な範囲で内々で話したところ、侵略の是非そのものは黒歴史的な扱いになっていた。

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1 本当に3兆ドルなのか?

コストが膨れ上がった要因を検討する。

イラクGDPアメリカの1パーセント以下であり、緒戦を米軍が圧倒したのは当然のことだった。その分、その後の失敗が楽観主義者にとって驚きとなった。

戦争指導者たちは当初、イラク戦争のコストを15億円程度と見積もっていた。さらに、中東民主化と石油産出によってこのコストは取り戻され、さらに利益が得られると豪語していた。

間もなく、コストは大幅に増大した。大量の予備役や州兵を動員したためその手当が必要となった。

米国政府は10万人を超える契約業者を雇わなければならなかった。契約業者の多くは米軍と一体で動いており、2007年までに1000人以上が死亡している。さらに、米軍人の手当てが1日あたり150ドル弱であるのに対し、契約業者は1000ドルを超える。

このため米兵は除隊して契約業者に転職したがるようになり、優秀な兵をつなぎとめるため軍はさらに多くの再入隊ボーナス(Reenlistment bonus)を支給することになった。

 

こうした軍事の民営化にはいくつかの問題点があった:

  • 一部の業者による残虐行為・規律違反(契約業者の規律をどのように監督するのか)
  • 企業利益優先
  • 腐敗と癒着(チェイニー副大統領と関係の深いハリバートン社との高額契約など)

 

ブッシュ政権は戦争開始にあたり無数の随意契約を行い、さらに業者が費用をかければそれを政府が追加支払いする制度を採用した。賄賂や便宜供与は、企業献金という形で行われた。

チェイニー副大統領が2000年までCEOを務めていたハリバートン社の株価上昇率は、GDやレイセオンロッキード・マーティンノースロップ・グラマンなどを超えた。

 

次に、戦争にともなう石油価格増大が軍のコストを上昇させた。

最後に、最大要因として装備品の更新があげられる。その例は対地雷装甲車MRAPであり、2006年にゲーツ国防長官がMRAPを従来の軍用車ハンヴィー(Humvee)と入れ替えるまでに、1500人以上がIED(即席爆発装置、仕掛け爆弾)で殺害された。

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イラク・アフガン治安部隊の訓練教育も、当初は見積もられていなかったコストである。

戦争が失敗した根本原因は、パウエルの「圧倒的軍事力」路線を捨てたラムズフェルドの方針にある。

反乱分子は開戦前よりも増加し、中東全体にアメリカの敵が拡散した。

 

公式には含まれないコスト……戦死者1人あたりのコスト(弔慰金と遺族年金で1億円以上)、国防総省が公開しない戦死者(直接戦闘以外の死者)など。

現役の2割、予備役の4割が、帰還後数か月してからPTSDを発症している。

 

現金会計(Cash Accounting)を重視し、発生会計(Accrual Accounting)を無視する。つまりMRAP購入をせず出費を抑えているようにみえて、IEDによる負傷兵をケアするための将来的なコストは増えているのである。

国防総省の会計は非常にずさんであり、監査に耐えないものであると議会で問題になった。ブッシュ政権は議会の承認を必要としない緊急支出予算を連発しているため、議会・国民が、戦争にいくらかかっているのかを捕捉するのが困難になっている。

 

スティグリッツらは、政府や行政機関の公開資料を参考に、イラク戦争のコストが3兆ドルであると算出した。これは戦争に直接かかわる費用のほか、貨幣価値、返済利子、傷痍軍人医療保障、装備品更新やマクロ経済への影響などを考慮したものである。

 

2 国家予算の費用

2008年時点で米国は6450億ドル(645 billion)を消費しているが、本章では将来的な支出を予測し、また隠された戦争支出について指摘する。

 

医療費・福利厚生費の増大:

湾岸戦争の例では、数週間の作戦で70万人将兵のうち45パーセントが傷痍軍人手当を申請し、8割が認定された。このため、毎年43億ドルが福利厚生費として支出されることになった。

イラク・アフガンでは、さらに前線以外の支援部隊も直接攻撃の被害を受け、その大半が、扶養家族を持つ35歳程度の予備役や州兵だった。

今次の戦争における医療費・福利厚生費は湾岸戦争をはるかに超える規模になるだろう。

順当に見積もった場合、傷痍軍人とその家族への「退役軍人省」保障費は6830億ドルとなり、過去5年間の軍事支出に並ぶことになる。さらに社会保障(Social Security)手当が、傷痍軍人失業者に対し支給される。

 

装備・人員の再建:

戦争は軍のレベルや資産を著しく損耗させるため、装備・物資の更新や新しい人員のリクルートのために2500億から3700億ドルが必要になるだろう。ただし、戦争後にこうした復旧が行われた場合、それは戦争費用ではなく通常の軍事費として計上される。

 

隠された戦費:

国防総省はずさんな会計を用いて通常軍事費の多くを内部でイラク・アフガンに注入している。

開戦以降、人員不足・採用難が深刻化しリクルート費用は膨張した。本書執筆の時点で、陸軍の大尉は必要数の半分に満たないという。

戦争しなかった場合は、イラク近辺の飛行不可地域監視が続くことになっただろうが、そのコストは侵略に比べれば小さなものである。

 

他機関の支出:

労働省(契約業者への保険料と手当て)、住宅都市開発省(退役軍人向けローン補助)、農務省・小規模事業局(ローン補助等)、石油価格の上昇。

 

返済利子:

イラク戦争に伴う返済利子は、2017年までに1兆ドルに達する可能性が高い。タダ飯がないのと同様に、「タダ戦争」も存在しない。支払いを先延ばしにすれば子供の世代が重税を課されるだろう。

 

結論:

これまでの軍事費、将来の軍事費、退役軍人への支出、隠れた軍事支出、返済利子を総合すると、イラク・アフガン戦争全体で、少なくても2.3兆ドル、現実的に見積もって3.4兆ドルとなる。ここに経済への影響は含まれていない。

 

3 退役軍人手当の本当のコスト

医療保障と障害者給付金について。

イラク戦争に参加した兵士の半分以上が24歳以下で、3割以上が予備役または州兵である。

 

第1次世界大戦における戦傷と戦死の比率は1.8対1であり、ベトナムでは2.6対1である。一方、イラク戦争は7対1であり、非戦闘負傷を数にいれると15対1となる。

2007年までに戦地から搬送された兵士の3分の2は病気(感染症、ウイルス、病原菌)だった。

国防総省は戦死者統計を隠すことに腐心していたが、著者や退役軍人組織の努力により正しいデータを入手できた。

 

本土の人びとは、大量の傷病兵という現実に直面している。負傷の3分の2はIEDに由来する。代表的な症状はTBI(Traumatic Brain Injury、外傷性脳損傷であり、脳に深刻な後遺症を発生させる。これは一時的な負傷と違い死ぬまで残存し、一部の傷病兵は植物人間になる。

負傷し除隊した軍人は、国防総省と退役軍人省とのはざまに立たされる。2つの省庁は連携が取れておらず、現役兵から退役軍人への移行に長期間を要する。その間、傷病兵は無職・無収入の状態であり、無数の書類手続きに悩まされる。

 

榴弾砲で重度の障害者になったある兵隊は数年間1銭ももらえず、著者がニューズウィークにこの事案を話してから支給が始まった。

 

障害者手当や給付金手続きは非常に非効率的、冗長であり、また一部請求は不正確であることが、かつて政府調査で発覚した。また一部の負傷兵が存在しない罰金(装備紛失や無断欠勤等)を軍から科されていることがわかった。

 

2007年末までに160万人がイラク・アフガンに派遣され、うち22万人超が障害者申請を受理された。今後の申請者数を予測した場合、退役軍人省の担当職員が必ず不足し、業務がパンクするだろう。また退役軍人省は、負傷のない退役軍人に対する医療サービスを中止した。

イラク・アフガンでの過酷な環境は多くの兵士に傷を与えた。その大半はPTSD、TBI、四肢の切断、脊髄損傷である。

 

退役軍人の障害者福祉と医療補助は戦争コストの最も大きな部分を占めるだろう。人びとは戦争が終わると、戦傷者のケアに関心を失いがちだが、この費用は政府が負担し続けなければならないものである。さらに、傷痍軍人たちとその家族が経済活動に従事できずに発生する損失もまた大きいものである。

 

4 政府の支払わない戦費

連邦予算によって捕捉されない、社会が負担するコストが本章のテーマである。著者はその額を約3000~4000億ドルと見積る。

例えば従軍によって障害者となった場合、給付金や手当はそのケアのために使われ、24時間体制の介護をするのは家族か地域のボランティアである。かれらは経済活動に従事できず、介護に専念する必要がある。

戦死者に対しては50万ドル(弔慰金10万と遺族保険40万)が支払われる。しかし、一般社会において労災により死亡・後遺症となった場合ははるかに高額が支払われる。

 

保険業界や政府統計で一般的に使われている「統計的生命評価Value of Statistical Life(VSL)」によれば、アメリカ人1名のコストは720万ドルである。イラク・アフガンで失われた4300人超の命をドルに換算すると300億ドルにのぼる。さらに1000名超の契約業者が死んだ。

人命を値段に変換するのは過酷におもえるが、それだけの社会的損失があることを認識する必要がある。

 

戦傷者の損失について……それまでの戦争と違い、イラク・アフガンに着陸した時点でそこは戦闘地帯である。このため後方職種の負傷者数が増えた。PTSD発症者の多くは肉体的にも健康を害していき、失業や暴力といった生活が付きまとう。

戦傷者の家族は、介護のために離職しなければならないことが多い。この経済的損失も、政府には捕捉されない。

 

州兵や予備役は、拠点となる州や地域での緊急対応部隊の機能を果たしている。

イラク戦争に伴う州兵・予備役の出動は、米本土での災害対応に深刻な悪影響をもたらした。またかれらの福利厚生は現役軍人と比べて貧弱であり、給付金申請の却下が多く、経済的に困窮・破産するものが多かった。

 

戦力をイラクに集中させたことで、イランや北朝鮮は有利な状況を手に入れることができた。

大方の見方では、イラク戦争の結果最も勢力を拡大したのはイランである。

日本語訳↓

 

 

[つづく]

小笠原諸島の父島

父島でダイビングをしました。

 

クジラ、シロワニ(サメの一種)、イルカ、ウミガメ、マンタ、マダラトビエイ、沈没船(太平洋戦争時の徴発船)等を見ることができました。

 

また、島全体が父島要塞跡地となっており、各所でその遺構を見ることができます。

飛行場のある硫黄島は激戦地となり、父島には敵軍上陸はありませんでした。ただし、調べればいろいろと話は出てきます。

このようなのどかな島も戦争の影響を受けていたことがわかります。

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海上自〇隊父島分遣隊は、見学しようとしましたがスケジュールが合わず今回はかないませんでした。

 

以下はYouTubeにアップした動画の一部です。


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『日本残酷物語5』 ――残酷フルネス

最終巻は明治以降の貧困がテーマとなっている。

都会のスラム、北海道のタコ部屋、遠洋漁業、炭坑、農業などの現場について紹介される。

北海道に住んでいたときに通った道路やトンネルの多くがタコ部屋労働によってつくられたとおもうと歴史はまだ生きていると感じる。

 

日清・日露戦争後、傷痍軍人は世の中で差別を受けた。この現象は、ちょうど最近読んだソ連に関する本『Secondhand Time』にも登場する。

 

ソ連は)ドイツという豊かな国に勝利したが、ソ連兵たちは帰国すると貧しい配給品のために
数時間も列に並んだ。 
傷痍軍人は母国では特に忌み嫌われた。戦争を思い起こさせるものは何でも嫌われた。

 

 

1章 根こそぎ

1 都会の島々

国家から見捨てられた底辺労働者とその地域について。

  • スラム街の生活……日払い宿で生活する人間は、日雇いの給料を毎日宿に吸い取られるため、抜け出すことができない。宿を経営するのは地元のボスである。
  • 日払いアパートでは3畳、4畳の部屋に一家が生活し、寝場所がないため子供、母親、父親が交代で寝る。生活を失った独身男性は、バクダンといわれるメチルアルコール製密造酒を飲んで、道端で気絶してはまた飲む。
  • 大阪のスラム街釜ヶ崎は明治時代以降に成立した。大正以降、近辺にあった被差別部落と一体化し、また朝鮮人流入していった。
  • 明治20年頃の記録によれば、露店では残飯が売られており、コレラの温床となっていた。コレラで死んだ場合は葬式をしなくてよく、さらに死体を運ぶことで日当が得られた。

 

 ……名護町での変わった職業の1つにガタロというのがある。ガタロは河太郎すなわち河童のことをさしているらしく、市街のなかの川や溝に身体ごとつかって、底の泥をすくい、そのなかから金物をひろいあげる職業で、まれには金の指輪を掘りだすこともあるという。

 

神戸の新川部落に住む日雇い労働者の多くは、港湾労働に従事する。

いやな荷物……牛の生皮、硫黄、小麦、黒鉛などの化学肥料、セメント。

 

セメントは顔がコンクリートになる。……化学肥料の荷役は……作業を終えたころには指紋がなくなっている。

 

新川部落が、大規模な貧民の流入で成立したのに対し、もう1つの神戸の長田地区は古い歴史を持つ。

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2 東京の奈落

関東大震災以後、日暮里、板橋、南千住、西新井などが貧民窟として発展した。

貧民窟では、乞食はまっとうな商売であり、特に収入の多いハンセン病者がもっとも幅を利かせている。屑拾い、もく拾いはみじめな仕事され、中にはこっそり家や店に入ってごみくずを拾ってきて転売する者もいる。

酒と賭博は貧民にとっての生きがいである。

貧民の子はシマの子と呼ばれ差別され、正規の小学校にも行けないことが多かった。

 

第2次世界大戦直後、上野寛永寺の徳川家墓石を柱として貧民がテント小屋を建てたため「葵部落」と呼ばれた。かれらは一度追い出されたが、持ち物整理のために侵入し一夜で仮小屋を復旧させた。

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「役人というものは午前9時前には出勤しないので、その前に片づけて、もとのとおりに建てておきました」

 

3 女工

明治20年代頃から盛んになった紡績工場は、地方に募集人を派遣し、良い環境で働けるとだまして人さらいのように女工を調達した。女工らは2交代、徹夜、最長36時間の過酷な労働に従事させられ、寄宿舎に軟禁された。

とある工場では、脱走を試みた女工は裸で縛られて殴られ、食事を抜かれた。年に2、3人が死に、屍体は樽に詰めて庭に埋めた。

コレラが蔓延したときは、感染した女工に無理やり毒薬を飲ませ殺した。まだ絶命していない者もまとめて焼却炉に持っていき焼いた。

工場監督官が巡視にくると、違法の幼年工を隠した。

 

よくボイラー室にとじこめておき、そのまま忘れて多数の幼年工を焼き殺してしまったということが、昭和のはじめごろにもあったという。

 

女工が風邪をひいても、冷水を浴びせて働かせる世話係がいた。あるとき女工が復讐のために包丁で世話係の眼を突いた。

太平洋戦争後、朝鮮特需の時代にも、工場の合理化は続けられ女工の労働環境は向上しなかった。自殺や発狂するものが頻出したが、工場側はこれを本人の原因であるとした。

女工たちは劣悪な環境に苦しめられる一方で、争議や労働運動によって抵抗した。労働環境の整備や規制はこうした抵抗によって徐々に実現されていった。

 

鹿児島は女工の生産地だったが、女工以上に厳しい仕事が農家の女中(めろ)だった。牛馬と同じ衣食住環境で、家の奴隷として働いた。

 

3章 地の果て

1 監獄部屋

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明治20年代後半以降、人手不足に苦しんでいた北海道の土木工事において、労働者の監視や軟禁・逃走防止が図られるようになった。

これがタコ部屋の起源である。

北海道の道路、鉄道、築港、治水、灌漑工事、鉱山開発やその他の社会インフラは、タコ部屋、監獄部屋と呼ばれる強制労働によってつくられた。

募集屋が都会で人をだまし、刃物を持った監視人によって北海道まで護送され、地元警察とつながった監獄部屋のボスの下で監禁され、土木作業に従事させられた。

見張り人は無宿無頼の徒や前科者があてられることが多く、しばしば虐待や殺人が発生した。

 

監獄部屋の組織:

  • 管理人
  • 世話役
  • 帳場
  • 棒頭(見張り人)
  • 飯台取締。

 

明治のフランス刑法導入により北海道に集治監(刑務所)がつくられると、囚人たちが開拓工事に使われた。

明治22年から空知監獄囚徒1200人あまりを借り出した道路開削工事では、900人が疾病し、82人が病死した。

 

集治監には津田三蔵などの国事犯や、明治の名だたる凶悪犯罪者のほとんどが収容されていた。凶悪犯や大泥棒たちは監獄には慣れており、ささいな理由で脱獄を繰り返した。看守も自衛のために必要であれば脱獄犯を一刀両断した。

あるとき集団脱獄した一団が村の金貸しの家に押し入り、一家を皆殺しにして山に逃げ込んだ。村の猟師を含む討伐隊が派遣され、脱獄囚たちを狙撃し最終的に残った者を捕まえた。

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2 海の流刑囚

明治初期、北海道開拓使が北海道の行政を担うようになったのと同時期、千島列島にラッコが生息していることを各国の密猟者がかぎつけ、ロシア、アメリカ、イギリスなど様々な国のハンターたちが出現した。

密猟者たちは根室や函館など北海道各地に停泊し、日本の役人を相手にのらりくらりと答弁し立ち退きせず、また密漁したラッコの毛皮も引き渡さなかった。

こうした密漁船には日本人乗組員も多く含まれ、またアイヌも乗組員兼射撃手として採用されていた。

蟹工船などの北洋漁業は戦前から厳しい労働だった。船上での虐待や虐殺が頻発したため、やがて共産主義者や活動家に目を付けられ、赤化活動の場となった。

 

3 炭鉱労働

炭鉱労働者のなかには、罪科を見逃してもらうかわりに穴に入っていくものもあり、かれらは「川筋下罪人」と呼ばれた。

 

  • 納屋での集団生活
  • 金券支給
  • 二交代、後に三交代制



炭鉱労働者の地区は周囲から差別された。また、明治初年から朝鮮人の労働者もおり、戦時中には徴用されてきた。かれらもまた差別の対象となった。

夜逃げは頻繁に起こった。炭鉱労働者の子供たちは、父、母の違うたくさんの兄弟と一緒に、炭坑から炭坑へ連れまわされた。無籍の子供も多く、正規の学校にいけないため炭坑の寺子屋に通い読み書きを覚えた。

 

 

4 地下の戦闘

炭鉱でもっとも危険なのはガス・炭塵爆発で、最大の事故では600人以上の死者が発生している。

 

3章 大地のうめき

1 農村

貧しい農村では女児の身売りが常態となった。

2 米騒動

1918年7月に発生した富山県魚津町における米騒動の背景には、漁民たちの極貧生活があった。

騒動は、米の値上げに苦しんでいた京都柳原の被差別部落民に飛び火した。差別やそれに由来する濃い血縁によって連帯する京都市各地の被差別部落がこれに呼応し、米屋を襲撃した。さらに騒動は農村の被差別部落に伝播した。部落民は多くが貧しい小作農であり、副業をしつつ米屋から米を買って生活していた。

騒動全体では、被差別部落民の蜂起は4分の1(残りは平民の蜂起)だが、直後から政治家・警察・世間の間で被差別部落の暴力性や凶暴性を喧伝するデマが発された。

 

山口県宇部村の宇部炭鉱では、鉱山労働者による賃上げ騒動が発生した。労働者3000人規模の暴動に軍隊が出動し、13名が死亡した。

 

4章 狩りたてられた者

1 半島

日本兵たちが目撃した朝鮮人慰安婦の姿や、労働者として、周旋屋に騙され内地に連れてこられた朝鮮人について。

朝鮮人に対する人種差別は苛烈であり、さらに炭坑などを脱走した場合は会社が雇っている暴力団にリンチされた。

 

2 戦勝のかげ

日清・日露戦争以後、廃兵(傷痍軍人)が増加し問題になったが、政府や国民はかれらに冷たい仕打ちを行った。廃兵は恩給だけで生活できず、家族に捨てられることが多かった。廃兵の子供はいじめられ、また徴兵忌避する例がよくあった。

戦傷で手がカニのようになったある兵士は、手続きができずに恩典を受けていなかった。

戦前には廃兵団が議事堂前などで抗議を行い、恩給を増額させたこともあった。