◆メモ
陸軍は1870年代から中国情報の収集を続けてきたが最終的に判断を誤った。また現地の将校たちは軍閥に操られ、国民党や中国人民に対して一方的な思い入れを抱くことが多く、最終的に自分たちが帝国主義的対象として排除されることを正しく認識できなかった。
本書で取り上げられる佐々木到一も当初は国民党の理念に共感していたがやがて反中的価値観に移行していった。
あとがきでは、「かれらは中国を「他者」として認識できなかった」という江藤淳の言葉が引用されている。
「支那通」や日本軍、日本政府に欠けていたのは中国のナショナリズムや主権回復に対する認識だった。
佐々木はシベリアの反革命軍支援工作にも関与しているため、自伝にはウンゲルン=シュテルンベルクについての記述がある。
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戦前における日本最大の中国分析機関は日本陸軍だった。
日本陸軍の「支那通」は中国情報のスペシャリストだったが、日中戦争時には侵略の片棒担ぎの役割を担い、結果的に中国ナショナリズムの勢いを見誤り敗北に導いた。
本書は支那通の定義を主にポストにより定める。
・公使館付武官
・駐在武官
・特務機関員
・軍事顧問
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1 陸軍支那通の誕生
陸軍の清国派遣制度は1870年代から始まった。
当時、清国と日本との国交はきわめて希薄で、在住日本人はほとんどいなかった。最初期に派遣された将校たちは主に基礎情報や兵要地誌の情報収集に取り組んだ。
明治期支那通の代表的な人物は青木宣純、柴五郎、小沢カツ郎である。
やがて陸軍が拡大すると、支那担当将校は陸大卒のエリートが担うことになった。しかし、作戦畑に比べれば情報(インテリジェンス)系は傍系であり、さらに主流のソ連情報に比して支那担当はおそらく人事面では不遇だった。
初期の頃から、将校たちには独りよがりな「東亜保全」意識、独断専行の気風があった。
日清戦争から辛亥革命までの間、清朝や中国軍閥は、日本から学ぼうと多くの将校を招聘した。かれらは軍事顧問、教官、政治顧問として中国政府・軍と交流し、同時に情報収集を行った。特に袁世凱と日本陸軍との結びつきは強く、また日本にも中国人将校が留学し、後の辛亥革命の原動力となった。
1911年の辛亥革命勃発に伴い、参謀本部は大量の支那通を派遣した。参謀本部は当初清朝支援だったが、一部の現地将校は革命軍を支援した。また、清朝の粛親王を満州に亡命させて独立させる満蒙独立運動も画策されたが失敗した。
この時代以降、東亜保全は、日本の権益拡大の建前となっていった。
……注目されるのは、……彼らが情報収集にとどまらず、いわゆる謀略(秘密の政治工作)に進んで関与し、日本の影響力や権益拡大というむきだしの利益追求に甘んじて従事していたことであろう。
2
辛亥革命でうまく立ち回り大総統となった袁世凱には、坂西利八郎が接近した。坂西はキャリアの大半を軍事顧問として過ごし、後に貴族院議員になった。
かれは袁世凱政権をうまく日本寄りに誘導しようと試みていたが、1915年の対華二十一か条要求の際は、中国併合論を主張した。
日本の中国政策の根本は、「支那は日本に頼らざれば何事も順当に行い得ざるものなりとの観念を国民に刻み込む」ことである……。
その後革命政府が混乱すると陸軍の支援も迷走していった。この時代を通じての代表的支那通は青木宣純と坂西利八郎だが、かれらは同時に袁世凱顧問となり、それぞれ岡村寧次、土肥原賢二を補佐に据えた。
日本の軍事顧問は軍閥同士の抗争に深く入り込んでいた。特に奉天の張作霖に対しては、満州権益の保全の観点から政府は支援を行った。
ただし、張作霖が中央進出を企むことのないよう警戒していた。日本政府・陸軍は、満州権益が軍閥戦争に巻き込まれることを避けたかったからである。
しかし張作霖は排日活動を放置し自身も日本に従順でなかったため、現地の支那通の間では張作霖を排除しより扱いやすい傀儡を仕立てるという考えが支配的となった。
その後、河本大作大佐の首謀によって張作霖爆殺事件が引き起こされたが、息子の張学良が抗日姿勢を強め、また満洲でも抗日機運が高まったため、当初の見込みは外れた。
旧世代・軍事顧問タイプの支那通が、軍閥(張作霖など)と密着し、軍閥を操縦することで日本権益を増進させようとしたのに対し、新世代は、より直接的に日本の軍事力を介入させようとした。
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代表的支那通である佐々木到一について。
佐々木は陸大卒業後、ウラジオ派遣軍特務機関に配属され、セミョーノフら反革命軍を支援した。しかし、シベリア出兵がとん挫し反革命軍の敗勢が明らかになると、日本は手を引いた。
当時は閑職であった広東の武官として着任し、国民党の軍人・政治家と交際することで、国民党通・ひいきになった。
佐々木は軍閥を「ならず者・犯罪者の集団」と考えており、孫文の理想を体現する国民党こそが中国統一の鍵となると信じていた。
張作霖、張学良と、その日本人顧問たちは、北京に芸者たちを連れてきて連日遊び惚けており、住民から非常に評判が悪かった。
かれは当時の日本軍人には珍しく国民革命に共感していたが、同時に、中国の国権回復運動・ナショナリズムが、やがて日本の満洲権益と衝突するのではないかとも感じていた。
4
1927年、北伐を進めていた蒋介石率いる国民革命軍が、南京に入城、北軍(張作霖軍)を追い出した。しかし、革命軍が日本領事館を襲撃し、また居留日本人も多数襲撃し引き揚げを強いられた。
この南京事件は政府・軍・日本国民に衝撃を与えた。
・日本はイギリスと同程度の反帝国主義・排外主義ターゲットとなった。
・軍紀の点で評価の高かった南軍(蒋介石軍)が略奪・狼藉を働いた。
南京事件をきっかけにして、日本では中国の「増長」や「暴慢」に対し毅然とした態度を要請する声が高くなった……。
中国に植民地意識で臨んでいた人びとにとって、劣等民族扱いしてきた中国人の「反乱」は許しがたいものであったろう。欧米人のそうした意識を批判し、中国に同情と共感を寄せてきた人びとにとっては、日本人が欧米人と同列に扱われ、過激な反帝国主義・排外暴動のターゲットにされたことが衝撃であった。
軍や佐々木は、事件は共産派の工作だと考え、蒋介石との妥協姿勢は崩さなかった。
北京政府、南京政府(蒋介石)、武漢政府(左派)の鼎立後間もなく国民党が統合され、国民革命軍が組織された。
1928年、済南に入城した国民革命軍と現地日本軍守備隊との間で武力衝突が発生した(済南事件)。
事件を受けて、佐々木は幻滅した。彼自身も連絡業務に従事中、中国人と南軍の暴徒に襲われ重傷を負った。以後かれは、国民党と軍閥は変わらないと感じるようになった。
満州事変を引き起こしたのは、支那通ではない石原だった。しかし、関東軍進出のために、現地で中国人を使って暴動を起こさせる等の謀略を行ったのは、土肥原賢二だった。
土肥原については、西洋人からは「東洋のロレンス」、中国人からは「土匪原」と呼ばれた。
1932年の上海事変(国民革命軍と上海陸戦隊との衝突)も田中隆吉少佐の謀略によって発生した。
……そして、謀略の背後には、ほとんど常に陸軍支那通の影が見え隠れするようになった。支那通といえば、すぐに謀略を連想させるまがまがしい事実が積み重ねられていくのは、このころからである。
5
その後佐々木は、満州国軍の養成任務にあたった。しかし、優秀な兵は皆張学良が持っていったため、練度向上は困難だった。日本軍も、抗日意識の高い漢族に近代的な軍を持たせることに消極的だった。
佐々木は、満州国軍を育てても、いずれは日本の権益と衝突し裏切られるのでは、と著作に書き残している。
満州事変が塘沽停戦協定で終息した後、しばらくは日本と国民政府の間で関係改善の兆しが見られた。しかし関東軍は華北分離工作を進め、また国民政府も強硬的な態度をとったため、関係は悪化した。
また、工作の過程で華北に非武装地帯をつくり国民党を排除したことが、逆に共産党の勢力増大につながった。
やや単純化していえば、国民党不信が華北での強引な行動を促し、それが中国側の反発を引き起こすと、今度はその反発がさらに国民党不信を強めたのである。なんとも不幸な悪循環が始まった。
1937年に盧溝橋事件が発生したとき、支那通軍人の大半は国民政府の軍事力を決して過大視してはいなかった。しかし、かれらは国民政府の抗戦意志を甘くみており、兵を派遣すればすぐに退くだろうとたかをくくっていた。これが致命的な判断ミスとなり、全面戦争に拡大した。
日本軍は規模の問題から、国民政府を軍事力で制圧することができなかった。このため軍は謀略工作……武力以外の手段を用いた秘密工作を多用した。
・参謀本部第八課(通称謀略課)設置……課長影佐貞昭。
・検討された手段……輸入港でのストライキ扇動、輸送路襲撃扇動、回教徒の扇動、寝返りや離反工作、破壊工作、蒋介石の特務機関に対するテロ・買収
・土肥原機関
・和地鷹二の和平工作
・影佐貞昭の梅機関……国民政府要人離反工作、汪兆銘政権擁立
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終章
親国民党から典型的な反中軍人に変貌した佐々木は、南京攻略に参加し虐殺事件の一端を担った。
かれは終生、中国人に裏切られた、中国人はすぐにつけあがり裏切る、という怨恨を持ち続けた。
蒋介石によって南京軍事法廷に連行された12人のうち8人は支那通だった。