◆著者の基本的立場
――なにしろあの太平洋戦争という民族的大悲劇は、決して天災ではなく、まったくの人災だった。しかもこの人災は、戦略計画上の誤算によって引き起こされ、また長期化、深刻化されたとみるべき点が大いにあったと私は思う。
自身の体験を基に、「海上護衛」の観点から太平洋戦争を検証する。
戦争指導層は、海上護衛をどう考えていたのか。
海上護衛の失敗は、必然的に政策そのものの失敗につながる。
なぜ通商保護が軽視されたのか、その根本を、著者は軍部の戦争指導、作戦偏重に見出す。
統帥権独立の下では、政府は作戦に干渉できず、鵜呑みにするしかない。
補給・兵站の軽視
◆メモ
役所手続きが致命的な問題となる例……「作業が面倒だから」という理由をいろいろな本で見たことがある。
本書は、戦争中にも関わらず、連合艦隊を統制する立場の海軍軍令部が24時間態勢でなかった点に触れている。態勢を変えるためには勤務体系や給与(おそらく夜勤手当等だろうか)を変えねばならず、規則改正の手間がかかっただろう。
別の本では、陸軍の仮想敵・軍備計画が最後まで対ソ連だったことについて、根拠文書である「帝国国防方針」が天皇決裁なので面倒くさかったというような記述を読んだ。
***
1
国家経済の根本は石油である。1941年、日本の石油備蓄は2年分だった。1941年6月の南部仏印進駐によって、石油輸入はストップした。
――資源をとるということと、そのとった資源を必要なところに運んでくるということは、まったく、別々のことがらである。
海軍は、直観的に対米戦争に勝ち目のないことを予感していたが、海上交通や輸送の点をうまく説明せず、主戦派を説得することができなかった。
開戦に対するブレーキとして、海軍は閣僚よりも強い権限をもっていた(統帥権独立と現役武官制)。
海上護衛に対する見積もりが甘く、また米英に比べ、重要性も認識されていなかった。
連合艦隊と艦隊決戦主義の原因:英海軍との状況の違い……海外貿易がさかんではなく、英国のように、海上交通保護に意識が及ばなかった。
・秋山真之とマハン、当時の米海軍……決戦主義
・明治40年「帝国国防方針」の影響……仮想敵国を米国にすること、そのものが根本問題だった。
2
真珠湾攻撃後、米国の無制限潜水艦作戦が開始された。
緒戦の勝利に浮かれた海軍省は、オーストラリア、ハワイを占領したときの日本名をどうするか、会議を開こうとした。
認識不足:作戦線を延ばせば、補給に多くの舟が必要となり、民生を圧迫する。また、兵站線の延長は、敵の攻撃に対する脆弱性となる。
ガダルカナル島では多量の船舶が沈められ、すでに島の喪失が明らかになった。舟の損失がひどくなり、「作戦か国力維持か」をめぐって、政府・統帥部間の対立が深まった。
――……これら日本の指導者たちは、表面的には依然、国民の前に強がりを見せ続けた。動きやすい日本人の国民性を考えて……それとも自分たちが国民に信を失うことを恐れたのが主だったのかはとにかくとして、結果的には国民をノンキにさせておくような方法だけがとられたことになった。
撤退ではなく、「後方展開」、「転戦」の語が用いられた。
海上護衛のための船が不足しており、開戦数ヶ月間、まったく建造を進めなかった。海軍は商戦防護、資源輸送防護への関心が薄かった。
米潜水艦は、前線ではなく、日本近海で暴れていた。幸い、近海の被害は機雷敷設によりある程度食い止められた。
3
1943年7月には、陸・海・民の船舶割り当てから、対米戦が絶望的であることが明白になった。民需に必須の許容量を割り込んでおり、これ以上船を徴用すれば国力が崩れる可能性があった。
御前会議……結論が先で、判断は後
ドイツ敗退の情勢判断は握りつぶされた。
――軍隊や官庁のような組織においては不可避的に伴うことなのだが、下のものはどうしても上の人の顔色をうかがいながら仕事をしがちである。利口な部下ほどそうである。そして、それは上に立つものが独裁的な場合は一層そういうことになる。
楽観主義がまかり通り、和平・終戦への道のりは閉ざされた。
連合艦隊に対し、軍令部は指導力を発揮することができず、言いなりだった。
――軍令部はお役所なんだ。直接に部隊指揮するとなれば、軍令部は連合艦隊司令部のように職員はみな軍令部の建物のなかで居住することが建前となる。勤務規則も給与規則も変えねばならぬ。
海軍軍令部は、「連合艦隊司令部東京出張所」と陰口をたたかれた。
1943年11月、海上護衛の重要性について説得が進んだ結果、護衛総司令部が発足した。
4
――古いことに通じている人には、知識欲がさかんで、新しいことにも関心の深い人が多いものであるが、及川大将はことにそうだった。
・機雷敷設の開始 1944.2~
・この頃には電探(レーダー)の重要性が明らかになっていたが、電探哨所の設置は間に合わなかった。
・島国の戦争:資源輸入―内地で加工―前線に輸出
資源輸入を統制する機関が日本には存在しなかった。
護衛の軽視は変わらず、人員は少なく、各鎮守府では教育行政担当者が兼務していた。
戦果のない護衛戦は、報われない戦い、「沈黙の作戦」である。
・1944年7月 スプルーアンスによるトラック爆撃
永野、杉山両総長の更迭
東条と嶋田の総長、国務大臣兼任には無理があったのではないか。
・1944年2月には、総船腹量の1割以上を喪失した。
あまりの撃沈率に衝撃を受けた統帥部は、大船団主義を採用した。しかし……
――……大船団の大は世界の標準で考えれば笑いものの大だった。さすがは盆栽作りや箱庭の得意な日本人がつけそうな大だった。
5
優秀な水中測的員はみな連合艦隊に配置されてしまった。これが改められたのは、油不足で連合艦隊が行動できなくなってからだった。
――戦場における任務というものは、それがどんなものであろうと、1つとして、常識があればつとめおおせるというものではない。戦闘における任務は、必ず敵との対決なのだ。その対決はほんの少しでも、多く訓練されてあるものに勝利が帰するという性質のものなのだ。ましてや、護衛などという課目の教科書を1冊も印刷したことのない日本海軍には、護衛の常識などあろうはずもなかったのだからなおさらだ。
石油統制の権限は、政府ではなく陸海軍が持っていた。石油地帯は占領地域であり、統帥権の及ぶところであって、政府(軍需省、企画院)は手を出せなかった。
6
・マリアナ沖海戦の敗北
・殴りこみ戦法への傾倒
7
台湾沖航空戦のとき。
――「作戦課の連中がけしからんよ。国民と天皇陛下とをだまして自分たちの功をみせびらかそうとしている。アメリカの機動部隊が潰走などとは気違いのいうことだ。その気違いがのさばっているから手がつけられないんだ」
――しかしだまされたのが国民と天皇だけならまだいいのだが、作戦課の連中はこれで、自分たち自身をもだまさなければいいが、戦略計画者たちが、自分たち自身をだましてしまったら、作戦指導はとんでもないことになる。
***
南シナ海が制圧されると、資源輸送はほぼ不可能となった。
以後、徐々に本土まで追い詰められていく様子をたどる。
沖縄戦における大和特攻の顛末について。
――「……航空部隊にばかり特攻をやらせて、水上部隊が手をこまねいているわけにはいかないという気持ちが大いにあるようです。それでこういう訓示が電報で出されることになっています」
――「……帝国海軍力をこの一戦に結集し、光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚するとともに、その栄光を後世に伝えんとするに他ならず」
――「伝統」「栄光」みんな窓外に見えるように美しい言葉だ。しかし、連合艦隊主義は、連合艦隊の伝統と栄光のために、それが奉仕すべき日本という国家の利益まで犠牲にしている。
著者の感想:日米ともに、経済封鎖の重要性を認識していれば、原爆やソ連参戦なしに戦争を終わらせることができたのではないか。キング海軍作戦部長や、一部の米海軍は、本土決戦ではなく海上封鎖による日本降伏を考えていたという。
おわり