海軍の政治的役割を再検討し、特に海軍への過大評価、善玉評価を見直す。
◆感想
本書の要点は、日米開戦後から終結までの、責任回避の応酬である。
「海軍善玉論」、「天皇に実権はなかった」、「海軍は初めから戦争に反対していた」といった説は、こうした責任回避工作の結果がいまも継続していることを意味する。
・海軍はアメリカを仮想敵国とする経緯上、対米開戦に消極的ではあったが明確に反対はしなかった。開戦前夜には判断を放棄し、近衛首相に一任した。
・対中政策においては陸軍と変わらず、満州事変に便乗し、上海では陸軍の慎重姿勢を押し切って派兵した。
・東条内閣打倒と終戦工作においては、宮中と連携し、自分たちの責任を回避することに努めた。
・「聖断」は天皇の徹底抗戦論を、周囲がなだめることで実現した。しかし、降伏の是非は天皇制の維持にかかっており、その確証がとれるかどうか議論している間に原爆が落とされた。
***
序章 日本海軍の時局認識
本書は高木惣吉海軍少将の資料(高木惣吉史料)を活用する。高木惣吉は海軍大学校主席卒業後、教官や海軍省調査課長、海軍省教育局長などを務めた。
高木惣吉の時局認識は、海軍の一般的な認識を示すものである。
・時勢は英米の自由主義から、独伊の新体制に傾きつつある。議会政治ももはや古い勢力に過ぎない。
・浜口内閣の軍縮は否定する。
・陸軍の満州事変が成功したため、海軍も中国においてプレゼンスを示さなければならない。
・1932年第1次上海事変では、海軍が積極的に侵略主義を掲げた。
・1937年盧溝橋事件では静観していたが、第2次上海事変では陸戦隊の出兵と渡洋爆撃を開始し、不拡大方針を捨てた。当時のスタッフは穏健派と呼ばれる者たち……米内光政海相、山本五十六次官、豊田副武軍務局長、伏見宮博恭軍令部総長、嶋田繁太郎軍令部次長、近藤信竹第1班長だった。
――彼らは、それなりの合理性を重んじはしたが、海軍の利益拡大の機会と見るや、陸軍以上の侵略性を露骨に見せるグループでもあった。
この時点で、太平洋での権益をめぐって英米と衝突が不可避であると海軍首脳は考えていた。
1 欧州情勢の変化と海軍
日中戦争開始後の海軍の情勢認識の変遷について。
海軍が、まったく独自に世界情勢の分析と、日本の外交方針の検討をしているというのが面白い。同じことを陸軍も独自でやっていたということだろう。
両手がばらばらに動いているような国家をコントロールするのは不可能である。
当初海軍は、陸軍の推進する対ソ戦準備、中国完全制圧、三国同盟締結には反対していた。
海軍は、対ソ戦を回避し、中国を制圧次第大陸進出をやめ、海洋における東亜新秩序建設のために海軍力を増強すべきと考えた。
やがて、枢軸同盟を強化し英米に対抗するという陸軍とほぼ融合した方針に変化した。
2 日米開戦の前提
海軍は最後まで対英米戦に反対していたわけではない。対英米戦に消極的ではあったが、海軍の役割拡大に際し不可避だろうと判断したに過ぎない。
――……海軍は、むしろ独自のスタンスを確立することに懸命であり、同時にドイツの新国際秩序形成への動きを肯定的にとらえ、自らの役割期待を積極的に見出そうとしていた。
1941年の御前会議までには、このまま制裁により窮乏する前に対米開戦すべきとする考えが海軍の見解となった。
――早期に開戦決意を固め、積極的な戦争発動こそが勝機をつかむ最大の要件とする高木の主張は、永野軍令部総長はじめ、海軍首脳たちの見解を補強するものだった。この主張の背景には、海軍が政局に左右されず、対陸軍との関係において主導権を発揮したいとする強い願望があった。
陸海軍の戦争能力に不安を抱き、判断できずに迷っていた近衛首相は、海軍の意見を参考に対米開戦に傾いていった。
3 日米交渉の展開
御前会議に先立ち、天皇も永野のジリ貧開戦論に納得した。
陸海軍は日米交渉を単なる時間稼ぎとしか見ていなかったが、世論は交渉に期待し、株価が高騰した。
開戦が間近にせまると、海軍は開戦の回避判断を放棄し、「首相一任」とした。この理由は、開戦責任を回避するか、または海軍内で意見が一致しなかったためと思われる。
設立以来、アメリカを仮想敵国としてきた海軍が、自ら開戦回避を主張することは自滅につながると首脳は判断した。
[つづく]