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『餓死(うえじに)した英霊たち』藤原彰 その1 ――日本軍の餓死に関する概説書

 

 アジア太平洋戦争の死者310万人のうち軍人は230万人、この過半数が餓死である。また、これは全戦場で起きた現象である。

 

 本書は大量餓死をもたらした日本軍の責任と特質を明らかにする。

 著者は陸軍士官学校卒業後中国戦線に派遣され、戦後歴史学者となった。

 

  ***

 第1章 餓死の実態

 

 1 ガダルカナル島の戦い(1942.8-1943.1)

 経緯……海軍の設置した飛行場をめがけて米海兵一個師団が上陸、これに対抗し制空権を奪われた中で大本営(担当者:服部卓四郎)が兵力(一木支隊、川口支隊、第二師団、第十七軍など)を逐次投入した。

 百武中将以下3万将兵のうち1万5千人が餓死、5千人が戦死した。

 原因……大本営は情報収集なしに飛行場奪回を試みた。鼠輸送(駆逐艦輸送)のため白兵突撃しかできず。住民の少ない密林の島にはまともな食糧なし。

 

・不思議な生命判断

・寝たきり状態の兵士による持久戦

・銃剣突撃を信奉する白兵至上主義、歩兵学校教官の一木大佐

・以後、ソロモン群島で同様の事象が生起……ブーゲンビル島など。

 

 ――……今度は畑を荒らす者が出た。畑を荒らす者は銃殺であった。人肉を食べた者があるなどという話もあった。

 

 ――ブーゲンビル島の場合……食糧を求めて隊を離れた兵士を「敵前逃亡」の罪名で厳罰に処している。

 

 ラバウルには第八方面軍司令部、海軍南東方面艦隊司令部がおかれていた。しかし44年には米軍のトラック島無力化、サイパン陥落(6月)、レイテ上陸(10月)により孤立した。

 今村均方面軍司令官は、自活農耕計画を実施させた。大量餓死は免れたが兵の95パーセントがマラリア罹患者だった。

 

 

 2 ポートモレスビー攻略戦(1942.7)

 大本営は第十七軍(司令官百武中将)に対しニューギニア北岸から陸路でのポートモレスビー攻略研究を命じた。スタンレー山脈の横たわる陸路侵攻は、補給の問題により不可能と回答したが大本営は無視した。

 7月、ダバオにやってきた辻政信参謀がモレスビー攻略を厳命した(辻の独断専行を服部作戦課長が容認)。

 横山先遣隊、南海支隊は高度4千メートルの険しい山脈に分け入った。部隊が飢餓状態になったところで、大本営は撤退を命じた。

 その後大本営はブナの要域確保を命じたが、1943年1月には玉砕した。

 

 ――……老いさらばえた乞食といった様子だった。

 

 補給計画なしに守備を命じた大本営は、現地の教訓を無視し、「作戦の失敗を指揮官の精神的要素」に帰した。

 

 ――第一線の情況をもっと認識すべきだとか、飢餓が軍人の節操、軍紀をいかに弛緩させるかとか、未開地の兵要地誌を綿密に調査の必要があるなどという現地からの教訓は受け容れられなかった。

 

 

 3 ニューギニアの第十八軍

 さらに大本営は安達二十三(はたぞう)中将率いる第十八軍を東部ニューギニアに送り込み、引き続きモレスビー奪還を試みさせた。

 14万8千人のうち13万5千人が戦死した。

 

 大本営の無知……ニューギニア島は日本本州の三倍半ある巨大な島で、中央山脈は標高5千メートルを超え、島のほとんどは通行困難な密林と大河である。

 

 ――東部ニューギニアにおける日本軍死者の大半は、密林や山脈を越えての転進の行軍中に力尽きて倒れた犠牲者であった。

 

 一方、連合軍はニューギニア島などのジャングル島を「海」と考えており、航空戦力による作戦を計画していた。

 遊兵になった十八軍はウエワク付近に集結したが、飢餓と連合軍に追い詰められた。

 

 ――……だれよりも食べる事のほうがより重要であり、私自身痔を回復させることがさらに先決重要な問題なのだ。墓穴のような壕を急いで掘らせる必要はない。銃はさび、銃弾もすでに十数発のみになってしまい、ボロボロの哀れな服装そして骨だらけの肉体、もう軍人でない乞食の集まりなのだ。

 

 

 4 インパール作戦

 1944年3月~ ビルマ方面軍によるインド領侵攻計画

 河辺正三ビルマ方面軍司令官と牟田口第十五軍司令官の暴走を止められるのは、寺内寿一南方軍総司令官または杉山元参謀総長しかいなかったが、かれらは容認した。

 牟田口は隷下の三師団長を罷免し作戦を強行したが、失敗し、莫大な犠牲を出した。

 

インパールからの撤退……「靖国街道」「白骨街道」

ビルマ方面軍兵力約30万、戦没者18万5千、帰還者11万8千

・約8割が餓死、栄養失調死、病死

 

 

 5 孤島の置き去り部隊

 太平洋戦争の島の多数で日本軍守備隊は孤立した。

 

 ――米軍の背後に取り残された島々の日本軍守備隊は、日本からは見放され、アメリカからは無視されて、まったくの遊兵になってしまったのである。

 

 当初陸軍は、中部太平洋への派兵は補給が困難として渋っていた。そのため、その後の兵力投入は不可解である。

 1943年9月の絶対国防圏戦略……敵の進攻箇所に兵力を投入するのでなく、後方で決戦準備を整える方針を策定した。

 1944年2月、連合艦隊最大拠点であるトラック島が壊滅し、国防圏の一角が崩れた。その後も兵力投入は続いたが、制空権・制海権がないため順調に配備につくことはなかった。

 

 置き去り部隊の実態……ウェーク、ウォッゼ、マロエラップ、ミレ、ヤルート、ナウル、オーシャン、クサイ、エンダービー、バガン、メレヨン、大鳥島南鳥島、ボナベ、モートロック、ロタ、トラック、パラオ地区、ヤップ地区

 

・餓死

・島民虐殺、食糧取締

 

 ――島民を処刑したり、朝鮮人労務者を殺して食べたという凄惨な事例が、これらの島で生じていたのである。

 

・栄養配分には階級差があり、将校は生存率が上がった。

・盗賊化した兵が多く、毎晩銃声、私刑や吊るし首、縊り殺しが絶えず。

 

 

 6 フィリピンでの大量餓死

 最大の戦死者を出したのはフィリピンであり、約50万人が死んだ。割合は明らかでないが、当時の軍中央の認識でも、戦後の調査でも、戦死より戦病死の方が上回っている。

 1944年9月にフィリピン方面での決戦可能性高しとして捷一号作戦が計画された。10月に米軍がレイテ島に上陸し作戦が発動した。

 しかし、台湾沖海戦の誤報をもとに進出した連合艦隊は全空母と武蔵以下軍艦多数を失い、山下大将らの第十四方面軍もすぐに飢餓状態となった。

 12月にレイテ決戦方針をあきらめルソン島決戦に変更されたが既に持久戦以外の道はなかった。

 

 ――結局レイテ決戦は掛け声だけに終わり、日本陸軍唯一の対米決戦と称号された割には、戦力も集中できず、決戦らしい戦闘も展開できず敗北に終わったのである。

 

 第二十六師団は生還率1パーセントだが3割はレイテ到着前に水没した。

 レイテ島は他の島と異なり米軍がおり、またフィリピン軍ゲリラが活発であり、現地人は敵だった。

 フィリピンは日本軍に呼応する動きはまったくなく、民衆は日本の軍政に抵抗した。

 

 

  [つづく]

餓死した英霊たち (ちくま学芸文庫)

餓死した英霊たち (ちくま学芸文庫)

  • 作者:彰, 藤原
  • 発売日: 2018/07/06
  • メディア: 文庫
 

 

 ◆著者の回想録