副題「一九世紀海洋支配の構図」。
本書はアジア海上覇権のかぎを握った、イギリス海軍Royal Navyを扱ったものである。アジアの海上帝国を築くにあたり、海軍と海運と造船が主力要素となった。
一般的にヴィクトリア中期(一八五〇~七〇年代)は小英国主義(植民地分離主義)・反帝国主義の時代とされているが、著者らはこの時代もまた帝国拡張の時代であったと主張する。「アジア諸国の伝統的孤立を軍事的「強制」によって打破し、自由貿易体制に編入する」のがイギリス海軍の任務であり、その代表がアヘン・アロー戦争である。
一 帆船と蒸気船
六〇年代、蒸気船が実用化され、風まかせではない海上の定期貨物輸送が確立した。
「一九世紀中葉にいたるイギリス海軍の建艦技術とは独自の開発によってではなく、もっぱら造船業における技術的成果に依拠して発展をとげたのであった」。
十八世紀初頭、インド近海を独占していたのは、East Indiamanとよばれるテームズ川沿いの造船業者で、これは東インド会社のものだった。この船はあまりに巨大で鈍足だった。政府は、イギリス海軍の東インド艦隊を配備するより、東インド会社帆船を軍艦化させてしまおうと考えたのだった。
インド海運とイギリス海運のあらそい。ラスカルとはインド人乗組員のこと。イギリス海運業者は、徐々にインドの造船業者を外洋航海から締め出していく。ボンベイやカルカッタなどのアジアの造船は、地域により専門分化していた。ベンガル以西では大三角帆船、インドシナではプラフやサンパンとよばれる帆船、極東では中国型ジャンク船が主流だった。一方、ヨーロッパの船はクリッパーが主流だった。
産業革命以降、貿易業と海運業が分離したため、一般的な形態のヨーロッパ船が有利になったのである。一九世紀中葉にはイギリス海運が東西の外洋航路、インド沿岸航路を支配した。この時期、イギリス綿布の対インド輸出とインドアヘンの対中国輸出が飛躍的拡大をとげた。
アメリカ発祥の高速帆船クリッパーが登場する。一八四九年航海条例の撤廃にともない、アメリカも中国茶のロンドンへの輸送に進出する。茶の香りを保つにはスピードが命だ。アメリカのクリッパーにおされ、イギリス海運は一時低迷する。
一八六〇年以降、南北戦争や対日貿易への重点移行によりアメリカの中国茶貿易は衰退する。同時にイギリスが木鉄交造船を発明し、再び回復する。クリッパーの黄金時代がはじまり、クリッパー・レース(どのクリッパーが一番先に茶を届けるか)も行われるようになる。
ところが一八六九年のスエズ運河の開通、そしてそこを通れるのが蒸気船のみであったので、時代の移行は早かった。一八八〇年ごろからは世界中に蒸気船時代がおとずれる。
蒸気船の起源もまたアメリカといわれる。大陸では陸上交通が発達せず、河川の船が頼りだったからだ。
――海軍省はごく一部の民間蒸気船会社に航路独占と高額の政府補助金を保証することによって、世界中に広がる一大郵便汽船航路網を建設していったのである。
蒸気船は郵便輸送の独占につづいて、貨物輸送の分野にも進出を試みた。ここでは三大改革がそれを促進した……鉄船、スクリュー・プロペラ、高圧機関。
鉄船についての偏見は多かったが、鉄船は木造船よりも軽い。木材不足だったイギリスで、大量生産により価格の下がった鉄を用いるのは効果的だった。スクリュー・プロペラは外輪船よりも優れていたが、これも造船業者の採用が遅れ、しばらくは外輪船が主流だった。グラスゴーのエンジニア、エルダーによって連成機関compound engineが発明され、高圧蒸気機関が採用される。
一八二三年につくられた蒸気船ダイアナ号は、翌年からはじまったビルマ戦争で活躍した。ゲリラ戦術を用いるビルマ軍と、インド人セポイの前に英軍は苦戦したが、ダイアナ号の首都アヴァ侵攻により勝利した。ベンガル総督ベンティンク卿曰く「蒸気船はインド文明の改善をうながすだろう」。
英印間汽船航路開設運動では、カルカッタに先んじてボンベイが主導権を握った。喜望峰ルートを六〇から七〇日で航海するため、懸賞金がもうけられた。紅海ルートを発展させたのは東インド会社やイギリス政府ではなく、P&O社やブリティッシュ=インディア汽船会社などの民間蒸気船資本である。
P&O社は郵便航路を独占することで急発展した。補助は郵政省ではなく海軍省がおこなった。政府経営では汽船の費用で赤字になるので、民間の助けをかりたのである。海軍にとっては、同時に郵便船を予備戦力にできるため、P&O社の汽船は第二次ビルマ戦争、クリミア戦争、セポイの反乱、アロー戦争に用いられた。
また、この会社にとってもっとも確実な利益となったのはやはりアヘン貿易だった。
BI社(ブリティッシュ=インディア)は「P&O社の主要な外洋航路と接続する支線航路を開設しつつあった」。設立者マッキンノンはカルカッタ―ラングーン間の郵便航路を開発した。一八六三年、インド海軍(旧ボンベイ海軍)は解体を宣告され、インド沿岸・近海の軍事も含めた輸送はBI社が取り仕切ることになる。
――アヘン戦争とは、いうまでもなく、門戸開放をせまるイギリスが中国にたいしてアヘンの売込みを強行した結果生じた戦争である。
インド産アヘンが売られたので、英印中の関係について知る必要がある。敗戦の結果、南京条約などにより中国は「イギリスを中心とする自由主義的世界市場の底辺に組み込まれていったのである」。ところが、保守的で開発の遅れた海軍にかわって、東インド会社の派遣船が特殊砲艦(gunboat)により戦争を制したのだった。積極外交の外相バーマストン。
当時中国との貿易は広東貿易という制限貿易だった。中国はイギリスとの関係を「朝貢」と考えていたからだ。公行という現地の担当者が貿易を管理していたが、アヘンはその圏外に出つつあった。中国はアヘン輸入禁止令を出し、東インド会社もアヘン取り扱いを禁止した。こうしてアヘン貿易は密貿易となり、地域貿易商人が担う。
取り締まりは賄賂で容易にやぶられ、公然とアヘンが取引される。一八三四年首席貿易監督官ネーピアが、対等外交を要請するため広東にやってくる。ネーピアは挑戦的な態度をとったため中国側が武力を用いた。これによりネーピアは持ってきた砲艦二隻によって中国に侵入し、恫喝する。これがバーマストンの「砲艦政策」であった。新任の東インド艦隊司令長官J・ゴアもフリゲート艦をもって協力したが、結局その後撤退し、「沈黙政策」が二年続く。
監督官エリオットのとき、北京はアヘン厳禁論を決定する。アヘンはインド支配のかなめだったので、アヘン密貿易撤廃はイギリスにとって容認できるものではなかった。アヘン取締りのために湖口総督林則徐がやってくる。
郵便が中国からインドに届くのが一ヶ月単位であり、遅配は事態を大きく変えてしまう。アヘン没収事件が本国に届いたのは半年後だった。イギリス海軍は沿岸部を占領していくが、最大の脅威は赤痢・マラリアなどだった。
中国沿岸においては吃水の浅い鉄製汽走砲船が重要である。一八四一年八月、イギリス大艦隊がアモイから沿岸部を攻めつつ北上していく。揚子江に侵入するが、ここでも東インド会社の鉄製汽走砲船が活躍した。結局上海近くの鎮江を占領されると、清朝は南京条約を締結する。
――インド総督の拠点カルカッタが独自の公式見解を有し、イギリス本国の利益よりもむしろインドのための外交政策を追求した、というところにアジアにおけるイギリス帝国主義の特徴があった。
インドにはロンドンほど領土膨張の意志がなかったとされる。アヘン戦争のみでなく、インド軍は同時期に第一次アフガン戦争をも戦っていた。汽走砲船の導入は、保守的な海軍省には知らされず、東インド会社によって秘密裏に企画された。アヘン戦争は汽船への移行期の起点だった。
三 アロー戦争前後の英米海軍
この時期、イギリスは各地で問題を抱えていた。太平天国軍、イギリス・ペルシア戦争など。日本遠征を試みる東インド艦隊司令長官ペリーと、中国駐在大使マーシャルは対立していた。マーシャルは中国の居留地防衛をせよというが、ペリーはすべて拒否した。政府役人と軍人の対立は、イギリスでは役人が優位に立っていたが、アメリカはそうではなかった。
日本は石炭の市場および避難港として開国させる必要があると英米は考えた。イギリスは外患でそれどころではないので、アメリカに任せられた。
一八五六年十月、イギリス船アロー号が清朝官憲により不当に捜索された。実は直前にすでに中国に所属が戻っていたのだが、イギリスはフランスと連合し、反撃をはじめる。当時、本国では植民地政策について二つの意見があった。平和的自由貿易政策と植民地分離主義をかかげるマンチェスター派のコブデンと、強制自由貿易を推進するパーマストンである。結局総選挙でコブデンらは惨敗した。
この時期になると帝国のあちこちで火がつきはじめたようだ。アロー戦争と同時期に、セポイの反乱がはじまっている。
総領事ハリスは清朝を破った英国と比較して、彼らがくるまえに平和的なアメリカと和親をむすぶべきと幕府にせまる。東インドでは、少ない海軍をいかに運用するかが共通の問題だった。
アロー戦争での英軍はほとんどインド兵で構成されていたが、これはセポイの反乱に伴い東インド会社が解体され、イギリスの直接統治がはじまったことを物語っている。
結局、アロー戦争に勝ち天津条約を結んだものの、中国農村の経済構造を変えることはできず、イギリス綿布の輸出は伸びなかった。さらに一連の対中国戦争の道義性にも批判がおこり、武力一辺倒の砲艦政策の時代は終わったのだった。
四 海洋支配の構造
アメリカはサンフランシスコ―上海間の補給港として日本を選んだ。アジアを網羅したのはあくまでイギリス資本主義だった。インドへの地中海ルートではジブラルタルが重要な場所だった。紅海河口のアデンはフランス、ロシアにたいする前哨基地の役目を果たしていた。
マラッカ、ジャワがオランダの領有に戻ってしまったので、新しい中継点をつくる必要があった。植民地政策の祖ラッフルズは、そこでシンガポールを建設することに成功した。
一九世紀中頃からスクリュー船の利用が増加したが、燃料は大きな問題となった。石炭の消費を抑えるために、航行速度や汽走船の使用条件に厳しい制限が設けられた。
インド財政の危機にともない、一八六三年にインド海軍が解散させられた。それ以降、インドにおけるヨーロッパ水兵の徴用は禁止され、すべてインド人で占められることになった。彼らは百年前に海賊としてボンベイ海軍と戦った民族の子孫だった。
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内容の重複が多い。
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