古代から近代にかけてのアジア全域の歴史について。
宮崎市定は歴史において重要な要素として民族、土地、交通をあげる。特に歴史とは諸国家、諸民族間の交通とそれに伴う競争により発展してきたのだと彼は主張する。
第一章 アジア諸文化の成立とその推移
西アジア、インド、中国の文化勃興について。民族から成立した国家は愛国心を必要とする、都市国家の集合体である国家は強力な中央集権を基盤とする。
農耕民族の成立神話には、動物に育てられた王というものが多い。棄子信仰はもっとも進歩した説話の形態であるとのこと。
西アジアにおけるペルシア大帝国とその崩壊、その後の、アジアの一州ヨーロッパにおけるローマ帝国の成立とその崩壊。アレクサンドロス大王はペルシア征服後、ペルシア化したため、西アジア史ではイスカンダルとして正統の王の座にある。このアレクサンダーの帝国のなかでギリシア文化が伝播し、ヘレニズムが生まれた。
仏教は当時のバラモン教の既得権益に対抗するものであったから本国では栄えず外国で普及することとはなった。一方、類似の思想をもつジャイナ教はインド本国に限り今も百万強の信徒を擁している。その少し前に成立したウパニシャッドはドイツ哲学にも大きな影響を与えている。
マガダ王国とコーサラ王国の時代、バラタ族の抗争を描く『マハーバーラタ』と英雄、ヴィシュヌの化身ラーマを主人公とする『ラーマーヤナ』が成立した。
その後マウリヤ朝(孔雀王朝)が、チャンドラグプタ王により建てられる。パータリプトラが都である。この頃は、インドのすぐ近くまでギリシア植民者がやってきていたのだった(バクトリア王朝)。
大乗仏教はインド以外の気候風土にそぐわない戒律を排除し、やがて中国、日本などに広まった。一方小乗仏教はインドと同緯度経度のインドシナに普及した。
中国の起源について……覇権国家である秦の政策により、軍人、官吏、庶民は世襲でなくなった。並立していた王の呼称を捨て、唯一の皇帝なる名称を用いた。
――このような皇帝政治の理想は、実際にはその実現がすこぶる困難であったが、たんなる理想としては清朝末年まで存続した。この空想的理念が中国人心を支配したことは、中国人に理想と現実を混同する習慣を与え、実際のいかんを問わず、理念上中国が世界の中心にあり、その中国皇帝が四海を統合しつつあるという形式だけでも維持しようと努めさせるようになり、中国社会をいちじるしく鎖国的排外的にする結果を招いた。
漢の武帝の時代になると地方に門閥貴族が勃興し、以前のような専制独裁は不可能になった。後漢の滅亡はローマの滅亡と比較できる。後漢ではおもに辺境の遊牧民族から兵士を徴募していたが、その傭兵らを擁する将軍薫卓によって首都を制圧された。これはゲルマン傭兵オドアケルのローマ乗っ取りと重なるものだ、と著者は言う。
第二章 アジア諸民族の相互的交渉
アルダシル一世はササン朝ペルシアの建国者であり、ゾロアスター信仰復活を旗印としてふたたび西アジア一帯に覇権を打ち立てた。その最盛期はコスロウ一世の時代、ちょうど東ローマ帝国がおこったころ(東西分裂)である。このときバビロンではローマを追われたユダヤ教文化が栄えていた。ペルシア領内の宗教界は大混乱であった。
イスラームは純粋なるセム民族的一神教の復古であるという。キリスト教は一神教でも緩い方に属する。イスラーム帝国の成立。唐とウマイヤ朝は友好関係にあった。
アラビアに服従したペルシアの民とアリー一派が手を組み、シーア派が生まれる。これを征伐したのがアッバース朝でありスンナ派の起源である。バグダッドは諸科学の中心であり、これがなければヨーロッパの中世からの脱却はなかったとのこと。
――インドから南洋にかけて興亡する国家は、その間に一脈相通ずる特色をもっている。それはすなわち国家の永続性に乏しい事実である。これにたいしてはいろいろの理由が考えられるが、その最大のものは民族の複雑性に求められる。
インドはヨーロッパに匹敵する亜大陸であり、民族も多種多様であるという。匈奴は一時的には漢を従えたのだった。三国以降、中国は中世的停頓の時代であるという。
第三章 アジア諸文化の交流とその展開
東西交流の具体的なルートについて。商業に秀でた民族ソグド人の言葉が公用語として用いられた。彼らの土地はソグディアナと呼ばれていた。ソグド文字はのちにウイグル文字、蒙古文字、満州文字となった。
「ペルシアの精神文明の基調はマズダ教である」、これは一神教、ニ神教、多神教の性質を同時に備えた宗教である。そこから生まれたのがゾロアスター教とミトラ教である。
マズダ教は唐においても栄えた。マニ教はペルシアにおける新宗教で、ゾロアスターの二元論とは異なり、この世はすでに悪の創造物であり、霊魂だけが光のものであるとした。マニ教は厳格な戒律を設けたが、既成宗教の勢力に迫害されて四散した。
アラビア帝国による征服のとき、改宗を拒否してインドに移住したペルシア人はパルシーと呼ばれた。彼らは商業をつかさどり、インドと同化せずに生活したが、のちに大英帝国と連合を組みベンガルの富を掌握した。
日本とペルシア……太陽神ミスラ、ミル、ミヒル、弥勒となった。
バラモン教の哲学的基礎はウパニシャッドであるが、これは上流階級に限定され、一般大衆のあいだで世俗化したものをヒンズー教という。
チベットではインドの真言密教と原始信仰ボン教が融合し、のちに長く国教となるラマ教が生まれた。
第四章 近世的ナショナリズムの潮流
文明の進展には地域差があり、西洋が中世の停滞にあったとき、アラビアは既に近世を迎えていた。著者は、近世の特徴は分裂からの再統一であり、とくにナショナリズムの勃興であるというが、これは近代のことだろうか。
唐とサラセン帝国は貿易ルートを巡って衝突したがこれはアラブが勝利した。中国ではアラビア人のことを大食(タージ)というがこれはアラビア語で商人タージルンがなまったものだろう。イスラーム帝国のナショナリズム基盤はコーランとアラビア語である。アラブ人のみが特権をもっていたウマイヤ朝までをアラブ帝国、その後をイスラーム帝国と呼ぶのが一般的であるという。
宋ははじめから遼に負けていたという。すぐに女真族に乗っ取られ金を打ち立てられ、宋は南宋となる。
「当時すでに衰えながらもなお武力に自信があった女真人の国民主義は敵国の立場をも承認するだけの雅量があり、これに反して、国勢衰微してつねに敵国から圧迫をこうむりつづけた宋側は強烈な民族主義に目ざめつつあったが、それはたんなる神経質的な敵愾心としてのみ発露するよりほかはなかったのであった」。
モンゴル大帝国がはじまる。これはしかし、西アジアのトルコ勢力に秩序を与えたにとどまったという。チンギスハンの疏族を称するチムールが西アジア一帯を征服し、オスマン族をも敗退させるが、病死により帝国は瓦解する。インドに落ちたチムールの残党はここでムガル帝国を建国する。
中国では元の衰退に乗じて漢民族の国である明がおこった。太祖は外患を防ぐために鎖国政策をとったが、のちにこれは弊害となったため永楽帝は宦官鄭和を諸国に派遣し朝貢貿易を奨励させた。
蒙古出身のバーブルはインドに乗り込み、ムガル(モンゴル)帝国をつくる。
「そもそも倭寇という時、それはたんなる海上における掠奪行為よりも、むしろ海賊が陸上に上がって都市を掠奪する動乱を意味するのである」。
清朝、満州族は六、七十万人ほどにすぎなかったが、独裁専制によって、国民主義の消滅した、数百倍の漢民族を平定することができたのだった。清朝は辮髪令を施行した。また、史上はじめて蒙古部を完全に平定し、オスマントルコと並ぶアジア最後の近世大帝国となった。
満州人からなる八旗兵と、漢人からなる緑営兵。独裁皇帝は満人を用いて宦官の専横を抑えることに成功した。だが満州人は叛乱を起こすことはなかったものの、次第に個人主義化、漢人化していくのだった。
第五章 近世文化の展開
「元来アラビアの女子は男子と同様に社会的に活動したのであり、後世イスラム世界に普通となった覆面の習慣は、ペルシアの貴族的な後宮制度から影響を受けたものにすぎない」。
九世紀にアル・ファリズミは『アル・ジャブル』という代数学の書を著したが、これがそのままalgebla代数学、となった。アラビアは当時の文化の集大成であった。
後ウマイヤ朝はスペインのコルドヴァを中心とした国で、異教徒に寛容であったから、キリスト僧でコルドヴァの大学に行くものも多かった。
イスラム文化はウイグルを通して中国へ伝わったので回々(フイフイ)と呼ばれた。オスマン・トルコは宗教的に比較的寛大だったから、ポグロムから逃れてきたユダヤ人や異端キリスト教徒が多数亡命してきたのだった。オスマン帝国の最盛期はスペイン、ポルトガルと一致し、十八世紀になってからは貴族化、西洋化し、衰退していくのだった。この十八世紀のオスマン帝国をチューリップ時代文化とよぶ。
中国では学問が官吏として登用されるためのものでしかなく、朱子学以来停滞したまま発展がなかった。また発明も妨げられた。ヨーロッパでは、中国が美化され、中国思想、中国美術などがもてはやされた。
第六章 最近世文化の東漸
オスマン朝は東ローマを滅ぼし、イスラムの教主(カリフ)、皇帝(スルタン)を兼ねることとなった。
ポルトガルはアテネやヴェネツィア、ジェノヴァの系譜に連なる海上国家で、本土は狭小だが海軍力と海の支配により富を築く。だが海軍は普通植民地を建設するときに内陸部には進めないのが常である。やがて覇権をオランダに奪われて衰退していく。イギリス、フランスはまだオランダにおさえられていた。
ロシアの勃興はオスマン帝国の成立と重なる。ロシアは資源確保のために東進を重ね、やがて南下政策にともない満州族(清)と衝突することになり、ネルチンスク条約により停戦となった。
ヨーロッパのアジア進出やロシアの拡大にともない交通路に変化があらわれ、中国では南に富が集中することとなった。日本でも、島津氏は琉球を通じて中国との貿易を続けたため、富が西に集中するようになった。これが徳川氏に大きな打撃となった。
――新交通路の出現によって、全世界から取り残されたのは西南アジアである。せっかくヨーロッパとアジアにまたがって絶好の位置に中心を定めたオスマン・トルコ帝国は、いまや交通の大路から見放されたところでしかなくなった。
キリスト・イスラームの抗争を続けてきたヨーロッパにとって、どちらにも属さず、そのうえ文化的でもある中国と日本は衝撃を与えたのだった。宗教を離れた社会構成が可能であるかという点で、儒教はとくに、革命家や合理主義者たちに注目されたのだった。
――従来、悪魔の化身と嘲笑されたマホメットは、十八世紀に入ってから、はじめてヨーロッパ人から歴史的な偉人として公平に評価されるようになった。これとともにイスラム教と同種に見なされてきたユダヤ教徒にたいする取扱いもしだいに改善されることになったのである。
インドでは侵入する民族が次々と土着の階級となるため、階級が増え続け、国家はどんどん支離滅裂になっていくのだった。ムガル帝国と、南方のマラータ同盟が戦争をおこしているところに、ヨーロッパ勢力はやってきたのだった。これをきっかけに英仏は植民地総出の全面戦争に突入したのだった。
東インド会社によるインド征服事業。インドの傭兵(セポイ)のあいだに、銃の油に牛脂や豚油が使われているとの噂が広まり、不満が爆発した。これが一八五七年のセポイの反乱で、平定に二年あまりを要するインド全土に広がる大騒乱となった。これにより東インド会社は解散し、統治権はすべて国家に委ねられることになった。
鉄道などの交通の発達は、インドにとって諸刃の剣であった。便利になるが、素早く軍隊を結集できるからである。
清朝の崩壊。オスマン帝国の滅亡まで。イギリスとフランスの支配強化、ロシアの強大化。清朝を教訓にして、一足先に開明化したところに日本の勝利があったのだろうか。
第七章 アジア史上における日本
攘夷論、勤王党が薩摩藩で流行したのは、鎖国でいちばん得をしたのが薩摩だからである(密貿易)。開国のあとも、そこに中世の残滓があったことが、悲劇の一因をなしたのだと彼は言う。
第八章 現代アジア史
孫文の革命軍が進軍しているとき、外蒙古(モンゴル)は既にロシアの支援により清朝から独立していた。国民党は袁世凱を代表者に仕立てたが、この袁世凱が清朝に続いて再び独裁君主となってしまった。彼の基盤は軍隊であった。
袁世凱の死後、胡適、陳独秀らが言文一致運動に比する文学革命(白文奨励)をおこした。
「変転のめまぐるしい中国においては、それほど古くもない歴史現象についてさえも、その評価がたちまちにして変わってしまうことが少なくないのである」
孫文の三民主義はいまだ力をもっていたが、かれらの民族主義とは、欧州の民族自決とは少し趣が異なる。漢民族によれば周辺のチベット、モンゴル、ウイグルなどの蛮人は中華の枠の中にいなければならないのである。
二十年代は安直戦争、奉直戦争と内戦が続く。覇者を失った中国はまさに戦国時代とかわらない(「三国志まがいの軍閥闘争綺談」)。北伐により中国を席巻する蒋介石国民革命軍にたいし、軍閥の最後の砦となった張作霖は一時撤退を試みるが、ここで日本軍に爆殺されたのだった。
悪魔を利用したものが最後は悪魔に命をとられる、自ら招いた悲劇だと宮崎は言う。
満州国成立の背景には、当時はまだ特殊権益、勢力範囲(植民地等)への国際的な承認があった。また欧州列強は日本軍の武力をおそれ、またイタリアとドイツのファシズム勃興により東アジアに目を向ける余裕がなかった。アメリカもまた手を出さなかった。
国民党の迫害を逃れた共産軍は(大長征)延安に落ち着く。その後、スパイ張学良の働きによって抗日民族統一戦線の密約が結ばれた(西安事件)。盧溝橋事件は、北京の駐屯軍が満州軍の論功行賞をうらやんだためにおこった。
日本の無条件降伏を機にインドネシアはスカルノを大統領に立てて独立する。その後共産党員を大量に殺害したスハルトが大統領に代わるが、官僚がいなかったため発展せず、国家の求心力もなかった。
「官僚組織というものは整いすぎると能力が減退するが、まんざらなければ、なお困るのが実情である」
一九四七年のインド自治確立後、インドとパキスタンはカシミールをめぐってたびたび紛争をおこしたのだった。さらにパキスタン国内でも東と西に分かれて闘争がおこった。東パキスタンが独立したのがバングラデシュである。
インドは古くから日本に友好的な国であり、長くイギリスの支配を蒙った経験から、独立をいち早く勝ち取った日本に同情的であった。
戦後イギリスは、マクマホン書簡により将来のトルコにたいするアラブ人の自治を保証する一方、バルフォア宣言によりユダヤ人がパレスチナに民族国家をうちたてることを認めた。こうしてパレスチナにはユダヤ人とアラブ人が押し寄せ、両者の対立が生まれたのだった。ユダヤ人は資本競争で圧倒的に有利であり、テル・アビブなどの大都市をつくったため、アラブ人は恐怖心を抱いた。彼らはユダヤの面倒を見ているイギリスにテロを続発させたため、イギリスは国連でパレスチナの統治国であることを辞退する。ここからイスラエルの建国と、アラブ諸国の戦いがはじまる。
日本がなぜ近代化に成功したのかは、研究者にとっても好課題であるという。まず、長い平和があったこと、そして中国的な奢多を知らなかったこと、また地理的に有利であったことが要因であると彼は考える。
富国強兵は、帝国主義時代の世界のなかでは至極当然の政策である。問題は、日清戦争によってアジアの一人であることを忘れて、準白人待遇を望むようになったことだったという。
「世論は敗者にたいして冷酷である。日本とドイツが戦争に敗けると、東条英機やヒットラーだけが戦争の張本人のように取り扱われる。しかし本当はスターリンやチャーチル、ルーズベルトといずれも本質的に違ったところはないのだ」。
「資源と市場との極度の偏在、それが第二次世界大戦の真の原因であった」。
戦争終結後の生産過多の対策に、英連邦やフランスなど物持ち国家はいずれも封鎖経済を行った。このため枢軸の持たざる国は封じ込められたのだった。
軍部が暴走した際、政界と実業界の人間は対抗したため右翼テロの犠牲になった。一方、言論界と新聞は猫のようにおとなしかった。
――アメリカの日本占領そのことは最初の段階においてはだいたい成功したと見てよいであろう。しかし一つの誤算は日本の復活を恐れるあまり、韓国に日本を監視する探題の役を与え、そこに排日教育を奨励した点にある……個人でも民族でも、和解を勧めることはきわめて難事であるが、憎悪を教えるのはこれほど容易なことはない。
真の日本の姿はどこにあるのか、と宮崎は問う。
侍たちの軍隊と政治は、敗戦により一応消滅した。町人は富国強兵と経済成長を担った。一方つねに犠牲になり、富の分配もしんがりなのが百姓である。農村の消滅とともに農民的世界観、百姓道も消えつつある。
――自然を相手にするから無理をせず、功をあせらず、名を求めず、困苦に耐え、運命に忍従するのが徳川三百年の間に培われてきた百姓のモラルであった……自然の資源の少ない日本においては、モラルの資源を愛護することを知らなければ、表面的にはどんなに経済成長を遂げようとも、見かけだおしのその繁栄はけっして長くつづくものではない。いわゆる経済の高度成長も、短期間で達成できたものは、また短期間で失い易いと覚悟しなければならない。
彼はインドと日本の世界史上の位置が類似していると考える。どちらも徳川時代、ムガル帝国時代を経て、ヨーロッパ勢力といちはやく出会い、洗礼を受けることになった。インドは英領になり、日本は明治維新に成功したが、本質的には通じるものがあるという。
ナショナリズムは再統一のための方便としての意味しかもたないと彼は考える。