ユーゴスラヴィアとは「南スラヴ」の意味である。
ユーゴの歴史は、第1のユーゴ(1918年の成立からナチスドイツによる占領まで)と、第2のユーゴ(1945年の成立から92年の解体まで)とに分かれる。
ユーゴは、東西キリスト教圏の境目であり、またハプスブルク帝国とオスマン帝国との境目でもあった。
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1 南スラヴ諸地域の近代
ユーゴは2つの帝国の支配を受けたが、どちらも、各民族ごとの自治を認める「柔らかい専制」であり、現代にいたるまで民族意識が保持された。
・オスマンからハプスブルクへ……ボスニア・ヘルツェゴビナ
1804年、ナポレオン戦争のさなか、オスマンの傭兵集団であるイェニチェリに対しセルビア人が蜂起した(第1次セルビア蜂起)。
その後1815年の第2次蜂起を経て、1830年にセルビア公国として自治権を獲得し、領土拡張を進めた。
モンテネグロはセルビアと分裂し、小さな山岳国としてオスマン帝国に抵抗した。1878年ベルリン条約により自治権を獲得した。
マケドニアは複雑な民族構成のために国家としての意識が芽生えず、セルビア、ブルガリア、ギリシアが、領有を主張する「東方問題」の焦点となった。1913年の第2次バルカン戦争により三分割された。
クロアチア……ハンガリー統治下にあったが16世紀にハプスブルク傘下に移った。このとき、東部スラヴォニアやアドリア海沿岸のダルマチア地方が、対オスマン防衛の拠点化された。
この地に国境警備兵として入植したセルビア人は、後代まで居住を続けた。
スロヴェニアは独自の国家を持たず、初めは神聖ローマ帝国の、次はハプスブルク帝国の領土(クライン州、ケルンテン州、シュタイアーマルク州)であり続けた。
12世紀後半、中世ボスニア王国が成立し、ボスニア人としての意識が生まれた。
15世紀にオスマン帝国に支配されたとき、多くのボスニア人がイスラームに改宗した。
1875年、キリスト教農民がムスリム地主に対し蜂起したことがきっかけに、露土戦争が始まった。オスマン帝国は大敗し、1878年、ベルリン条約によりボスニア・ヘルツェゴビナはハプスブルク帝国に移行した。
クロアチアにおいて、19世紀から20世紀初頭にかけて、反ハンガリー・南スラヴ独立を掲げるセルビア人・クロアチア人の協力政党が誕生した。こうした動きは、第1次世界大戦後のユーゴ独立の基盤となった。
2 ユーゴスラヴィアの形成
1913年、第2次バルカン紛争によってセルビア王国は南スラヴの旗手となった。セルビアは「大セルビア」実現のために領土拡張を目指した。
1918年、セルビア、クロアチア、スロヴェニアからなる王国が成立(29年にユーゴ王国と改称)。
ユーゴ王国は民族自決の原則のもと「南スラヴ人」という実在しない主体によってつくられた、擬制の国民国家だった。
1932年、ユーゴからのクロアチア独立を求めるファシスト団体「ウスタシャ」が結成された。以後、クロアチア問題はユーゴの課題となった。
3 パルチザン戦争
第2次世界大戦終結にともなう第2のユーゴ成立後、パルチザンは英雄として解釈されていた。
パルチザン戦争には、対占領軍ゲリラ戦、民族紛争、社会変革の3つの側面がある。
1941年、三国同盟に加入したパヴレ公に対し、新西欧派の軍がクーデタをおこした。6月、ドイツがユーゴに侵攻し、ユーゴはドイツ、イタリア、ハンガリーによって分割された。
ドイツと協力関係にあったクロアチアは、ボスニアを含む領土を手に入れて、ウスタシャ指導者パヴェリッチによる統治が始まった。
セルビアの民族主義団体チェトニクは、当初占領軍に抵抗したが、やがてドイツと協力し他民族との抗争を始めた。
英国とソ連は、チェトニクを支持しており、チェトニクに対し、パルチザンとの協力を差し控えるよう勧めた。ソ連とパルチザンとの関係は冷めており、それが戦後のユーゴ・ソ連対立の原因となった。
43年にはチトー率いるパルチザンが広範な支持を集め勢力を拡大するにいたり、英国もパルチザン支持を表明した。
・AVNOJ(ユーゴ人民解放反ファシスト会議)
[つづく]