うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『To End a War』Richard Holbrooke その1 ――ナショナリズムで、生きていく

 著者リチャード・ホルブルック民主党系の外交官で、ボスニア和平交渉等を主導した。

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 アメリカの介入経緯や紛争に対する見方、ボスニア和平交渉の細部、紛争当事者たちの人間性、関係を知ることができる。

 

 ボスニア紛争は、ヨーロッパの役割や、アメリカの外交方針に大きく影響を与えた出来事でもあった。ヨーロッパ(英仏独など)は、紛争解決にリーダーシップを発揮することができず、アメリカ=NATOの支援を必要とした。

 合衆国は、ベトナムの失敗や、直近のソマリア米兵殺害事件を受けて介入に消極的だったが、最終的には紛争終結を主導することになった。

 

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 著者ホルブルック、フレイジャー、ウェズリー・クラーク中将、ジョー・クルツェルらは、ミロシェビッチとの交渉を続けていた。

 著者は国務長官ウォレン・クリストファーの下で働く国務次官補であり、ボスニア戦争の和平交渉を担当した。

 

ミロシェビッチは英語とジョークがうまく、いかに欧米の政治家を丸め込み、経済制裁を解除するかしか考えていなかった。

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ボスニアセルビア政治家たちは人種主義に凝り固まっており、米国は交渉相手とみなしていなかった。

ミロシェビッチスルプスカ共和国軍のムラディッチとの間には直接的な指揮関係があった。

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 険しい山道を通ってサラエボに向かう途中、チームの乗ったフランス軍装甲車が崖から転落し、著者の同僚3名が死亡した。

 しかし、和平交渉を停滞させることはせず、いったん帰国後、イゼトベゴビッチとの会談を目指した。

 

 

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 1章 戦時のボスニア

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 ユーゴスラヴィア紛争の要因を5つ挙げる。

 

1 バルカン半島史の誤読

2 冷戦の終結

3 ユーゴスラヴィア指導者たちの行動

4 アメリカの不適切な対応

5 ヨーロッパ単独で処理できるとの誤算

 

 民族紛争と民族浄化が必然である、という偏見を生んだのは、レベッカ・ウェストとロバート・カプランの著作によるところが大きい。

 実際は、各民族は数世紀の間共存してきたのであり、紛争は劣悪な政治家たちの振る舞いによるところが大きい。

 ミロシェビッチやトゥジマンら指導者たちはテレビを通じて民族間の憎悪を煽りたてた。

 社会主義崩壊後の社会不安やインフレ・失業に対し、ユーゴスラヴィアの政治家は極端なナショナリズムに活路を見出した。

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 アメリカはクウェート戦争後の疲弊でユーゴ情勢不介入を表明した。その直後、スロヴェニアが独立を宣言し、続いてクロアチア独立紛争が勃発した。

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 ヨーロッパは独力で事態を解決できると考えていたがそれは失敗した。ヨーロッパ共同体と米国の消極性が内戦を本格化させた。

 ECによるスロベニア独立合意、ドイツのクロアチア独立承認が、ボスニア分離の動きを助長した可能性はある。

 しかし、最大の要因は超大国の不介入であると著者は考える。

 

 ミロシェビッチセルビア人部隊と化したJNA(ユーゴスラビア人民解放軍)や民兵、ギャングたちを利用し戦争を有利に進めた。

 一方、ボスニアのイゼトベゴビッチ大統領も、クロアチア独立承認前に、「平和よりもボスニアの主権を選ぶ」と宣言しセルビア人を刺激していた。

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 クロアチア紛争に関しては、著者のかつての上司であるサイラス・ヴァンスと、イギリスのキャリントンにより、国連平和維持軍が派遣されいったん停止した。しかしクライナ地区では、平和維持軍の監視下でセルビア人によるクロアチア人排除が行われた。

 

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 ユーゴスラヴィア紛争は以上の考察から、冷戦後最大の安全保障における失敗である。

 

 

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 1992年のボスニア独立宣言直後から戦闘が始まり、国際社会はセルビア人による非人道行為に直面した。

 著者はこの年、知り合いの依頼によりセルビア・クライナ共和国のバニャ・ルカ収容所視察に向かった。強制収容所の映像は国際世論に衝撃を与えていた。

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 かれはセルビア人が支配する地区で、ボスニア人が家を追い出される光景を目撃した。また国境の難民キャンプには、男性たちを失った女性や子供、老人が詰め込まれていた。

 著者が雑誌上で提案した選択肢は、大国の介入、セルビア人勢力に対する直接空爆、武器禁輸の解除等である。武器禁輸は、セルビアがJNAや軍需産業を牛耳っているため、ボスニア人から自衛の手段を奪う行為でしかなかった。

 

 

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 著者は国務長官ウォレン・クリストファーの推薦により大統領補佐官となり、再びボスニア問題に取り組むことになった。

 

 

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 1994年から1995年にかけて、著者は紛争当事者たちを訪問した。

 冬の間、サラエボの戦争指導者たちは停戦に同意していたが、雪解けとともに再び戦闘が始まると予想された。

 

 トゥジマン(クロアチア)はセルビア側に占領されていたクライナ地区を取り戻すために攻撃を開始し、英米情報機関の予測に反して、セルビア人の排除に成功した。

 国連平和維持軍は無力だった。NATOはクライナのセルビア軍航空基地やボスニアセルビア軍を空爆したが、あまり効果がなく、逆にセルビア人は平和維持軍を捕虜にし、人間の盾にした。

 

 英仏・カナダではボスニア撤退論が起こった。シラクは、アメリカの介入がなければフランスは撤退するだろうと示唆した。

 米軍が秘密裡に作成したNATOの撤退作戦計画は、2万人の米兵即時投入を伴う、ほぼ不可能な内容(夜間空挺活動など)だった。

 NATOの計画をアメリカが拒否すれば、NATOアメリカとヨーロッパの共同安全保障枠組)という安全保障制度そのものが崩壊することになる。

 よって、アメリカは撤退するにせよボスニアセルビア人を無力化するにせよ、関与を深めるしかない状態だった。

 

 国連の消極方針を受けて、セルビア人勢力はより大胆になった。1995年7月、ムラディッチ将軍はスレブレニツァにおいて捕虜や民間人の虐殺を行った。

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 直後に始まったクロアチアの攻勢が和平交渉の流れを変えた。ミロシェビッチクロアチアセルビア人勢力を見捨てたため、クライナ・セルビア勢力は後退した。こうして、セルビア人勢力が和平に応じる契機が生まれた。

 

 著者は、外交交渉の成否は、外交官のテーブルではなく、常に地上の情勢(戦力)によって決まると述べている。

 クリントン大統領はこの機を見て著者らをボスニアに派遣した。

 

 

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 2章 シャトル

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 著者らのチームは交渉のためサラエボに向かった。

 ミロシェビッチは欧米による経済制裁に苦しんでいたが、「セルビアハマス」といわれるボスニアセルビア人勢力は、いまだに強硬姿勢を保持していた。

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 カラジッチとムラディッチは、既にスレブレニツァの虐殺国際司法裁判所から訴追されていた。

 

 8月28日の、サラエボ市場への砲撃は、アメリカの態度を決定した。約40名の市民が殺害されたため、これに対しNATOが動かなければ、米国は威信を失墜させることになるだろう。

 

 

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 砲撃の直後、著者らはパリでイゼトベゴビッチ大統領と会談を行った。ムスリム側はしきりにNATOによる爆撃を訴えたが、一方、戦後ボスニアの明確なヴィジョンは持っていなかった。大統領は連邦制国家を容認していたが、シライジッチ首相は、強力な首相を擁する多民族中央政府を欲していた。イゼトベゴビッチはティトー時代の投獄と4年間の内戦を経て、不屈の闘士となっていた。しかし、中国共産党の建設者たちと同じく、平和の下で何をすべきかをまったく考えていなかったように思われる。

 

 NATOのクラーク将軍が爆撃のための地図を広げたとき、イゼトベゴビッチ大統領は、「地図」すなわち領土問題のほうが、国家統治問題(Constitutional Issue)より解決困難だとコメントした。

 

 8月30日、Deliberate Force作戦が始まった。サラエボ近郊のセルビア人戦力(要塞や地対空システム)を狙った爆撃は国際世論から評価された。「ヨーロッパは自らリーダーシップをとることができず、アメリカが再びヨーロッパのリーダーとなった」、とある記者は評した。

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 ベオグラードミロシェビッチに会うと、かれはセルビア総主教のサインした文書を取り出した。

 パレ(スルプスカ共和国の首都)のセルビア人たち……カラジッチ、ムラディッチ、クライシュニクらは、和平交渉の全権をミロシェビッチに委任することを決めたという。

 ミロシェビッチは、パレのセルビア人たちを「糞」呼ばわりし、同じ部屋にいたくもないと吐き捨てた。

 

 カラジッチとムラディッチは国際司法裁判所から訴追されており、いかなる国際会談にも参加できなかった。著者はミロシェビッチに対し、あなたが責任をもって2人を和平交渉から排除すべきだと迫った。

 ミロシェビッチボスニア空爆に対し無感動だった。かれはセルビア経済制裁解除にしか関心がないようだった。

 

 ベオグラードのホテルでは、クラーク将軍が持ち込んだ盗聴防止卓上テントおよびマイクロフォンで会話した。その姿がこっけいなので皆笑い出し、ホテル中の客が目を覚ました。

 

 セルビア人の歴史観はかれらの問題である……わたしたちの問題は戦争を終わらせることである。

 [つづく]