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NATOによる空爆は効果をあげたが、その再開をめぐって、NATOと合衆国交渉チームは対立した。NATO司令官スミス提督と、交渉チームのクラーク中将は意見対立したが、著者は、この対立が後のクラークのキャリアにマイナスにならないよう慮った。将官にとって、上位者(提督)に逆らうのは非常にリスクが高いからである。
この間、チームの一部はマケドニアとギリシアを訪問した。両国は、国名・国旗をめぐって対立しており、交渉チームは両国間の交渉を取り持とうとしていた。
マケドニアは国旗を「ヴェルギナの太陽」(アレクサンダー大王家の象徴)から新しいデザインに変更することを了承し、ギリシアは経済制裁を解除した。
トルコ・アンカラでのイゼトベゴビッチとの会談の結果、大統領は、ミロシェビッチとの妥協案――ボスニアの存続、領土の継続、「スルプスカ共和国」名の使用――に同意した。
ボスニア・セルビア軍は、見せかけの譲歩を一方的に提示しNATO空爆を回避しようとしていたが、著者らは空爆再開がなければNATOは説得力を失うだろうと強く主張した。
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セルビア人勢力爆撃に対し、ロシアは、同じスラブ人に対する同情という観点から懸念を表明した。このため交渉チームはモスクワにメンバーを派遣し、ロシア首脳を説得した。
ジュネーヴにおいて、当事者たち……セルビア、ボスニア、クロアチアの各外相は、米国が提示した和平原則に同意した。
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交渉チームは空爆の継続を望んだが、一方NATO首脳部は、自分たちの作戦が外交目的に引きずられることを嫌がっていた。NATOが主要標的を破壊し空爆をやめる前に、交渉を前に進める必要があった。
ベオグラードにおける交渉について。
カラジッチ……背は高いが、眼は優しく、威圧的な雰囲気はない。
ムラディッチ……ハリウッドにもいないだろう、完璧な戦争悪党であり、カリスマ的な殺人者に見えた。
この二人をミロシェビッチがなだめつつ、当事者たちはサラエボ包囲解除の草稿に合意した。
著者は、ボスニア・セルビア指導者たちが、話の通じる相手ではなく、軍事力しか信じない存在であると確信するにいたった。
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モスタル……かつて他民族社会の象徴とされた町は、ムスリムとクロアチアが対立する戦場となっていた。
ミロシェビッチの指示により、サラエボのユーゴ人民軍、セルビア民兵は撤退を開始した。
クロアチアとクロアチア・ムスリム連合の攻勢が、セルビアの全面介入を引き起こすのではという懸念があった。しかし著者は、ミロシェビッチがクライナとボスニア・セルビア人を切り捨てたことを確信していた。
一方、トゥジマンは、西ボスニアのクロアチア人居住地域を併合し、セルビアとともにボスニアを二分割するという「ヒトラー・スターリン」式シナリオを夢見ており、交渉チームはこれを強く否定した。
トゥジマンとイゼトベゴビッチの会談は険悪なムードで始まった。バルカン人たちは、いったん激怒すると、外部(米国)からの監督・介入を強く要求した。
バニャ・ルカへの進軍について……セルビア人居住域のこの町をクロアチア・ムスリム連合軍が占拠した場合、虐殺や難民が発生し、和平交渉を阻害する可能性が高かった。
また、クロアチア領内において、セルビアとボスニアをつなぐ東スラヴォニアが奪われた場合にも、セルビア側が強硬な態度に出る可能性が高かった。
クロアチア・ムスリム連合軍の攻勢で、短期間のうちに領土比率は7:3から5:5に変化していたが、著者はこの時点でうまく情勢をストップできるよう首脳らと調整した。
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ニューヨークでの交渉と、国務省、議会との調整について。
領土分割交渉を円滑に進めるために、交渉チームが一定地点までの連合軍進出を許容している、という事実を知られるのは都合が悪かった。
交渉は、ボスニア側が合意案に文句を言いだし収拾がつかなくなったため、失敗した。
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停戦交渉は、攻勢を強めていたボスニア側が渋ったことで難航したが、サラエボへの電気・ガス供給再開などの条件が通り、イゼトベゴビッチ大統領は署名した。
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停戦の開始日まで数日間の猶予があったので、著者らは、トゥジマン大統領に対し、ボスニア・セルビア勢力の領地(サンスキ・モストとプリイェドル)を奪回するよう促した。
戦争で手に入れられなかったものを和平交渉で手に入れるのは困難だからである。
・交渉地の選定:ワシントンにある程度近く、またマスコミを遮断できる場としてライト=パターソン空軍基地が選ばれた。
・IFOR:国連の停戦実施部隊には、米軍とともにロシア軍も派遣するよう著者らはモスクワと調整した。これはロシアの協力や米ロ友好を示すためだった。
イゼトベゴビッチとトゥジマンのモスクワ訪問は、エリツィンの急病のためキャンセルされた。ボスニアとクロアチアの2人の大統領は非常に仲が悪く、デイトンでの交渉の前途多難を予感させるものだった。
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IFORへの米軍派遣をめぐる調整。
デイトン会議の準備。
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3章 デイトン
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会議のかぎは、ボスニア内部の意見の一致(イゼトベゴビッチとシライジッチ)と、ボスニア・クロアチアの不和解消(特にモスタル)だった。
各勢力の優先項目
・トゥジマン:東スラヴォニア確保
・イゼトベゴビッチ:独立国、連邦形式
基地での和平会談の模様を日ごとに追って説明する。
・イゼトベゴビッチとミロシェビッチはどちらとも、戦争がこれほど深刻化するとは思わなかった、と感想を漏らした。
・ボスニア・クロアチア人連合の維持という点で、トゥジマンの協力を得ることが和平には不可欠だった。
・ミロシェビッチは連れてきたボスニア・セルビア代表らを非常に邪険に扱い、軽蔑していた。
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軍備管理について……旧ユーゴ全体での軍縮を進める一方、均衡を保つため、ボスニア=ヘルツェゴビナ連邦(スルプスカ共和国を含まない政体)の軍備は強化した。
ホルブルックは、領土分割の話題(地図)に取り組ませたが、三国の合意をまとめるのは困難を極めた。
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空軍基地における和平交渉の終結。
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4章 実行
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歴史上多くの和平合意は失敗に終わってきたが、その成否は実行フェイズにかかっていた。
・IFORを構成するNATOは前からボスニアに駐留していた欧州軍であるため、かれらは車体の色を白からオリーブに塗り替え、武器・武装も強化した。
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・サラエボが連合に明け渡されるとき、パレのセルビア人指導者はギャングや悪党を派遣し、退去するセルビア人たちの住宅に火をつけて回った。かれらは住民に対し、放火しなければ後で処罰・死が待っていると脅迫した。この焦土作戦の過程でセルビア人同士のレイプや強盗が発生した。
しかしIFORに警察業務が含まれないため、NATO軍は傍観するしかなかった。
「セルビア人たちは自分たちの家を燃やす権利がある」という見解が発表された。
・カラジッチは秘密警察を使い、ボスニア・セルビア人を脅迫し合意を無効化するよう操作していた。これを問題視した合衆国はセルビア人幹部と会談し、カラジッチを公職から追放させた。
・クロアチア人戦犯容疑者コルディッチも、ザグレブからの圧力により自主的に投降した。
・1999年、ブルチコは特別行政府としてボスニア中央政府が直接統治することになった。
・選挙によって過激派が選ばれることが懸案事項だった。セルビア人の過激政党に属していたスルプスカ共和国大統領Nikola Poplasenは、デイトン合意を軽視していたためNATOによって更迭された。
・ボスニア和平履行が完了する前に、コソヴォで新しい紛争が発生していた。
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略
著者はキッシンジャーの外交モデル――現実主義と理想主義の対立――を否定し、両者は共存できると考える。
よって、合衆国は人道主義に基づく介入を否定すべきではないと考える立場である。