うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Love Thy Neighbor』Peter Maass その2 ――隣人たちが殺し合うボスニアの様子

 

・若者たちはスルプスカ共和国軍に徴兵される。ここはアメリカではないので、かれらに逃げ道はほぼ残されていない。

・バニャ・ルカに滞在しながら、著者は、目の前で虐殺と追放が進みながら国際社会が黙殺しているさまを痛感した。

・当局はモスクを破壊し、ムスリムが住んでいたという痕跡を消そうとした。

 

 

 4

 サラエボについて。

 土日になると近郊やモンテネグロからセルビア人がやってきて、包囲陣地から対空砲を乱射する「週末戦闘員」がたくさんいた。

 著者らジャーナリストたちは、ホリデイ・インを拠点に取材を行っていた。このホテルの客室は、セルビア人勢力からは丸見えだった。

 徴兵された若者は、だれを撃っているかもわからずに狙撃を続けた。

 かつて、サラエボ市民たちはお互いの宗教的祝日に、互いに訪問し交流した。

 

・寒さと飢えで次々と死んでいく老人ホームの老人たち。

・散発的な砲撃が、市民を殺害していた。子供を持つ親は、お互いに一緒に外出しなかった。2人同時に殺害されるおそれがあるからである。

・狙撃手が市民を殺害すると、場合によっては「スナイパー注意」の貼り紙がされることがある。そうでない場合、狙撃の発生後しばらくは人の気配が消えるが、やがて事件を知らない市民がやってきてまた撃ち殺される。こうして狙撃が繰り返される。

ボスニア紛争は、襲撃、レイプ、略奪のはびこる古典的な戦争である。兵士たちは夜になると、無線を使って敵同士会話する。かれらは、かつての知人と世間話をすることもあった。

 

・パレ山に陣取るカラジッチは、頑固でユーモラスな、典型的なセルビア人だった。かれは大柄で髪が伸びていた。かれの弁解――砲撃はムスリムの自作自演である、収容所は人道的である、レイプは発生していない――はすべて嘘だった。

 

・国連の毎日のMRは、ベトナム戦争のときと同じように、嘘で塗り固められていた。前日の砲撃数は「天気予報」と揶揄されていた。かれらは砲撃の数は数えられるが、それを止めることはしなかった。

 国連は中立の体裁を保ったままボスニアに駐留するために、攻撃側であるセルビア人の要求や脅迫を受け入れていた。

 ボスニア人は国連を蛇蝎のごとく嫌っていた。

・国連ウクライナ軍は自分たちの燃料を闇市に売ることで悪名高かった。任務に支障をきたし、エジプト軍やフランス軍からガソリンを借りた。

・国連フランス軍指揮官フィリップ・モリヨンPhilippe Morillonは、警護中に副首相の暗殺を起こした責任を追及され憔悴していた。その後、スレブレニツァに駐留し、包囲勢力から譲歩を引き出した。しかし、国連の方針――何もせず、虐殺を見守る――に背いたため更迭された。

国連事務総長ブトロス・ブトロス・ガリの、サラエボでの異様な記者会見……「ここより悲惨な場所は10以上あります。ここはまだましです」

 

 

 5

 著者はミロシェヴィッチを、自分が権力に留まる以外に理想や主義を持たない、無人格の人物であると評する。その他の独裁者と異なり、かれには狂った目標がなかった。かれは社会主義がとん挫するのを察知し、民族主義に乗り換えた。

 コソヴォにおけるミロシェヴィッチの宣言……"No One will be allowed to beat the Serbs again!"

 

 ユーゴスラヴィアを実地に観察した人びとは皆、内戦は、一部の指導者の意図的な扇動によって引き起こされたと考えている。

 国連や西側諸国等、介入したくない側にとっては、「かれら民族は数世紀にわたり対立しており、お互いに殺しあう宿命だった」と片づけるのが都合がよい。

 ミロシェヴィッチは人当たりがよく、嘘しかしゃべらなかった。かれへのインタビューは徒労だったと書いている。

 最大のプロパガンダ兵器はテレビである。かれは周波数の独占とテレビ局のコントロールにより、世論を操作した。

 セルビア国内ではある程度の自由を許容し、真に有害な分子だけを暴力により排除した。

 

 

 6

 ヴィテスVitezにおいて、ボスニア人とクロアチア人勢力「ウスタシャ」との戦闘に巻き込まれた体験について。

 ボスニア人は、セルビア人、クロアチア人双方から挟み撃ちされた。かれらには逃げ道がなく、また両勢力は捕虜や市民を拷問し殺害した。

 このような状況では、どれだけ不利になろうとも降伏はしないだろう。

 国際社会から見捨てられたボスニア人たちは、イランやムスリムの支援を受け、皮肉にも、徐々に「ムスリム化」していった。

 かれらは、自分たちを裏切った合衆国の唱える自由よりも、武器を援助してくれたイランの、偽りの自由を選ぶだろう。

 

・スレブレニツァで9か月間、麻酔なしで切断手術を続けた医師の話。かれは住民から感謝され、帰るときに、住民から貴重な衣類を贈られた。このため、サラエボに到着したときの医師は、一見、戦争成金のような見てくれだった。

・1993年4月、ホロコースト博物館の開館に際して、クリントンは「民族虐殺を二度と起こさない」とスピーチした。その言葉は著者にはむなしくひびいた。

 

 

 7

 「宥和者The Appeasers」について。

 著者は、ボスニアへの介入を渋った国際社会を厳しく批判している。超大国による見殺し方針は、そのまま国連の方針に反映された。

 

 ――外交とは、もっとも汚らわしいことを、もっともきれいにやることである。(Diplomacy is to do and say the nastiest thing in the nicest way.)

 

ジュネーヴでは、米国連大使ツィマーマンZimmermannが、「野蛮と戦わなければならない」と熱弁した。そのとき、米外交官レッドマンRedmanは、リムジンでカラジッチとミロシェヴィッチを出迎え会談していたにも関わらず。

・宥和者は、まず、事実を歪曲し、自分を調停者peacemakerに見せなければならない。次に、犠牲者を説得しなければならない。でなければ、犠牲者を安楽死させることはできず、殺すしかなくなるからである。

 

・ヴァンス=オーウェンプランのオーウェン卿は、政治家時代は、傲慢なくそ野郎(The shit)として英国では有名だった。

・ヴァンス=オーウェン案は、セルビアによる民族浄化を肯定する「狂気の」案だった。

ボスニアの反撃を非難し、和平を促す国連の方針は、第2次世界大戦に例えれば、英仏に対し、これ以上の犠牲を避けるために降伏せよと促すのと同等だった。


・イゼトベゴビッチの失敗……平和的解決を追求したため、ボスニア武装化に後れを取った。また、明白な侵略に対しては、西側が支援してくれると期待していた。

・「サラエボの包囲は、包囲というほどではない」と発言した国連報道官は、サラエボから追放された。

・攻撃と非人道行為の報道・証拠が次々と現れ、クリントンは逃げ切れなくなった。かれは、自分の統制下にある国連とNATOを使い、武力介入に踏み切った。

 

 ――ミロシェヴィッチを受け入れることで戦争を止めようとしていたかれらは、「民族浄化を二度と繰り返さない」という約束を破った。かれらは宥和した。またかれらは重要な歴史の教訓を見落としていた。平和は、包囲軍を手厚くもてなすことでは保証されない。平和は正義によって保証される。

 

 

 8

 人間は、どれだけ文明化されていようと、たやすく獣に戻ってしまう。

 著者は、ボスニア人、そして自分たちが2つの決定的な過ちを犯したと主張する。

 

 1 文明化されたヨーロッパでは、マイノリティであることはもはや重大ではないと思い込んでいた。

 2 いま、社会が安定しているということは、明日もそうである保証にはならない。

 

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Love Thy Neighbor: A Story of War

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