・1991年3月
セルビアの野党ヴク・ドラシュコヴィッチVuk Draskovicは、ミロシェヴィッチの独裁に反対し、ベオグラードにおいて大規模なデモを扇動した。
ミロシェヴィッチとヨヴィッチは、警察にデモを阻止させた。このとき17歳の学生が殺害された。これに反対する学生デモが発生すると、ミロシェヴィッチらはJNAを動員した。
JNAはユーゴスラヴィアの統一と安定を目的としており、あくまで憲法に基づいて行動することを理念としていた。ミロシェヴィッチは、JNAをセルビアの拡大に利用しようと考えた。
ミロシェヴィッチの敵……コソヴォのアルバニア人、クロアチア人、スロヴェニア人、セルビア人の反対派。
国家の非常事態state of emergencyを宣言するかどうかが、連邦幹部会の争点だった。
クライナ地方のセルビア反乱軍は独立を宣言した(Serb Autonomous Province of Krajina)。
1991年の春までに、ミラン・バビッチ、ミラン・マルティッチMilan Marticらを指導者として、クライナ・セルビア反乱が拡大した。
セルビア人勢力は、西スラヴォニアSlavonia(クロアチア東部)のパクラッチPakrac、イストリア地方IstriaのプリトヴィツェPlitviceを立て続けに制圧し、クロアチア警察軍がこれを攻撃した。
ミロシェヴィッチの指示により、JNAはセルビア人勢力を保護するために出動した。プリトヴィツェの戦いが、本格的な最初の交戦となった。
一連の闘いは各地のセルビア人勢力による蜂起を招いた。サラエボのSDS(Serbian Democratic Party)指導者ラドヴァン・カラジッチRadovan Karadzicはセルビアによるクライナ自治区併合を主張した。また、スラヴォニア地方のセルビア民主党員もセルビアへの併合を唱えた。
過激派の台頭……5月上旬、ヴコヴァルVkovar近郊のボロヴォ・セロBorovo Seloでクロアチア人警察とセルビア人民兵の交戦があり、クロアチア人12人が死亡した。かれらは目をえぐられる等の拷問を受けて死んでいた。
HDZ(クロアチア民主同盟)の過激派ゴイコ・シュシャクGojko SuSakや、セルビアの超国家主義者ヴォイスラフ・シェシェリVojislav Seseli等が活動を始め、自民族の穏健派をもまた殺害した。
ミロシェヴィッチもトゥジマンも、既にユーゴスラヴィアに見切りをつけていた。そして両者とも、ボスニアを自国へ分割編入しようと考えていた。
・聾者の対話
連邦幹部会は機能不全に陥った。クーチャンとトゥジマンは、お互いに分離独立に向けて協力することに合意したはずだった。しかし、いざスロヴェニアが独立するときに、トゥジマンは相互防衛を拒否し、怒りを買った。
スロヴェニアに比べ、クロアチアは独立の準備がまったくできていなかった。
合衆国のベイカー国務長官James Bakerは、どっちつかずの態度を示すだけだった……独立は認めないが民族自決は尊重する、しかし武力の使用は懸念する。
3 勃発
・スロヴェニアのまやかし戦争Phoney War
1991年6月25日、スロヴェニアとクロアチアは独立を宣言した。JNAは当初、スロヴェニアの国境地帯の安全を確保する名目で2000人程度が出動した。指揮官はスロヴェニア人のコンラート・コルシェクKonrad Kolsek将軍だった。
スロヴェニアとJNAは国境付近で対立し、その後、スロヴェニア軍がJNAのヘリコプターを撃墜し、乗員は死亡した。
EU首脳は、ミロシェヴィッチとクーチャンとの間で仲介を務めたが、EUには事態を一時停止させる力しかなかった。
7月にはJNAが44人の戦死者を出して撤退し、スロヴェニアの独立が確定した。これはスロヴェニアと、死に体のユーゴとの戦争であり、後に続く2つの戦争とは異質だった。
――(スロヴェニアの勝利は)和平仲介者が決して思い至らなかった教訓をヨーロッパに教えた。戦争は、時にきわめて合理的なだけでなく、特に勝利が確実なときには、目的を達成する唯一の手段でもある。
仲介者たちは戦争の愚かさを訴えれば説得できるだろうと考えていた。
・クロアチアのJNA
1991年夏から、宣戦布告なしにクロアチア・セルビア戦争が始まった。
ミロシェヴィッチは、ユーゴスラヴィアの領域を、セルビア系住民の居住地を含むと解釈した。こうしてJNAは、大セルビア主義のための軍隊に変質した。
トゥジマンは最後まで武力行使に反対したため、国防相シュペゲリは辞任した。
クライナ・セルビアでは、マルティッチの民兵と、JNA中佐ラトコ・ムラディッチRatko Mladicが共同で民族浄化を開始した。セルビア勢力とJNAは、キリェヴォKijevoやヴコヴァル等で砲撃を開始し、クロアチア人の追い出しと占領を始めた。
クロアチアも反撃を開始し、ゴスピッチGospicではJNAの駐屯地を制圧し指揮官を殺害した。各地でJNAに対する包囲と重火器の鹵獲が行われた。
アントン・トゥスAnton Tusはクロアチア軍参謀総長として軍を建て直した。
9月からヴコヴァルを中心に戦闘が続いたが、JNAは、装備の貧弱なクロアチア防衛隊を破れなかった。新指揮官パニッチPanicが現場を確認したところ、セルビア・ユーゴ側の指揮系統が混乱しており、兵隊たちはだれが自分の上官かもわからない状態だった。
また、JNAの徴募兵の士気が低いため、民兵と志願者だけを残して後送した。
11月にクロアチア側が撤退し、JNAがヴコヴァルを占領した。その際に多くのクロアチア人男性が拉致・殺害された。JNAは、「解放された町」において海外メディアを案内した。
路上には虐殺されたクロアチア人と思しき市民の屍体が並んでいたが、セルビア側はこれはセルビア人だと主張した。
――(並べられた屍体を)どうやってセルビア人であると知ったのかと聞かれて、かれ(JNA将校)は肩をすくめた。
10月、モンテネグロ方面のJNAが観光都市ドゥブロヴニクを攻撃した。城壁やボートへの砲撃は国際的な非難を浴びた。
1992年9月、JNAはクロアチア人地域から撤退した。そのときにはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が始まっており、セルビアとクロアチアはお互いにボスニアを分割する点で意気投合していた。
11月、国連平和維持軍の駐留が決まり、トゥジマン、ミロシェヴィッチ双方が同意した。トゥジマンは紛争を国際化することに成功し、ミロシェヴィッチはクロアチアの三分の一を占領した状態を維持することができたからである。
・キャリントン卿の計画
EC(欧州共同体)から派遣されたキャリントン卿は、ユーゴ和平案を提案した。それは、各独立共和国によるゆるやかな連合であり、少数民族の権利を認めるというものだった。
しかし、セルビアはキャリントン案に同意しなかった。ミロシェヴィッチは、セルビア国外のセルビア人区域を併合し、またユーゴスラヴィアの継承国家となろうと考えていた。
また、かれはクロアチア内のセルビア人自治を認めることが、セルビア内コソヴォのアルバニア人自治を認めることになるとも考え、これを許容しなかった。
コソヴォ・セルビア人のナショナリズムによって権力基盤を固めたミロシェヴィッチに、アルバニア人の自治を認めるような案は許容できなかった。
国連のヴァンスVanceはPKOによるクロアチア領内の治安維持を提案し、セルビアはこれに賛成した。
モンテネグロのブラトヴィッチ首相Bulatovicは、戦争を終わらせるためにキャリントン案に賛成したが、ミロシェヴィッチとモンテネグロ国民は激怒し、間もなく首相の座を追われた。
和平を目指す動きの中、ドイツのコール首相Helmut Kohlとゲンシャー外相Hans-Dietrich Genscherが、他の欧州諸国の合意なしにスロヴェニアとクロアチアの独立を承認したために、キャリントン提案は崩壊した。
独立を求める国がそのまま承認されたことで、独立した者勝ちの状況が生まれた。
ボスニアは、独立を選択し内戦になるか、コソヴォかヴォイヴォディナのようにセルビアに隷属するかのどちらかを選ぶしかなくなった。
クロアチアをめぐっては、セルビア人支配地域を国連保護地域UNPA(United Nations Protected Area)にし、JNAを一時撤退させる案に、クライナ・セルビア自治区のバビッチが反対したため、ミロシェヴィッチによって失脚させられた。代わって、ヴコヴァルのSDS幹部ゴラン・ハジッチGoran Hadzicが大統領となった。
4 ボスニア
・洪水delugeの前
ボスニアでは1991年以降、各民族間の緊張が高まっていた。共産主義政党が敗北し、イゼトベゴビッチのSDA、カラジッチのSDS、クリュイッチKljuicらのHDZボスニア支部が各民族の票を争った。
セルビア人はユーゴ残留、つまりセルビアとの統合を望んだ。ボスニア・クロアチア人は伝統的に過激主義的であり、大クロアチアの達成あるいは自治共和国の成立を望んだ。ムスリムは、ボスニアにおける中上流階級を占めており、セルビア支配の下での二級市民となることを拒否した。
1991年10月、イゼトベゴビッチが独立を決定すると、カラジッチはムスリムを殺すと議場で脅迫した。
ミロシェヴィッチはボスニアのJNAをボスニア出身者で固め、ボスニア・セルビア人の軍隊に変質させた。
・地獄の門
(民族を問わず)多くのサラエボ市民は、カラジッチをモンテネグロ出身の田舎者セルビア人であると見下していた。
1992年4月5日、比較的民族融和の文化が浸透していたサラエボで、内戦に反対する市民がデモ行進を行った。セルビア民兵がこのデモに発砲し死者が出た。ボスニアの内戦が開始された。
6日、ボスニア独立がEUに国家承認されると同時に、カラジッチはスルプスカ共和国Republika Srpskaの独立を宣言した。
サラエボにおいて、セルビア民兵は丘の上の警察学校・武器庫を占拠し、高層ビルには狙撃兵を配置した。
セルビア国境のズヴォルニクZvornikにはJNA、セルビア内務省の特殊部隊、シェシェリのさそり部隊、アルカン・タイガー(アルカンの民兵)が侵攻し、制圧とムスリム人の追放・殺害を行った。
カラジッチとクライシュニクkrajisnikはサラエボの分割計画を立てた。
・イゼトベゴビッチの誘拐
1992年5月2日、サラエボ空港でイゼトベゴビッチがJNAに拉致された。この凶行は失敗し、大統領は解放された。しかし、かれはJNAが中立でないことを痛感した。
JNA参謀総長アジッチAdzicは、非セルビア系の将校をボスニアから退去させ、ベオグラードに忠実でないボスニア師団のクカニャチKukanjacを更迭し、ムラジッチを配置した。
JNAの一部は、セルビア人勢力に装備を引き渡して撤退した。
国連の司令官マッケンジーMacKenzie将軍はサラエボが凄惨な戦場と化していることに気が付いた。
[つづく]
- 作者: Laura Silber,Allan Little
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