うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』米原万里 ――子供時代に過ごした東欧の思い出

 ◆チェコのソヴィエト学校に通っていた著者が、東欧の様子や、社会主義諸国の子弟たちの人物について思い出をまとめた本。

 

 概要

 父親の仕事の関係で著者はプラハに住んでいた。

 著者の通っていたソヴィエト学校の同級生についての回想が語られる。ソヴィエト学校はチェコにつくられた外国人向けの学校で、友人の一人リッツァは、亡命ギリシア人(共産党幹部)の娘だった。プラハの人びとはソヴィエト学校をお金持ちの子弟が通う場所とみなしていた。

 

 著者は子供のころの友人に会うためにプラハを訪問し、消息を尋ねて回る。

 

 ソヴィエト時代のチェコギリシア中欧諸国の様子を知ることができる。また、東側からみた世界観が興味深い。

 

 東欧諸国

ルーマニア共産党幹部の娘は共産主義の理想を信じていたが、自宅は豪邸であり、小間使いは屋根裏に住んでいた。両親も労働をしておらず、ブルジョワの服装をしていた。

チェコには文化があったが、ドイツでは文化は高価・贅沢である。町並みは清潔だが無機質で、ドイツでは金がすべてである。

ギリシア……祖国に戻ったリッツァは、ギリシアの男尊女卑に嫌気がさしてドイツに移住した。

 

レーニンは非常に裕福な家の出身であり、生涯肉体労働や賃金労働に従事したことがなく、小作人から徴収した利益で生活していた。

 

 異国、異文化、異邦人に接したとき、人は自己を自己たらしめ、他者と隔てるすべてのものを確認しようと躍起になる。自分に連なる祖先、文化を育んだ自然条件、その他諸々のものに突然親近感を抱く。これは食欲や性欲に並ぶような、一種の自己保全本能、自己肯定本能のようなものではないだろうか。

 

 むしろ、自国と自民族を誇りに思わないようなものは、人間としては最低の屑と認識されていたような気がする。

 

 弱小国や、混乱中の国から来た子供は、国を背負っているという悲壮感のためか、強烈な愛国心を持っていた。

 

ルーマニア人アーニャの親はチャウシェスク政権の幹部で、体制崩壊時にチャウシェスクを処刑した後も特権階級として居座っていた。父親はもともとユダヤ人で、非合法活動で逮捕され、拷問の結果片足を失ったが、いまでは人民から搾取して建てた豪邸に住んでいた。同時にこの父親は、政権に見切りをつけ子供たちを海外に脱出させようとしていた。

 

 アーニャの兄の言葉。

 

 だいたい富の偏在がどれほど人々を不幸にするかってことをさんざん見てきたからね。皮肉にも、社会主義を名乗っていたこの国で。

 

ルーマニアには、学問や芸術など一部の業界を除いて、ユダヤ人に対する差別が存在し、かれらは出世や社会生活など様々な面で冷遇されていた。

 

  ***

 ユーゴスラビア

 ユーゴスラビア出身の同級生は、祖国がソ連共産党と対立していることを認識していた。この時期、日本共産党中国共産党に肩入れし、ソ連共産党と紙上での非難合戦を繰り広げていた。

 著者の帰国後、このユーゴスラビア人同級生は、スターリン主義者の校長から嫌がらせ(母国の政策を発表させ、それを批判する)をうけ、ソヴィエト学校を退校した。

 

 ユーゴスラビア紛争の末期、著者は直接ベオグラードに行き、かつての同級生を探した。

 

 中欧・東欧諸国(ユーゴ、ポーランドチェコハンガリールーマニア)では、東洋人に対する人種差別がより露骨である。当地の人びとは、西欧に対する後進の象徴である「東欧」と呼ばれるのをひどく嫌う。

 セルビアは、スロベニアクロアチアと比べて、西洋に対するコンプレックスが少ないと感じた。旧ソ連諸国と異なり、セルビアの街並みは温かみがあり、また商店や団地なども洗練されていた。

 

 著者の同級生はボスニアムスリムの両親のもとに生まれ、父はユーゴ時代における最後のボスニア大統領だった。

 内戦が始まると、セルビア人の友人が口を利かなくなってしまった。

 

 セルビアにはボスニア人も住んでおり難民もいるが、表立った差別やいじめは浮けていないという。

 内戦時に隣国ボスニアの惨状を見た人びとは、余計民族対立には神経質になっていたという。