2
フレグの西方征服……イラン、バグダードのアッバース朝、イスマーイール派(シーア派暗殺教団)
イスマーイール派は10世紀にエジプトでファーティマ朝を起こした。そこから分派した東方イスマーイール派は、イランのアルボルズ山脈を中心に山城を構え、敵対宗派やキリスト教勢力、モンゴルに対し暗殺者を派遣した。
シリア、パレスティナ、エジプトに歩を進めようとしたところで、皇帝モンケが死亡したため、引き返しイランに定着した。
フレグの遠征は主に調略・工作・外交的駆け引きを用いて行われた。
キト・ブカ軍は本体から離れてエジプトのマムルーク朝と会戦するが惨敗し、キト・ブカは消えた。
東方のクビライ政権、西方のフレグ・ウルス(旧称イル・ハン国)が成立した。
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クビライの覇権が固まると、かれは首都をカラ・コルムから上都に移した。クビライとタガチャルらクーデター派はアリク・ブケらに勝利した。
アリク・ブケと武将アスタイは王族であるため助命されたが、下の諸将は全員が処刑された。
チャガタイ、ジョチ、フレグの3つのウルスにおいて当主が急死し、モンゴル帝国は再び動乱となった。
・1260年を境に、モンゴルは多極化した。
・モンゴルとマムルーク朝の台頭により、十字軍時代が終わり、教皇の権力も低下した。
・ヨーロッパでは世俗君主が徐々に力を持ち、ルネサンスへとつながった。
・中東はペルシア文化圏とアラビア文化圏に分割された。
・1260年代末のユーラシア
大元ウルス(モンゴルから中国)
チャガタイ・ウルス……カザフスタン、タジキスタン、カブール近辺まで
ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)……クリミア半島からカザフ草原にかけてのステップ
フレグ・ウルス(イル・ハン国)……イラン、イラク、アナトリア東部まで
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3部 陸と海の巨大帝国
1
クビライのモンゴル帝国は、建前上は大カアン・クビライのもとに諸国が従属していた。実際は、モンゴル高原の千戸群という王族、また各ウルスの分権によって成立していた。
クビライは中年になってから皇帝として統治に乗り出し、35年にわたって、老人になるまで統治を続けた。
統治の柱は、モンゴル軍の軍事力、中華の経済力、ムスリム商人を用いた物流・通商システムである。
自分の嫡子たちに直轄王国をつくらせた。1266年、中国の思想を基に大都を建設した(後の北京)。
2
チャガタイ・ウルスに対し、クビライはバラクを送り込んだが、バラクは反旗を翻しチャガタイの独立を求めた。
その他、オゴデイ一門における内紛について。
3
クビライは水軍と調略を駆使し、南宋を征服した。渡河の際には水軍と陸上戦力を組み合わせた。南宋侵攻を担当したのはバヤンという将軍だった。南宋首都臨安は無血開城した。
4
南宋を征服したことによってモンゴルは海上の覇権も手に入れた。
内紛状態にあった高麗はモンゴル建国以来闘争を続けていたが、クビライの代に屈服した。
日本に対しては、最初に国書を送ったが鎌倉幕府は無視した。その後、第1回の遠征で日本側が善戦した。
第2回の遠征は、大規模な江南軍を引き連れていたが、実質は兵士ではなく移民に近かった。かれらは旧南宋軍からあぶれた弱兵たちであり、どこか海外に定着させる必要があったからである。
実質的な戦力はモンゴルの運営する艦隊勢力にあったが、台風によって壊滅した。以後、日本には神国思想が発生した。
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4部 ゆるやかな大統合
1
クビライの死去間近に、再び帝国内部で内紛が生じた。
カイシャン皇帝の代にパクス・モンゴリカが成り立つが、かれはクーデタにより急死した。その後は、皇太后ダギが専制を敷き、帝国の資産を浪費した。漢人を優遇したため文献では称賛されるが、実際には帝国の解体が始まっていた。
2
クビライの国家は経済優先 重商主義
言語と経済の主力:ウイグル人仏教徒とムスリム・イラン商人 ウイグル語とペルシア語
農作物ではなく、専売と商業利潤によって税収をまかなった。
銀と塩は貨幣として用いられた。
制文法はなく、皇帝の発する指令が文書となり、法源となった。役所には大量の行政文書が保管された。
モンゴルは支配下の民族の宗教や風習は無関心で、ほとんど干渉しなかった。
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5部 解体とその後
1
無力・暗愚の大カアンが続き、内乱が立て続けに起こった。
天暦の内乱:上都と大都との両京内戦、チャガタイ軍によるコシラの排除。
大カアンの下での統合は失われ、軍閥が割拠した。
2
元末には疫病(ペストなど)がユーラシア全土で蔓延した。白蓮教や紅巾の乱、朱元璋ら軍閥が中国各地で出現し、モンゴル帝国の税収は激減した。
江南を中心に放棄した朱元璋を討伐する力はモンゴルには残っていなかった。1368年、朱元璋は南京で皇帝を名乗り、国号を大明、年号を洪武とした。
14世紀後半にかけてモンゴル系王朝は徐々に解体していき、帝国としては消滅した。
3
モンゴルの後には4つの帝国――明、ティムール朝からのムガル帝国、オスマン帝国、ロシアが残された。
明の洪武帝は元から後退し、経済は物々交換の原始的なものとなり、貿易も「海禁」により制限された。文人官僚は数万人単位の粛清を被った。
著者は、これが中国が西欧列強に置いていかれる一因になったのではないかと指摘する。
元、明、清といった中華王朝は、いわゆる国民国家とは異なり、多数の民族から成立していた。
清の中核は満人・漢人・蒙人であったため、モンゴルに残っていたモンゴル民族たちは清朝時代、爵位や貴族の称号を与えられていた。清朝は、元の正統な継承国家という地位を得ていた。
モンゴルもまた、多様な民族によって構成されていた。
旧モンゴル帝国の人びとは、そのまま当地にとどまった。なぜならかれらは元々ウズベク、カザフ、タジク、トルコ系といった出自の人びとであり、モンゴル人という統一がなくなりそのまま現地に定着したからである。