うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日本の軍隊―兵士たちの近代史』吉田裕 ――なぜ日本軍は国民から離れていったのか

 ◆所感

 「天皇の軍隊」である日本軍と、社会・民衆との関わりに焦点を当てた本。

 明治維新後に創設された軍は、当初、近代化の歯車として機能した。軍隊が近代社会の要素を確立させ、また近代文化を地方に普及させた。

 軍隊は、社会のなかの要素として組み込まれた。また、立身出世のために有意義な組織ともなり、民衆的基盤を得た。

 

 しかし、第1次大戦を経験しなかったため、日本軍は新しい戦争形態、つまり総力戦体制に適応することができなかった。

 日本軍は旧態依然のシステムを保持するどころか、退行し極端な精神主義や硬直主義に陥ったため、やがて国民からの支持を失った。

 

 近代化の先駆けであった組織が、やがて時代に取り残され、国民を巻き込んで自滅していくさまがよくわかる。

 

 

  ***

 1

 明治維新以後の近代社会形成に、軍隊は一定の貢献をなした。

・時間の間隔……時間厳守、時計

・歩き方

・共通語としての軍隊語

・靴・洋服・短髪(ザンギリ頭)

・洋食、パン食

 

 1873年 徴兵令

 1888年 鎮台制から師団制へ(海外遠征軍の整備)

 1889年 徴兵令改正(免役条項のほぼ全廃)

 

 この時代には、近代的組織である軍隊と、農村社会との断絶は大きかった。

 このため、政府は兵事行政を通じて地域社会の組織化に取り組んだ(予備役・後備役の組織化、青年団在郷軍人会の設立など)。

 

 ――言葉をかえていえば、近代的な社会秩序や生活様式は、本来、軍事的な性格を色濃く帯びたものだったのである。

 

 

 2

 徴兵検査は通過儀礼の行事となり、検査を終えた若者は歓迎行事等に出席した。

 一方、徴兵を逃れようとする者は様々な作戦を考えた(塩水一気飲み、耳に卵黄を入れる、眼を自傷する、人差し指の自傷等)。

 

 軍隊は、疑似デモクラシーの役割も果たしていた。軍隊組織のなかでは、外での階級や身分は物を言わなかった。軍隊は、ある程度までは、能力主義も採用していた。

 一方で、軍隊は各個人の個性や人格を一律に否定する側面を持つ。兵隊たちは牛馬のようにこき使われるうちに、ただ委縮し順応する人間となる。

 

 組織全体としては、厳然たる学歴社会だった。将校になれるのは陸軍士官学校海軍兵学校卒の学歴が必要だった。

 高学歴者には、一年志願兵という抜け道枠が存在した。

 後方勤務につきやすい高学歴者より、低学歴者のほうが死にやすかったかどうかは、統計資料が残されておらず検証が困難である。

 

・兵隊にとって、上等兵になることは名誉であり、除隊後の村社会で幹部になれることを意味していた。

下士官は、農家の次男、三男にとって魅力的だった。特に不況時には人気の職業となった。

満州独立守備隊は、日露戦争後、南満州鉄道の警備のために配備を認められた部隊である。守備隊経験者は、除隊後も満州で魅力的な就職口(満鉄やその関連会社、警察官、満州国軍、官吏、日満合弁会社関東軍関係)があるため、残留することが多かった。

下士官が士官になるための制度……少尉候補者制度、特務士官制度は、限定的にしか活用されなかった。このため、大戦末期には将校の不足が顕在化した。

・農村の生活状況は陸軍より劣悪である場合が多く、農民は良い兵士の供給源であり、支持基盤だった。

・特に高等小学校卒業者が、忠良な兵士を輩出した。また、天皇イデオロギーの担い手となった。それより高学歴(中学、大学)や低学歴(尋常小学校卒や小学校未卒業)でも、数字は低下している。

 

 ――……軍隊と民衆との間のそうした密接な関係は、15年戦争の敗戦の時点では、すでに崩壊していたことに注目する必要があるだろう。

 

 ――……私たちは民族自身のために戦ったのではなかったから、祖国の土を踏んでも、祖国の人たちと、まるで他人同士のようにしか接しなかった。前線も銃後も、ともに惨憺たる目にあいながら、互いをいたわりあうことさえしなかったのである。このようなみじめな敗け方をした国は、古来、歴史上にその例をみないだろう。

 

 

 3

 日本においては、軍事官僚機構である軍部が独自の政治勢力となった。

 1907年の軍令制定により、軍事に関する勅令を天皇と陸海軍大臣副署のみで公布できるようになった。

 また同年の「帝国国防方針」は、攻撃主義的軍事戦略を採用した文書であり、政府の閲覧には(たとえ首相でも)制限がかけられていた。

 同時期には陸大出身者を中心とする一元的な人事構成が実現し、専守防衛派等の異論派は脇に追いやられた。

 

 第1次大戦や、大正デモクラシーの影響を受けて、軍を改革しようという動きも見られた。

 

・1925年 宇垣軍縮

・用兵思想の変化(騎兵廃止論など)

・軍隊内務書改正(上官への異議申し立て制度)

 

 しかし、改革は成功せず、結果的に退行することになった。その原因として著者は以下のとおりあげる。

 

・将校団の改革が皆無だった

・将校のエリート意識が強く、下士官の待遇改善が行われなかった

・予備将校の軽視

・かつては士族中心だった将校出身層が、社会の中間層や世襲軍人、幼年学校出身者に変化した。かれらは、政党内閣や官僚に反感を抱きがちだった。

・資本主義の発達により、農村よりも労働者や都市出身者の兵隊の割合が多くなった。

・高学歴者の敵視

 

 ――概して智的教育に偏し、徳育の欠如せる者多し。而してこの傾向は、上級学校に至るに従い甚だしきものあり。

 

 ――軍の側の、このような反インテリ主義は、直ちに高学歴者の側にも反映し、軍隊内の厳格な規律や戦争に対する恐怖心とないまぜになって、ある種の厭戦・厭軍的空気を生み出す。

 

 そもそも、陸海軍が大元帥天皇に直属するという制度も見直されず、敗戦までお互いに予算の取り合いと対立が続いた。

 典範令の改正手続きが煩雑であるため、時代遅れの戦略や思想がいつまでも改善されなかった。

 

 

 4

 1931年の満州事変以降、皇道派荒木貞夫陸軍大臣を筆頭に、軍部による政治介入が本格化した。

 

 ――皮肉なことに、軍部の政治介入は、悲憤慷慨型の国士的軍人を数多く生み出し、軍の近代化にとっては、むしろマイナス要因となったのである。

 

・「皇軍」意識の昂揚

軍人勅諭絶対化(後宮少尉の読み間違い自殺事件)

・兵員数の増大による、戦争の受益者層増大(下士官、農村)

 

 日中戦争において出現した日本軍は、時代遅れの軍隊だった。

 

・輸送手段がないため、現地人を強制使用した。

・食糧不足のため、現地徴発し、家屋を破壊し燃料にした。

・中国戦線に当初派遣された兵は予備役・後備役であり、規律が悪化し問題となった。

 

 ――略奪・放火・強姦・虐殺などの中国戦線における日本軍の蛮行は、さすがの軍幹部をも憂慮させた。それは、そのような蛮行が、中国民衆の反日意識を深化させ、国際世論を敵にまわすという点からしても、戦略的に大きなマイナス要因だったからである。

 

 ――……軍幹部の立場からすれば、兵士の鬱屈とした不満や怒りが対上官犯などの形をとって軍隊内の秩序そのものに向かって爆発するのを恐れざるをえず、その防止のためには戦場における多少の非行はやむをえないと考える傾向が根強かったのである。

 

・中国人への蔑視意識がひどく、軍の名を辱めている、と教育総監部の文書に記載されている。

・休暇制度がなく、神経症患者が続発した。しかし、まともに治療されることはなかった。

・戦死した兵の半数以上は広義の餓死者だったとする研究がある(藤原彰)。

 

 戦争の長期化につれて、地元での兵隊歓送行事は自粛強要され、戦争報道も統制されたため、軍隊と郷土とのつながりは消えていった。

 

日本の軍隊―兵士たちの近代史 (岩波新書)

日本の軍隊―兵士たちの近代史 (岩波新書)