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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Nemesis of Power』Sir John Wheeler-bennett その2(2/4) ――ヒトラーに制圧されたドイツ軍

 2 ゼークトの時代
 共和国軍(Reichswehr)の創設……共和国の存立基盤であり、政治から超然とし、いかなる党派にも属さない軍。

 フォン・ゼークトは将軍の子として生まれ、陸軍の中で異例の速さで昇任し参謀本部要員となった。第1次大戦では主に東部戦線で活躍した。

 自身は君主制支持者だったが、軍の再建を優先し、冒険的な右翼や王党派とは関わらなかった。

 かれはヴェルサイユ条約の制限の中で、軍が中枢機能と精神を保持し、いつでも拡大できるよう計画を進めた。最重要課題は参謀本部と将校団の保持だった。

 軍の能力保持は、条約に秘密裡に違反する形で行った。

 

・兵務局(Truppenamt)と名前を変え、選抜や試験、教育を外の大学等で行う等の偽装を施し、参謀教育に努めた。

・将校については政治的に穏健な人物を残し、過激な思想の持主、ランツクネヒト(Landsknecht)タイプ――歌舞伎者・傭兵タイプ――は排除した。

・25年という将校勤続制限を迂回するため、有望な将校候補を下士官として採用し教育を行った。

・将来の規模拡大に備え、下士官は将校に、兵は下士官になるよう高度な教育を行った。軍人の子や地方の子弟、非ユダヤ人を優先的に採用し、徴兵制では実現できない高練度の将兵を養成できた。

・ゼークトは、将来戦争は機械力、少数精鋭による機動と攻撃が勝敗を決すると考え、編成や研究開発に反映させた。

・伝統の継承のため、将兵と退役軍人を積極的に交流させ、また帝国軍時代の部隊伝統を保持させた。

 

 兵力としてフライコールを持っていたが、規律が悪く政治的だったため、軍とエーベルトは処置に困り、ルール地方ゼネスト(ルール蜂起)鎮圧に振り向けた。

 同時に、員数外である「黒い国防軍」(Black Reichswehr)としてAK(労働軍団)(Albeits Kommandos)を雇用し、軍服を着せて兵舎に済ませた。これはブーフラッカー少佐(Buchrucker)が指揮をとった。

 

 1923年初頭、クーノ(Cuno)首相は賠償金支払いを拒否する受動的抵抗(Passive Resistance)を行い、仏・ベルギー軍のルール占領を招いた。現地での占領軍による逮捕処刑や、ドイツ・マルクのインフレが深刻化したため、後任のシュトレーゼマン(Stresemann)が抵抗終結を宣言した。

 ゼークトも抵抗には否定的であり、いずれ英仏の不和がヴェルサイユ体制を破綻させると予測していた。

 同時に起こったバイエルンでの右派クーデタに対し、シュトレーゼマンは戒厳令を発令、国防相ゲスラー(Gessler)とゼークトが共和国全権を掌握し行政権を行使した。

 

 バイエルンクーデタ……君主政主義者である州総督グスタフ・フォン・カール(Gustav Ritter von Kahr)、第7軍管区司令官オットー・フォン・ロッソウ(Otto Hermann von Lossow)、警察長官ザイッツァー(Seisser)が分離主義的な政権を確立し、ベルリン進軍をたくらんだ。

 しかしゼークトに説得され日和ったため、かれらと協力していたヒトラールーデンドルフは3人を軟禁し、新たにミュンヘン一揆をおこした。

 ゼークトは国軍の手を汚すことなく、ザイッツァーの警察部隊に一揆を鎮圧させた。

 

 ゼークト、外交官のフォン・マルツァン(Von Martzan)はともに東方主義者であり、ロシアすなわちソ連との一時的な協力が国軍と国力を復活させるだろうと考えていた。

 国内においては左派や共産主義者を弾圧したが、ソ連はドイツにとって、再軍備のための不可欠な同盟国だった。

 

 首相ヨーゼフ・ヴィルト(Joseph Wirth)、外相ラーテナウ(Rathenau)の承認を受け、ゼークトは赤軍に使者を派遣し、ラパッロ条約を締結(1922年)、秘密条項に基づき、ソ連邦内における訓練場の使用、ユンカース工場の建設(これは露見しすぐ閉鎖された)、飛行機・戦車学校での教育、毒ガス訓練等を行った。

 かれにとって宿敵はフランスとポーランドであり、特にポーランドは独ソ双方にとって抹殺すべき対象だった。ポーランドはかれの認識ではフランスの家臣に過ぎなかった。

 引用されているゼークトの外交官に対する回答は、こうした認識を示すとともに、後のヒトラーにもつながる膨張主義を示唆している。

 

 ――「戦争反対」の愚かな叫び声が広くこだましている……平和の必要性は広くドイツ国民の中に存在する。しかし、戦争の是々非々となれば、軍が最もよくわかっており、軍が先導する。結局ドイツ国民は存亡をかけて指導者に随うだろう。……指導者の義務はドイツを戦争から遠ざけることではなく――それは愚かでしかも不可能だ――適切な同盟と軍事力によって戦争に参加することである。

 

 1923年シュトレーゼマン(Stresemann)内閣が成立した。シャハト(Hjalmar Schacht)の貨幣政策によりハイパーインフレが終息した。

 シュトレーゼマンは軍の対ソ交流を黙認していたといわれる。かれはロカルノ条約と国連加盟により西側との関係改善に努めたがゼークトはこれを融和として反対した。

 独ソの国交回復(Rapprochement)よりも重要だったのは、国内産業との連携だった。各部署に経済担当参謀を配置し、クルップ(Krupp)やラインメタルといった軍需企業と再生産計画について調整した。ドイツの兵器産業は、スペインやスウェーデンなど各地に偽装工場を建設し、来るべき再軍備に備えた。

 

 ゼークトの失脚:1925年に大統領エーベルトが死ぬと、大統領選の結果ヒンデンブルクが後任となった。

 ヒンデンブルクにとって、ゼークトは自分の指揮下で活躍を横取りした後輩だった。

 力関係の変化に乗じて、フォン・シュライヒャー(Schleicher)――かれは政治的な機会主義者に過ぎなかった――が、ヒンデンブルクの息子オットーとの親交を利用して力を得た。

 ゼークトはヴィルヘルム2世の孫を演習に無断招待したことで処分され失脚した。

 

 

  ***

 2部 軍とヒトラー

 

 1 求婚、ハネムーンと別離

 ミュンヘン一揆の背景:

 元々バイエルンは、プロイセンとベルリンに対し反抗心が強く、カール、ロッソウはバイエルン独立主義者であり、この点でヒトラールーデンドルフプロイセン人で、バイエルン王族ルプレヒト(Rupprecht)からの評判が悪い)とは信条が異なっていた。

 ヒトラーは、ロッソウ率いる国軍が一揆に加わらなければ国家革命は成功しないと認識していた。しかし結果的に反逆者となり鎮圧された。このことで、国軍掌握が革命達成のための必須条件だと確信するに至った。

 ロッソウは不服従を理由にゼークトから更迭され、バイエルン軍の司令官という反乱者の一人にされてしまった。

 

 ビュルガーブロイケラーに乗り込んだヒトラーらNSDAP党員、ルーデンドルフそして突撃隊(SA, Sturmabteilung)――フランツ・フォン・エップ(Franz Ritter von Epp)やエルンスト・レーム(Ernst Rohm)が所属していた――などを糾合したドイツ闘争連盟(Kampfbund)は行進を開始したが、ルーデンドルフの神通力は失せており射撃鎮圧された。

 

 1924年2月の人民裁判を、ヒトラーは自分の思想宣伝に利用した。裁判官や検事たちは、ビュルガーブロイケラーによく集まっていた右翼たちだった。

 [つづく]

 

The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945

The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945