3 ワシントンの日々
大統領補佐官
パウエルは准将に昇任し、カーター政権、レーガン政権の下で大統領補佐官のチームメンバーとして勤務した。
パウエルは当初カーターを支持し投票していたが、カーター政権はイラン革命での人質事件や救出事件の失敗、そしてソ連のアフガン侵攻などで求心力を失った。カーターの友好政策は裏目に出ており、また軍も予算面で軽視されていた。
カーターは、ベトナム戦争で活躍した兵隊に対し名誉勲章を授与する行事に消極的だった。このためパウエルはレーガンに投票した。
レーガン政権では、カスパー・ワインバーガー国防長官の下で働いた。同僚には、後々まで友人として仕事をすることになるアーミテージがいた。アーミテージもまたベトナム戦争に従軍していた。
レーガンは軍事費を大幅増額し、また名誉勲章を自ら読み上げて授与した。レーガン政権期間中、ホワイトハウスの幕僚となった軍人は軍服のまま勤務できるようになった。
レーガンは、軍のプライドや力を復活させたとパウエルは評価する。
第4機械化歩兵師団
上官である師団長フダーチェク(Hudachek)少将は評判があまりよくなかった。
少将は感情のない機械に近く、仕事はできるが、冷淡で、また部下を信頼しなかった。
第4機械化師団は「性能のよい舟だが、幸せな舟ではなかった」。
パウエルともう1人の副長は、フダーチェクを補佐しているというよりは、かれの慈悲で同席を許されているような扱いだった。
フダーチェクは部下に対して冷淡な評定を書くため、だれも逆らおうとしなかった。フダーチェク夫人は、軍人家族に対して自らが師団長のようにふるまっていたため評判が悪かった。
しかしこの問題をフダーチェクは絶対に認めようとしなかった。
直言を続けたパウエルは、フダーチェクから悪い評定を書かれた。そのまま評定を書かれていれば、パウエルは准将で引退することになるところだった。
しかし、知り合いの将軍がパウエルを中将に引き上げた。将官人事は、それ以外の人事とは異なり、無数のコネや評判、話し合いなどが影響する。
パウエルは少将となり、再びワインバーガー国防長官の下で働いた。
大韓航空機撃墜事件
ソ連の大韓航空機撃墜事件に対応した。第一報をそのまま信頼してはいけない、また憶測で物事を判断してはいけないとの教訓を得た。
海兵隊病院が犬を使って実験しようとしており、ワインバーガーは即座にこれをやめさせた。世間には、不可侵の領域がある。ペット好きの多いアメリカで、犬を戦場医療の訓練に使って射殺することは許されなかった。
ワインバーガーは、即座に計画を中止させ、このピンチを自分の活躍の場に変えた。
ベイルート海兵隊テロ
1983年、ベイルートで海兵隊宿舎が爆弾テロにあい、240名超が死亡した。
アメリカは、「プレゼンスを示す」というあいまいな理由で軍を派遣していた。しかし、国防総省の外交用語……「象徴」、「オプション」、「プレゼンスを示す」の裏で実際に命をかけるのは兵隊である。
「プレゼンスを示す」ために、息子さんは死にました、と遺族に説明することはできない。
あいまいな目的や大義で軍を派兵することの危険性をパウエルは強く認識した。
グレナダ侵攻は、成功はしたが、統合作戦としては不満足な結果だった。
イラン・コントラ
レーガンは人質解放のためにCIAを通じてイランに対戦車ミサイルを供与した。
当時米国政府はイランと国交断絶していたため、一連の取引は議会や国民には知らされず秘密裏に行われ、後で露見しスキャンダルとなった(イラン・コントラ事件)。
パウエルは、これは国益に反する行為であり、議会の承認を受けるべきだと考えた。
第5軍団司令官
中将に昇進した後、パウエルはドイツ駐留第5軍団司令官となった。
訓示:
- 戦闘力と人員管理が重要である
- 細かく見るか、任せるかは状況によって変わる
- 問題を上司と共有することは弱さではなく相互信頼の証である
- すべての判断を上に仰がなくてもいいが、行き詰ったら相談すること
- イエスマンにならずに自由に意見する。ただし決まったら忠実に従う
- 失敗しても根に持たず次に活かす
- わからなければ何度も聞け
- 必要なものがあれば申し出る
- 年に1回の点検は意味がない。直前にあわてて整備するのはできていない兆候である
- 軍隊は楽しくやるべきで、耐えるものではない。相当の理由なしに土日に働くな、働かせるな
ところが着任してから5カ月で、国家安全保障会議(NSC)所属のフランク・カールッチに呼ばれ、再びホワイトハウスで勤務することになった。
・NSCから国家安全保障担当補佐官
イラン・コントラ事件のためにNSCは混乱し、レーガン政権は支持を失っていた。議会の承認を受けずイランとニカラグアのコントラ(反政府組織)と武器取引を行っていたポインデクスター、オリバー・ノースらは更迭されていた。
ゴルバチョフがソ連の指導者になると、徐々に米ソ対立は緩和されていった。強硬派だった国防長官ワインバーガーは居場所を失っていき、辞任した。後任にカールッチが選ばれたため、パウエル自身が国家安全保障担当補佐官となった。
この間、息子のマイクがドイツ駐留中に車両事故で重傷を負い、軍を辞めざるを得なくなった。
国家安全保障担当補佐官として、パウエルはレーガン政権の軍縮を主に担当した。
ゴルバチョフは聡明で、本心からソ連の軍拡方針を変えようとしていた。レーガンも、SDI構想で軍事費を増強しつつ、軍拡競争を終わらせようとしていた。
ゴルバチョフは冷戦構造を変えつつあり、ソ連内部で強硬派の党員や軍人を更迭していた。冷戦脳に染まり切ったCIAのクレムリン専門家たちは、正しい予測を立てることができなくなっていた。
パウエルも、冷戦が終わったら軍人として何をすればいいのだろうか、とふと立ち止まって考えた。
レーガンはマスメディアが報じるような単純な人物ではなかった。レーガンはパウエルら部下を完全に信頼しており、部下たちのアドバイスを忠実に実行した。
しかし、彼自身の方針――平和を目指し、冷戦を終わらせる――は貫徹した。
***
4 統合参謀本部議長
パウエルは大将として総軍(FORSCOM)司令官を数カ月だけ務めた後、国防長官ディック・チェイニーの推薦により統合参謀本部議長となった。
チャーチルが陸海空の参謀総長を率いて会議にやってきた際、米軍にはまだ統合部署がなかった。このため統合参謀本部を設置したが、その議長には権限がなかった。1980年代まで、統合参謀本部はまったく決定力のない機関で、陸海空・海兵隊のトップがお互いにいがみあい、膨大な調整や文書決裁に時間をとられ、結論を出すことができない機関だった。
法改正により、統合参謀本部議長に強い権限が与えられたことで、国防長官に直接助言できるようになった。パウエルは、この法改正が行われた後、初めての議長となった。
ゴルバチョフの登場によって冷戦は終わりつつあり、軍はいずれ予算縮小を余儀なくされるだろうとパウエルは考えた。
パナマ侵攻
パナマの軍事独裁者ノリエガがアメリカに対する挑発を続けており、駐屯している海兵隊員を射殺した。チェイニー国防長官とパウエルは、ただちに作戦準備を行った。
しかし、軍事行動をおこすには作戦を明確にする必要があった。クラウゼヴィッツが書いたように、目的が明確でない戦争は失敗するからである。
ブッシュ大統領はノリエガのような専制君主を嫌っており、政府転覆を決心した。作戦「JUST CAUSE」は、麻薬密売人のパナマの専制君主を放逐し、パナマ国民に支持される大統領を据え置き、パナマ運河等のアメリカ権益を守るという正当性があった。
パウエルと南方軍司令官は12月の深夜、パナマに侵攻し、パナマ国防軍を制圧した後、ノリエガを逮捕した。
冷戦の終結
ベルリンの壁が崩壊し、ワルシャワ条約機構が解体されたため、米軍は最良の敵を失った。国防総省は、最大25%の予算削減を覚悟し、「基幹戦力(Base Force)」の策定を急いでいた。
パウエルは、「戦略的概観――1994」において、新しい時代の重要地帯は朝鮮半島とペルシア湾であると規定した。
湾岸戦争
1990年8月、イラクがクウェートを侵攻した。ブッシュ大統領や駐イラク大使は、当初憂慮を表明するにとどまったが、これがフセインを増長させているようだった。
アメリカは、イラクがサウジアラビアとクウェートを制圧した場合の石油権益を懸念し、サウジアラビアに10万人超の部隊を派遣した。
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湾岸戦争の準備は、シュワルツコフの自伝とちょうど対照をなしている。パウエルやシュワルツコフら軍は、万全の準備と大規模軍隊によるイラク軍の撃退を目指していた。
しかし、政府の一部からは、軍の準備が慎重すぎるとして、「マクレランの再来」だという揶揄が飛んできた。これをシュワルツコフに伝えると、かれは電話越しに激怒し怒号を発した。
マクレランは南北戦争時の北軍司令官で、攻撃を躊躇し続けたためリンカーンに更迭された人物である。
シュワルツコフは湾岸諸国の軍・君主と交渉し、かれらを味方につけた。
国連はイラクのクウェート侵攻非難決議を発した。これにはソ連も賛成していた。歴史上はじめて、米ソが意見を一致させた瞬間だった。
チェイニーはシュワルツコフの適性に若干の疑問を持っていた。シュワルツコフは短気でパワハラ体質だった。部下の少佐を、トイレ行列に順番待ちさせたり、部下の大佐に床でアイロンがけさせていた。
しかしパウエルはシュワルツコフを信頼していた。
湾岸戦争を通じた教訓:
- 脅しをするときは口だけではなく実行しなければならない。脅しをかけて実行しなければ信用を失う。
- 現場指揮官の判断は、それが間違っていると証明されない限りは、正しい。
- 戦争をどのように終わらせるかを考えなければならない。真珠湾攻撃が示すように、軍人や指導者は戦争の始め方についてはよく考えるが、終結方法は放っておかれる。
- 航空戦力だけで戦争を終わらせた例は歴史上存在しない。
- 地上戦は戦死者を伴う。また、事態は混乱し、情報はすぐに伝わらない。
- 失敗は後でばれるより正直に公表したほうがいい。
テレビでインタビューを受けた戦闘機パイロットは、米軍パイロットであることを誇りに思うと答えた。
かつての米軍……高校をドロップアウトしたどこかの村の徴募兵という時代は過去になったと感じた。
ブッシュ政権のおわり
ブッシュ大統領は、湾岸戦争後の景気後退により支持を失い、民主党候補のクリントンに敗北した。
1992年にロス暴動が起きた際、パウエルはブッシュ大統領のスピーチを修正した。暴動は、小悪党であるロドニー・キングに対する警察の暴行だけにとどまる問題ではなかった。暴動の根源には、今なお続く黒人への社会的な差別が存在していた。パウエルは、こうした根本原因に対し言及することなしに、人びとの怒りを鎮めることはできないと考えていた。
パウエルは常に黒人の問題を考えていた。かれが立身出世したのは、先人たちの努力があったからである。第二次世界大戦中には、タスキーギ・エアマンという黒人の戦闘機部隊が活躍したが、かれらは復員すると再び奴隷や下層民として扱われた。
黒人への差別はいまもなくなっていないが、かれは学生や聴衆に対し、憎しみにとらわれて自暴自棄になるのではなく、こうした理不尽を乗り越えていくべきだと主張した。
クリントン政権
軍における同性愛者禁止の問題については、同性愛者禁止を継続することを主張した。クリントンは、軍のゲイ解放に積極的だったが、パウエルは、おそらく議会と軍が反対し覆すだろうと予測した。
軍の同性愛者受け入れ問題は、任期満了間近のパウエルを悩ませ、またマスメディアはパウエルを批判した。「自らはトゥルーマンの黒人解放政策によって統合参謀本部議長となったが、かれはいまゲイを軍から排除しようとしている」という。
ボスニアへの介入には否定的だった。なぜなら介入する以上、目的がなければならないからである。地上軍の投入なしに戦争を終結させることはできない。
ソマリアへの米軍派遣にもパウエルは反対していた。すでに現地に駐留している国連軍所属米兵を支援するため、軍は増員を要請した。しかし国防長官レス・アスピンは、政治的に増員は不可能だと却下した。
パウエル退役後まもなく、ソマリアで米兵13名が殺害され、テレビには引き回しにされる米兵の屍体が映し出された。
政党について
あらゆる政治家は、自身の地盤や支持者に縛られている。パウエルが軍の縮小を計画していた時、リベラルで知られていた民主党議員たちが、地元の潜水艦産業や航空機産業を守るために、パウエルに反対した。