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マスードは軍人の子であり、比較的裕福な環境で育った。1960年代、特にカブールではイスラム主義と共産主義の運動がさかんだった。マスードら若い将校たちはイスラム主義運動に加入した。
アフガンは19世紀以前まで、スーフィーが主流だったが、19世紀になるとインドから厳格なスンニ派(ワッハーブの亜種)が輸入され、ドースト・ムハンマドはイスラームを核に植民地戦争を戦った。
1960年代には、エジプトのムスリム同胞団から強い影響を受けた学者らが、アフガン各地で活動を行った。
マスード、ヘクマティヤール(パシュトゥン人)、ラッバーニー、サヤフらはムスリム同胞団の教義を引継ぎ、過激なイスラム主義運動に没頭したが、やがてお互いに反目した。
マスードはアフガン北東のパンジシール渓谷を拠点に、独立勢力としてソ連軍に対し反乱を行った。
ソ連邦からの唯一の補給経路であるパンジシール近郊のサーラン道路(Salang Highway)において、マスード軍はソ連輸送部隊を度々襲撃した。
車列の最前列・最後尾を襲撃し包囲する攻撃、アフガン軍の情報提供者や脱走者を活用する攻撃でソ連軍を悩ませたが、資材や武器の不足から1983年に停戦する。
やがて、ISI(パキスタン情報機関)からの支援を受けたヘクマティヤールが強力な指導者として台頭した。かれは対ソ戦闘力は高いが、苛烈な人物と評価された。
間もなくマスードも反抗を開始し、英仏のエージェントが資金援助を行った。スペツナズ等の新戦力を用いたソ連に対し苦戦したため、マスードはCIAの支援を求めた。
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徐々にゲリラ化、テロリズム化していく戦争について。
1985年、ムジャヒディン支援の主導権はCIAからホワイトハウスの特別グループに移った。
「カウボーイ」、タカ派の議員たちは、CIAが直接アフガンに介入し、ソ連人を殺害することを欲していた。CIA職員の一部はこれを懸念した。
ISIへの武器援助……対空ミサイル、狙撃ライフル、暗視ゴーグル、プラスチック爆弾、電子妨害機器が増大し、CIA関与を否定することは困難になりつつあった。
このことはソ連側にも知れ渡り、公然の秘密となっていた。問題は、ソ連が直接パキスタンやアメリカに報復に出るかどうかだった。
パキスタンはイスラム原理主義的な派閥のみを支援したため、それ以外のムジャヒディンたちが大挙してワシントンDCを訪れ支援を求めた。
パキスタンの支援を受けたゲリラは、自動車爆弾、ブービートラップ、狙撃、毒殺などでカブールのソ連軍、ソ連人を苦しめた。
アフガン秘密警察のナジブッラーが首相に据えられ、国内外で工作、誘拐と拷問、殺害を行った。
アフガン人は自爆テロを嫌ったため、ISIのユスフ将軍はアラブ人聖戦士を利用した――かれらには一族の紐帯がなかった。
1985年以降、ISIを経由して、大量の爆薬がCIAやMI6からムジャヒディンに供給された。
80年代以降、アメリカ人を狙ったテロが続発し、1983年にはベイルートの海兵隊兵舎で爆弾テロが起こり241人が死亡した。
――テロリストは多くの人々が注目し耳を傾けることを望むが、多くの人びとが死ぬわけではない。……テロリズムは劇場だ。
ケイシー長官は対テロ機能の強化を求めた。これを受けてクラリッジはCIA内に「対テロリズムセンター」(Counter Terrorism Center)を設置した。
テロリズムは警察の管轄だろうか、それとも軍事的に解決するべきか? つまり、あらかじめ予防的に殺害できるのかそうでないのかという議論は、911まで続く。
米軍の援助する武器・キャンプ・訓練は、テロリストのインフラストラクチャーと化していた。
当初、対テロセンターはアブー・ニダルグループやヨーロッパの左翼過激派を監視対象にした。しかし、ヒズボラには全く浸透することができなかった。
CTCではムスリム同胞団関係団体や、アラブ・アフガンの動向は察知していたものの、ほとんど重視されていなかった。
ビン・ラディンがペシャワールでジハーディストを組織していると聞いたとき、CIAの冷戦闘士たちの多くは、ビン・ラディンを援助すべきだと感じた。
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1986年9月、CIAはスティンガーミサイルの供与を開始し、アフガン反乱軍が3機のソ連ヘリを撃墜した。
スティンガーは大きな効果をもたらしたが、逆に、テロに流用される恐れもあった。
CIAが資金・兵器の流れを点検した結果、アフガンゲリラとアラブ・アフガン(アラブから来た聖戦士)が衝突していることを知った。
アラブ人戦士は、ムジャヒディンの墓を非難して偶像崇拝だといって墓を壊してまわり、射殺されることもあった。
当時ペシャワールには東西から慈善団体、ボランティア団体が救援にきていたが、ムスリム同胞団の流れを汲む医療団体もそこにいた。
外科医アイマン・アル・ザワヒリは1986年にペシャワールに移住し、聖戦の経験・組織について学び始めた。
イスラム主義学者アブドゥル・アッザームは教え子ビン・ラディンとともに、聖戦士のリクルートを始めた。かれらはアリゾナ州ツーソンに支所を設置した。
ビン・ラディンの国境での支援活動(施設建設)は有名になった。かれはISIの兵站道路建設に対しても支援を行った。
一方、ソ連ではゴルバチョフ新総書記がアフガン撤退を決心していたが、レーガンやCIAは全くこの動きを検知していなかった。
ISIの支援を受けたイスラム主義者や、過激派たちは、ソ連領内でのテロ・軍事活動を始めた。
CIAはこうした動きをコントロールできなくなっていた。
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ロバート・ゲイツや対ソ作戦部は、ソ連のアフガン撤退に対しまだ懐疑的だった。ソ連が撤退すれば、ナジブッラーの共産主義政権はすぐに崩壊するだろう。
CIAとホワイトハウスは、戦後アフガンを統治するのはイスラム主義的な勢力だと予測した。問題は、反共はいいが反米的傾向をどうするかということだった。
1988年8月、ジア大統領、アクタルISI長官らを乗せた航空機が墜落したが、パキスタンに混乱は起きなかった。
ソ連はアフガンから撤退した。
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2 隻眼の男は王だった
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CIAとパキスタンは、ナジブッラーが勢力を確立しないよう工作した。CIAは、ISIに知られないよう、ヘクマティヤールとマスードを支援した。
パキスタンではベナジール・ブットーが首相となった。彼女はハーバード大卒の親西欧的だったが、軍やISIに批判的だった。
ISIとCIA、GIDはジャララバードでの反乱を支援し、ナジブッラー政権転覆を画策した。CIAはムジャヒディンたちに大量のトヨタ車を買い与えたがジャララバード攻撃は失敗した。
CIAの現地責任者McWilliamsは、アメリカの介入・ISI支援が、逆にアフガンを不安定化させ、イスラム主義的・反米政権を誕生させるのではないかと危惧した。
サウジアラビアから支援を受けたアラブ・アフガンたちが国境で力を持つようになった。しかし、ヘクマティヤールとマスードの抗争が激しくなるにつれて、ビン・ラディンはヘクマティヤールに、師のアブドゥル・アッザームはマスード側についた。
1989年、アッザームがモスクで車爆弾により殺害されると、ビン・ラディンは聖戦士リクルートオフィスを乗っ取り、アルカイダの拠点とした。
かれはアフガンを超えて、別の敵を見出そうとしていた。
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ドイツ統一や冷戦崩壊の兆候を受けて、国務省やCIAでは、これ以上ISIとイスラム過激派を支援するのは国益にそぐわないという見方が強くなった。アメリカは穏健な政権への移行を模索した。
世俗派のベナジール・ブットーは、ISI・軍を統制できなかった。
ヘクマティヤールのカブール攻撃は、アメリカ側をさらに警戒させた。同時に、パキスタンの核開発と核拡散(イランとの取引)にアメリカが反発し、協力関係を終わらせることになった。
ISIの育てたゲリラは、1989年からはカシミールでインドに対して闘争を始めた。
サウジアラビア情報庁の、アラブ・アフガンやビン・ラディンへの資金援助は、CIAやISIを凌ぐようになっていた。
イラクのクウェート侵攻に際して、ビン・ラディンは米軍のサウジアラビア駐留に反対した。ビン・ラディンはコネを使ってサウジ王族と会談し、米軍ではなく、自らの率いる軍隊を使わせろと主張したが受け入れられなかった。
さらにサウジ社会を支配していた過激なウラマーたちが王族に対し反抗を表明した。王族は、イスラム主義者たちに譲歩をする一方、ヘクマティヤール、サヤフ、ハッカニーを支援していたビン・ラディンを王国から追放した。
1992年、CIAはソ連と歩調を合わせアフガン支援を終結させた。同時期、カーブルではマスード(共産政権のドスタム・ウズベク軍閥を従えていた)とヘクマティヤールの戦闘が行われていた。
ISIやCIAの一部は、アメリカがアフガンを放棄すれば、アフガンは国際テロリストとアヘン産業の温床になるだろうと指摘した。
1992年以後、2001年までアフガンに米国の大使館・領事館は存在しなくなる。
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クリントン就任後に起きたWTC爆破事件、CIA本部銃撃事件は、イスラム過激派に対する警戒を呼び起こした。
しかし、CIAの対テロセンターは、ならず者国家によるテロ活動のみを監視しており、手掛かりがつかめなかった。
CIAは第二の真珠湾攻撃を防ぐために作られたが、ゲシュタポ化を避けるため、国内での活動は厳しく制限されていた。
FBIは秘密主義が横行し、他省庁や他部署間での情報共有が全くできていなかった。
クリントンは過激派テロリズムを、安全保障ではなく法執行の枠組みで取り締まる方針を示した。
この時点では、ビン・ラディンは複数のテロリストと接点のある人物に過ぎなかった。
13
アメリカと関係の深いエジプトや、アルジェリア、チュニジアでは、ムスリム同胞団系の組織によるテロ活動が拡大していた。
CIAは、イスラム主義を警戒する一方、腐敗した世俗政権に肩入れしすぎるとイランの二の舞になるとして、どうふるまうべきか迷っていた。
14
CIAのポール・ピラーは、ラムジー・ユースフらによるWTC爆破が、国家の指令に基づかない、無所属の宗教的テロ行為であると察知した。
モガディシュへの介入失敗もあり、破たん国家や内戦に介入することは米国の利益にならないとして、適度な距離をとる方針が定まった。
[つづく]