副題は、「CIA、アフガニスタン、そしてビンラディンについての、ソ連侵攻から911までの秘史」。
◆所見
アフガン紛争時代のCIAによる秘密支援がイスラム主義者を育成し、最終的にアルカイダはアメリカを攻撃する。
アメリカは表立ってアフガン情勢に介入することを避け、パキスタンやサウジアラビア情報機関の力を借りたが、この2国はアメリカに忠実ではなかった。
CIAはビン・ラディンの危険性を訴え続けていたが、クリントン、ブッシュ両政権を通じて、必要な予算措置は受けられなかった。
アメリカの視点では、9.11は避けられたかもしれない攻撃だった。
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プロローグ
1996年、パキスタンのCIA職員ゲイリー・シュローンは、アフガニスタンの軍閥マスードとの関係を再構築しようとしていた。
マスードはソ連のアフガン侵攻時、CIAから資金援助を受けていた。冷戦終了後、アメリカはアフガンへの関心を失っていた。
アメリカは国際テロリズムの脅威に直面し、ビン・ラディンの行方を追っていた。ビン・ラディンはスーダンを追放されアフガンに潜伏中であるとの情報があった。
CIA側の提案は、冷戦中にアメリカが供与したスティンガーミサイルの買戻しだった。航空機への脅威となるスティンガーミサイルをすべて買い戻すという秘密の計画がCIAによって進められており、シュローンは、これをきっかけにマスードと再び協力しようと考えていた。
シュローンとマスードとの会見後まもなく、1996年9月、タリバンがカブールを制圧した。米国は当初、タリバンに対し確固たる方針を持っていなかった。
同時多発テロ、911に至るまでの過程については、CIAが主要な役割を追っている。CIAはアフガニスタンの軍閥に資金援助し、またパキスタン、サウジアラビアの情報機関と協力した。
本書のタイトルにある「Ghost」は、ソ連兵がアフガンゲリラを「Duhki」(幽霊)と呼んだことにちなむ。
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1 血の兄弟
1
1979年11月、パキスタン・イスラマバードの米大使館は暴徒たちの襲撃を受けた。
サウジアラビアは石油とともにワッハーブ思想を輸出し、1970年代には厳格なイスラム主義団体や学生団体が影響力を強めていた。パキスタンの政治団体ジャマート(Jamaat)も大学を拠点に活動していた。また、1979年2月のイラン・イスラム革命はスンニ派の指導者や活動家たちを焚きつけた。
1977年のクーデターにより政権を掌握したムハンマド・ジア=ウル=ハク(Zia-ul-Haq)将軍は、ジャマートを前衛部隊としてイスラム国家化を進め、アフガンやカシミールに秘密の軍事介入を行った。
1979年11月、サウジアラビアのグランド・モスク占拠事件について。
米大使館襲撃は数名の死者を出し収束したが、ジア将軍はジャマートとの絆をさらに深めた。サウジアラビア政府も、過激な宗教指導者を配慮し社会のイスラム化を進めた。
2
ソ連は、アフガン軍事侵攻以前から、アフガンにおける共産主義者の浸透工作を進めており、共産主義政権が国家を運営していた。
1979年3月、ヘラート(イラン国境、シーア派が優勢)でイスラム主義者らの叛乱が起こった。共産主義者の首領タラキはソ連の直接介入を要請したがコスイギン首相らは躊躇した。
CIAは、ソ連に対する妨害、同盟国パキスタン支援の観点から、アフガンの反乱勢力支援をカーター大統領に提案した。
パキスタンとCIAは、U2偵察機や米中交渉などで強く結びついており、またイランが陥落した今、パキスタンが新たな中東拠点とみなされるようになっていた。
パキスタンはソ連やインドに対抗するために核開発を進めており、軍事力に劣る分、秘密工作や謀略に頼る必要があった。
カーターは、ブレジンスキーの提案を受け入れ、CIAによる反乱勢力への間接支援(医療品、心理・宣伝工作、現金支給)を決定した。
KGBは、タラキを殺害して政権を掌握したアミンを信用していなかった。アミンはCIAのエージェントであり、アフガンを西側に引き渡しミサイルを導入するのではないか、という懸念があった。
アンドロポフ、ブレジネフは、直接軍事介入によるアミンの殺害と反乱鎮圧を決定した。
事実としては、アミンはCIA協力者ではなく、若い頃コロンビア大学を卒業できなかったことを恨んでおり、かれの政策はあくまで中立主義に基づくものだった。
ロシアのKGB、内務省部隊、ロシア軍(主に中央アジア諸国の徴募兵からなる)が、1979年12月に侵攻を開始した。
このときアメリカ側は、ロシアがCIA工作の強迫観念にとりつかれていることを知らなかった。
3
CIAの世代交代……ケネディ世代は、民主党支持者のエリート大卒だったが、やがてベトナム戦争を経験した地方の若者、共和党支持者へと世代が変わっていった。それはテニスプレイヤー対ボウリング愛好家と言われた。
1981年、運用部(Directorate of Operations)のハワード・ハート(Hart)はムジャヒディン支援を担当していた。
CIAはムジャヒディンと直接接触することはできず、パキスタンの軍統合情報局ISI(Inter-service Intelligence)を通じての軍事援助を行っていた。
ジア=ウル=ハクはマドラサを建設、宗教教育を信仰し、イスラエルのように、宗教を軸に国家を統合しようとしていた。
パシュトゥン人は、アフガニスタンよりパキスタンに多く居住していた。このため、アフガニスタン情勢の操作が、パキスタン政府にとっては重要だった。
ジア=ウル=ハクとISI長官のアフタル(Akhtar)は、対ソヴィエト、対インドをにらみ、CIAの協力を利用し自国の目的を追求した。ISIによる武器の横流しも頻発した。
しかし、表面上CIAの支援は効果を生んでおり、ソヴィエトは介入長期化に苦しんでいた。
4
サウジアラビアはパキスタンの盟友であり、統合情報庁(GID, general Intelligence Department)を通じて、パキスタンに資金援助を行っていた。
王族のタルキ王子(Prince Turki al-Faisal)が、20年間以上GIDの指揮を執っていた。
19世紀、サウード家は原理主義者ワッハーブと結託することでアラビア半島の覇権を得たが、後にエジプトによってNejd砂漠に追いやられた。
第1次大戦後、アブドゥル・アズィーズ(Abdul Aziz)は過激な宗教戦士を使い半島を制圧した。しかし過激な信徒が不安分子となったため、自ら宗教警察を設立し、厳格なイスラームを国是として統治を開始した。
以後、近代化と原理主義者の反発がサウジアラビアの根本問題となった。
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アフガンではやがて、各国の諜報機関……CIA、ISI、GIDが住み分けし、各自の気に入った勢力を支援するようになっていた。
サウジアラビア富豪の子の1人であったオサマ・ビン・ラディンは、GIDの準構成員として働いていたことがわかっている。
かつての教師によればビン・ラディンは穏やかで礼儀正しい青年だったという。
5
テキサス民主党議員チャーリー・ウィルソン(Charlie Wilson)――非常に個性的な反共主義者――は、アフガンにおける秘密工作の強化を提唱した。
CIA長官ウィリアム・ケイシー(William Casey)はレーガン大統領に対し強い影響力を持っていた。カトリック信徒かつ実業家であったケイシーは、秘密裡に教会の資金をポーランドや中央アメリカに流し、反共活動を推進した。
パキスタン、サウジアラビアと同じく、ケイシーも冷戦を無神論共産主義との闘争ととらえていた。
かれは1943年、海軍士官時代、ルーズベルトの創設したOSS(Office of Strategic Service(戦略諜報局))(CIAの前身)に就職した。
創設者ドノヴァン少将(Donovan)の下で働き、欧州戦線においてスパイ活動を指揮した。
ケイシーの補佐官だったロバート・ゲイツ(Robert Gates)は、ケイシーの個性――いつもつぶやいているので、レーガンでさえ何を言っているのか理解できない――についてコメントしている。
ポチョムキンの村:
ケイシー長官が、アフガン国境のムジャヒディン訓練キャンプを観たいと申し出たとき、ISIのアフタルは安全を考慮して――国境にはソ連特殊部隊がおり、CIA長官が拉致されるおそれがあった――偽のキャンプをつくり、ケイシーに見せた。ケイシー長官は感動で涙したという。
ウィルソンやケイシーの働きかけにより、1984年にはCIAのアフガン予算は3倍に達した。CIAは軍事支援とソ連領内中央アジア諸国での工作員浸透活動を推進した。
一方、ISIの育てたゲリラはアフガンだけでなくソ連領内でもゲリラ活動を行っており、米国は表立ってソ連と対立しないよう配慮しなければならなかった。
アフガン北部では、パキスタンとほとんど接点のないゲリラがソ連軍を脅かしていた。その代表格が、マスードだった。
[つづく]
参考
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