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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Great Game』Peter Hopkirk その1

 グレートゲームThe Great Gameとは、中央アジアを南下するロシア帝国と、インドを拠点とする大英帝国との紛争を示す言葉である。

 なお、この言葉の生みの親とされるイギリス東インド会社のコノリー(Conolly)大佐は、1842年、ブハラ・ハン国(現在のウズベキスタン・ブハラ)でハンに捕らえられ斬首刑になった。

 本書は、中央アジアの覇権をめぐるイギリス、ロシア、中央アジア諸王朝の動き、また多くの探検家や冒険家、軍人たちの活動をたどる。

 

 著者のホップカーク(2014年死去)はイギリス出身のジャーナリストで、中央アジアだけでなくアルジェリアキューバなど様々な地域を取材した。本書の他にも多数の中央アジアに係る著作がある。

 

 ◆所見

 植民地戦争の一舞台であるコーカサス中央アジアでの、帝国と現地国家・部族との抗争を時系列でたどる。著者は「序盤、中盤、終盤」に分けて英露の対立を記述する。

 イギリス軍・ロシア軍双方において、準大尉(Subaltern, 下級将校)に高度の裁量が与えられていたのが特徴的である。

 かれらは、砂漠や山脈、氷に覆われた無人の土地を探検し、地理情報を集めると同時に、専制君主たちをだまし、現地人を殺害した。同時に自分たちも、盗賊や、専制君主、反乱の危険にさらされた。

 グレート・ゲームにおける軍人たちは、現代の官僚化した軍人とはまったく異質の業務を行っていた。

 イギリス軍の編成……東インド会社軍や、英領インド軍は、大部分が外国人傭兵……セポイ(傭兵)、シク教徒、パンジャブ人、パシュトゥン人、グルカ兵等からなり、イギリス人は将校ら一部に過ぎない。

 植民地戦争は、帝国の指揮の下、大半は現地人対現地人によって戦われていたことを示す。

 日露戦争は、勢力拡大を目指すロシアに対し、現地国家日本が抵抗した稀有な例である。しかし、日本もまた大陸・朝鮮半島権益保持のために戦ったのであり、帝国主義入れ子構造となっている。

 ※ 旅順攻略戦はBattle of Port Arthur、奉天会戦はBattle of Mukden、日本海海戦はBattle of Tsushimaとして有名である。

 

  ***

 1 序盤

 英仏露の抗争の起源はナポレオン時代にある。ナポレオンがインド侵攻を企画しているとのうわさが広がり、英露は警戒した。その後、ナポレオンが姿を消し、英露がそれぞれ大国として中央アジア権益をめぐり対立を強めたことが、グレート・ゲームの契機となった。

 

 ロシアは、モンゴルと黄金のオルド(Golden Horde, ジョチ・ウルスキプチャク・ハン国)に侵略され、タタールの軛といわれる長期間の服従を強いられた。

 イヴァン大帝(Ivan the great)によって、ロシアは遊牧民から土地を奪回した。続いて、イヴァン雷帝(Ivan the terrible)は東方・南方への拡大を進めた。

 

 ナポレオン時代:

 ロシア、フランス、イギリスは、お互いにペルシアを同盟に引き込もうとした。

 グレート・ゲームの前哨戦:

 英領インド軍クリスティ(Christie)とポッティンジャー(Pottinger)の冒険により、イギリスは中央アジアの地理情報を集めた。

 ロシアはペルシアを侵攻したが、ペルシア軍の屍体の中から英国の軍事顧問クリスティを発見した。これは外交問題にはならなかったが、イギリスではクリスティの死を受けて、ロシア脅威論が勃興した。

 

 インドへの道:

 英領インド軍キニア(Kinneir)大尉による、インド防衛についての分析。

 ナポレオン没落ののち、イギリスにとって、ロシアが最大の脅威となった。

 海路は閉ざされているため、ロシア軍の進路は、コーカサスから東方に向けての侵攻、あるいはオレンブルク(Orenburg、沿ヴォルガ連邦管区カザフスタン国境)からの南下が考えられた。

 アフガニスタン中央アジアの要衝となった。なぜならインドへのすべての道は、アフガニスタンを経由するからである。

 カイバル峠(Khyber Pass)はインドへの入り口、つまり侵入者の道となるだろう。

 

 ロシアの先駆者:

 ムラヴィエフ(Muraviev)は、イェルモロフ(Yermolov)将軍の命を受け、トビリシ(Tiflis, ティフリス)からヒヴァ(Khiva)・ハン国へ派遣された。ロシアは、交易と技術協力を餌に、やがては中央アジアの緩衝国家を併合しようとしていた。

 ムラヴィエフはヒヴァの太守とうまく交渉し、返礼の使節トビリシまで連れていった。併せて、かれはヒヴァへの経路や戦力・防御分析を報告し、後のロシア南下政策の基礎となった。

 

 1820年代初め、東インド会社所属のイギリス人ムーアクロフト(Moorcroft)が、ロシア脅威論者としての信念から、北インドのラダック王国(Ladakh)と交易関係を結ぼうと探検を行ったが、うまくいかなかった。ラダックには、すでにロシア人が進出していることが判明した。

 ランジート・シング(Ranjit Singh)率いるパンジャブ(Punjab)のシク王国は当時イギリスと同盟関係にあり、宿敵ラダック国とイギリスが関係を深めることを許さなかった。ムーアクロフトに対して刺客が送り込まれたが、かれは生き延びた。

 

 続いて、ロシアの学者エヴァースマン(Eversmann)が、ブハラ・ハン国(Bokhara)にやってきて、ロシアとの交流を創始させた。一方、ムーアクロフトはオクソス(Oxus)(アムダリヤ)河流域で不審死した。

 

 ロシアとペルシアの戦いは再燃しつつあった。1828年、ロシアの大使がペルシアにおいて群衆に殺害される事件も起きたが、皇帝はトルコと戦争中であり、ペルシアとの戦線を開くことを躊躇した。

 さらに、ロシアはトルコ領内に進軍し、コンスタンティノープルまで迫った。しかし、英仏がロシアの拡大を警戒したため、皇帝は停戦させた。

 

 イギリスにおけるロシア脅威論が高まり、ジョージ・ド・レイシー・エヴァンス大佐(Colonel George de Lacy Evans)はロシアのインド侵略を警戒した。

 1830年、これに影響を受けたウェリントン公爵(Arthur Wellesley, the Duke of Wellington)内閣のエレンバラ卿(Lord Ellenborough)はインド統括委員として情報収集を開始した。

 

 これがグレート・ゲームの始まりである。

[つづく]

 

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Great_Game#/media/File:Map_of_Central_Asia.png

The Great Game: On Secret Service in High Asia

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