◆著者について
著者ベースヴィッチは元米陸軍大佐で、引退後国際関係や歴史学に関する著作を発表している。特にイラク戦争以後、一貫して合衆国の軍事政策に反対している。
息子のベースヴィッチ中尉はイラク戦争に従軍しIEDにより殺害された。
◆メモ
「大中東」The Greater Middle Eastという枠組を核として、アメリカの軍事政策をたどる本。副題に「a Military History」とあり、主題となるのは米軍である。
非常にわかりやすく書かれており、カーター大統領のドクトリン以降、アメリカが誤った認識の下に大中東への軍事的関与を続けてきたことを指摘する。
なぜアメリカが中東を重視するのか、どのように権益を保持しようとしたのか、そしてなぜ失敗しているのか、をベースヴィッチはっきりと示す。
合衆国は当初、石油権益保持の為にペルシア湾安定政策を実行した。しかし介入範囲の拡大にあわせて目的も拡散し、いまは明確なゴールもなしに軍事活動を続けている。
根本的な原因は、アメリカ自身の誤った万能感と、他者……特に中東への無理解にある。
混沌とし、理解に苦しむアメリカの中東・アフリカ政策だが、著者の解釈によれば、そもそも当人たちの頭も混乱しているのである。
ベースヴィッチが下す結論は、米国の利益(主にエネルギー確保)の急所でなくなった以上、中東からは撤退すべきというものである。それが実現までまだ遠い点は本人も巻末で指摘している。
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1部 前書きpreliminaries
1980年4月に失敗したテヘラン人質救出作戦イーグル・クローOperation Eagle Clawについて。この作戦では、救出部隊はイラン首都テヘランに到着さえできず、途中の給油地で事故を起こし、8人の隊員が死亡し失敗した。
1 選択の戦争
アメリカが中東権益を維持する根本的な動機は石油である。石油とは何かといえば、「アメリカ生活様式」の原動力である。
70年代中盤まで、一部のタカ派が中東を軍事的に掌握することで石油供給を安定化させよと主張していたものの、中東政策の優先度は低かった。
パーレビ2世政権Pahlaviのクーデタ支援や、アフガンの反政府勢力支援、イスラエル支援等、秘密介入・間接支援はあったものの、これまで中東には軍のプレゼンスはほぼ無く、外交官とスパイにほぼ一任されていた。またアメリカは平和利用として核開発支援を行っていた。
1979年、イラン・イスラム革命の発生によって湾岸諸国の石油危機問題が浮上した。当時イランには5000人を超える退役軍人と契約業者がおり、ロッキード、ベル・ヘリコプター、レイセオン等の軍事企業が進出する一大権益拠点となっていた。
カーターJimmy Carterは平和の使者として登場したが、したたかさや決断力に欠けていた。このため皮肉にも、大中東戦争の契機をつくることになった。
1979年の演説において、カーターはペルシア湾The Persian Gulfの安定が、石油の安定、そして国家安全保障に不可欠であることを宣言した。
冷戦末期に、アメリカは新しい軍事政策を始動させ、それは現在まで継続しているのである。
このカーター・ドクトリンは、トゥルーマン・ドクトリンTruman Doctrineと共通点がある。
・重要な決定であると同時に、これまでの政策がうまくいかなかったことを示す降伏文書でもある。
・際限のない関与につながる曖昧性
しかし、封じ込め政策Containmentとは異なり、ペルシア湾の明確な保護領化を示唆している。
1979年12月のソ連によるアフガン侵攻は、一部論者から、ソ連のペルシア湾侵攻の一端だと解釈された。
2 加速
カーター・ドクトリン――合衆国によるペルシア湾権益の保持――に基づき軍事政策が実施された。
本章では、ドクトリンに続く軍の中東戦略整備の過程をたどる。
1980年 緊急展開統合軍RDJTFRapid Deployment Joint Task Forceの編成、海兵隊ケリー将軍Kerryによる具体化。
後任者キングストン陸軍中将Kingstonは、RDJTFを中央軍CENTCOMに改変した。
キングストンは中東各国における基地・飛行場の設置、部隊や装備の拡張を行った。
中央軍の担任地域Area of Responsibilityは、リビア、スーダン、エジプトからアフガン、パキスタンにまでいたる広範なものだった。
中東では、いまや軍が常駐し、主導権をとり、外交がその後ろに位置するようになった。
当初の作戦計画OPLAN1002は、ソ連のペルシア湾侵攻を阻止するというものだった。
海兵隊大将クリストCristに続く陸軍大将シュワルツコフは、1988年着任後、作戦計画の見直しに着手した。
1985年、ゴルバチョフの登場に伴うソ連軍のアフガン撤退、イラン・イラク戦争の終結により、ソ連の侵攻に備えるという計画は、現実味のないものになっていた(空想的な計画に基づき大規模予算を獲得するという意義はあった)。
シュワルツコフは、大中東の不安定要因をイラクの暴君フセインと定義し、イラクによるサウジアラビア侵攻を作戦計画の核とした。
冷戦が終結すると、欧州で余った兵力や戦車が大量に中東に転換された。
――……冷戦の終結は、通常重要な出来事として記述されるが、米軍の編成や態様にはほとんど変化を与えなかった……新しい敵に方向変換させただけである。
・現在の軍首脳の指摘……中東に関しては、そもそも軍事的解決を選択したのが間違っていたのではないか。
・政策決定者や軍の作戦立案者たちに欠けていた認識が2つある。それは、歴史と宗教である。
帝国主義時代の統治や国境画定をめぐる混乱に関する配慮がなかった。また、中東は神がまだ大きな力を持っている場所であること、宗派対立があること、近代性modernity(つまり、西洋的世界観)と相いれない面があること、に関する認識が欠けていた。
こうした認識ミスの原因……冷戦時代は、核兵器開発が最重要事項であり、数学者、政治学者、ゲーム理論学者がもてはやされ、歴史学者や神学者は冷遇されていた。
3 神権政治の武器庫
以後、カーター政権末期からレーガン時代を通じた中東への軍事政策を検討する。
アフガニスタンでのサイクロン作戦Operation CyclonはCIAが主導で行った。ソ連をベトナムと同様の泥沼に引き込むために、合衆国はパキスタン経由でムジャヒディンに対する軍事支援を行った。
特に、中盤以降に導入された対空兵器スティンガーは目覚ましい効果を発揮した。
1989年、ソ連軍が撤退したとき、CIAの現地本部は「われわれは勝利した」と電報を送った。
しかし、当時ほとんどのアメリカ人は気が付いていなかったが、この軍事支援は深刻な問題を残した:
・アメリカが支援した勢力のなかで軍閥が台頭し、1992年から内戦が勃発した。
・難民の大量発生、都市への流入に伴う農業の崩壊、アヘン栽培の隆盛
・腐敗した社会情勢のなかから、抑圧的なタリバン政権が誕生した。
アフガニスタンはテロの温床となった。当時CIA工作員だったロバート・ゲーツRobert Gates(後の国防長官)は、「対ソ戦後、アフガンは醜いものになると予測していたが、ここまで有害になるとは思っていなかった」とコメントしている。
ムジャヒディン支援の成功は、合衆国に対し、誤った2つの教訓をもたらした。
・幸運は勇者に味方するFortune Favors The Bold。大胆な作戦は推奨される。
・スティンガーが示すように、ハイテク兵器は万能であり、敵を圧倒できる。
[つづく]
America's War for the Greater Middle East: A Military History
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