うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Ghost Wars』Steve Coll その3 ――ビンラディンはわしが育てた

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 イスラム主義者が政権を掌握したスーダンは、テロ支援国家となっていた。

 ハルツームにおいて、邸宅に住むビンラディンは有力なテロ組織者・テロリストの「フォード財団」として有名になりつつあった。

 ユースフの尋問から、合衆国内の民間航空がテロリストの脅威にさらされていることをCIAは報告した。

 

 

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 1747年以降、カンダハルを拠点に王朝を創始したアフマド・シャー・ドゥッラーニーについて。ドゥッラーニー部族連合は現在もパシュトゥン人の有力部族の1つである。

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 タリバンイスラム主義とパシュトゥン民族運動の混合である。

 タリバンは1994年ごろ、カンダハルを中心にしたパシュトゥン部族の運動として始まった。かれらは、自己宣伝を盛んに行い、腐敗した軍閥勢力に対して立ち上がった神学生であることを強調した。

 Haqqannia神学校のDeobandis派の影響について。

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 ハミード・カルザイタリバンを支援していた。

 

 創設者ムハンマド・ムラー・オマルはカンダハル出身のパシュトゥン人で、ソ連侵攻時にはとある軍閥の副司令官として働き、戦闘で右目を失った。

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 ISIは従来のヘクマティヤルに対する支援を打ち切り、1994年からタリバンへの支援を開始した。

 程なくして、サウジアラビアのタルキ王子、情報庁も、パキスタンを通じた資金援助、またタリバン構成員のサウジ神学校での教育を行った。タリバンの強力な宗教警察はサウジ宗教界の薫陶により確立された。

 サウジアラビアは、アフガニスタンに安定したスンニ派イスラム政権が誕生することを期待していた。

 

 アメリカはタリバンについて無関心だった。一方、親欧米派のブットーとの協調を重視するとともに、石油と天然ガスの中継路としてのアフガニスタンの重要性を再確認しつつあった。

 

 

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 アメリカの石油会社(Unocal)、クリントン政権、タルキ王子らはそれぞれ、イランやロシアの勢力圏を迂回する、アフガンの天然ガスパイプライン建設に野望を抱いた。

 Unocal社のミラーはタリバンやISI幹部やブットーに働きかけたが、CIAやアメリカ外交官もこの動きに関与していた。

 

 

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 ビンラディンは、アメリカ大使館の圧力に屈したスーダン政府によって、追放された。かれはアフガニスタンに向かった。

 CIAはビンラディンをテロ資金源として監視していたものの、アフガンへの動きを捕捉することができなかった。

 CIAは中東にパートナーがおらず、またビンラディンを拘束するための法的根拠も欠けていた。

 1996年9月、タリバンはカーブルに入城した。

 

 

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 ビンラディンタリバンに受け入れられ、パキスタンタリバンをアフガンの政府として事実化しようと支援を続けた。

 米国はビンラディンを徹底追跡することができず、またパキスタンタリバン支援も検知することができなかった。

 マスードはCIAとの交渉を続け、反タリバンの姿勢を保持していた。

 

 クリントン二期目は人道的・対イスラム過激派的な意図からインド、パキスタンへの関与が増大したが、アフガンはいまだに主要テーマになっていなかった。

 また、議会がコントロールしやすいジョージ・テネットが長官(前CIA副長官)となった。

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 ジョージ・テネットは議員秘書出身で、外交や軍・情報関係の職に就いたことがなかった。しかし、議会の情報委員会補佐などでCIAの予算・法案作成に深くかかわっていた。

 かれは信頼失墜したCIAと、議会、ホワイトハウスの間で調整を行い、テロやならず者国家、NBC兵器拡散といった新しい脅威を規定し、CIAの必要性を訴えた。

 

 国務省では、オルブライトとヒラリーがタリバンの女性蔑視を非難する一方、ユノーカル社と一部議員らはタリバン幹部を米国に招き将来の経済協力に向けて関係を構築できるか模索していた。

 テネットはビンラディンの危険性についても認識しており、対テロセンターは、ビンラディンの拘束と殺害を実行できないかと検討した。

 

 

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 3 遠い敵

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 97年、CIAは本部襲撃犯Kasiをアフガン国境で拘束した。

 対テロセンターは引き続き、アフガン現地工作員を使ってビンラディンを拘束しようとしたがうまくいかなかった。

 この時期、エジプト人テロリスト、ザワヒリビンラディンと合流し、「遠い敵(the distant enemy)」であるアメリカとユダヤ人を、軍・市民区別せず標的にするというファトワを出した。

 

 リチャード・クラーク(Richard Clarke)はホワイトハウスでの対テロ第一人者という特権的な地位を手に入れ、対テロ政策を推し進めた。かれは強圧的な人格で知られ、また各組織を自在に操ったため、一部からは、オリバー・ノースの再来、「危機を煽るタカ派」と攻撃された。

 クラークとCIAはビンラディンの脅威を認識する点では一致していたが、それ以外の点では、互いに不信感を抱いていた。

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 Tarnak農場でのビンラディン襲撃計画は、民間人の被害をおそれるテネットらによって中止となった。

 

 

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 GID長官タルキ王子はカンダハルに向かい、タリバン指導者オマルと面会した。かれはサウジアラビア国益のために、タリバンサウジアラビアが協力し、ビンラディンを拘束し訴追すべきだと説得を試みた。しかしタリバンから明確な返答はなかった。

 

 

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 98年8月、ナイロビ、タンザニアダルエスサラームで同時自爆テロが発生した。CIAの対テロ部署はまったく検知していなかったが、間もなくビンラディンの組織によるものであることが明らかになった。

 

 クリントンは報復としてアフガンのアルカイダ・ミーティング場と、スーダンの化学プラントを巡航ミサイルで攻撃した。しかしビンラディンは仕留められず、またスーダンは非難声明を発した。

 当時、大統領はルインスキースキャンダルでバッシングされていたため、疑惑そらしのために爆撃をした、とマスメディアから嘲笑された。

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 CIAとクラークらは、パキスタンサウジアラビアの情報機関に対して疑いを抱いており、かれらは信用ならないと考えた。

 ビンラディン暗殺の計画はまだ続いていたが、クリントンホワイトハウス上層部は実行に踏み切らなかった。

 ホワイトハウスでは、ビンラディンを拘束すべきか、殺害すきかをめぐって意見の相違があり、また失敗のリスクも考慮しなければならなかった。

 テネットは、すべてのリソースをビンラディン対策に注ぐと宣言したが、かれが予算をコントロールできる範囲は限られており、最後までビンラディン担当課に十分な補強が行われることはなかった。

 

 

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 パキスタンの首相ナワズ・シャリフは、自らの基盤を固めるため、陸軍参謀総長ムシャラフPervez Musharrafを、ISI長官に親族のズィアウッディンZiauddinを任命した。

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 首相職は常に軍に脅かされるため、シャリフはさらにビンラディン対策を通じてアメリカの支援を得ようとした。

 巡航ミサイルによるビンラディン暗殺計画は引き続き計画されていたが、ホワイトハウスは確実性が足りないとして許可を出さなかった。

 

 

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 テネットはビンラディンの危険性を認識していたが、ホワイトハウスは比較的無関心だった。

 CIAは、アフガン情勢に直接肩入れすることを避け、代わりに、ウズベキスタンに協力を求めた。

 CIAと対テロセンターは、マスードの対ビンラディン戦軍事援助を開始した。

 しかしCIA以外は、タリバンアルカイダの危険を理解していなかった。

 

 

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 9.11実行犯の生い立ちについて。

 モハメド・アタは西洋式の価値観・生活に適応できず、次第に過激なイスラム主義に傾倒した。かれの叔父は世界貿易センター爆破犯であり、アタは叔父の後に続こうと考えた。

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 かれを含む4人の「ハンブルク・グループ」は、飛行機ハイジャックのアイデアを具現化するため、フライトシミュレータで操縦を訓練し、パイロットスクールに通った。

 

パキスタンではクーデターによりナワズ・シャリフが放逐され、陸軍トップのムシャラフが政権を掌握した。かれはカシミール侵攻工作の張本人であり、イスラム過激派の支援者だった。米国はこの転覆にどう対応すればいいか態度を決めかねていた。

 クーデターを経て、ビン・ラディン暗殺を狙っていたパキスタン軍の特殊コマンド部隊は消失した。

 

・CIAは2000年のミレニアムイベントの夜、一睡もできなかった。

・CIAは、マレーシアで捕捉された元アラブ・アフガンを見失った。かれらはビン・ラディンの指揮下にあり、ボスニアでも活動していた。

・CIAとドイツ情報機関はハンブルク・グループの存在に気がつかなかった。

 

 

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 CIAはマスードとの協力を模索したが、ビンラディン捕獲・暗殺は困難だった。

 

 

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 ムシャラフ政権の新ISI長官マフムードを取り込もうと国務省は長官を南北戦争の戦地ゲティスバーグ(長官の軍事大学での論文テーマ)に招待した。

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 しかしISIはタリバン支援とビン・ラディン黙認を続けた。国内にイスラム主義者・保守派を抱えるパキスタンは、ビンラディンを敵に回すことはできなかった。

 911後の報告書では、CIAはじめとする米情報機関は、外国情報機関に依存しすぎ、有効なヒュミントを入手できなかったとされている。

 

 サウジアラビアも、国としてアメリカを支援しビンラディンを討伐することはできなかった。それは自国民やイスラム界を刺激し、王族の立場を危うくするからである。

 サウジアラビアの銀行や慈善団体はアルカイダタリバンへの支援を行っていた。

 一方で、マスードカルザイら反タリバン連合軍に対してもアメリカは懐疑心を持っていた。マスードは、アヘン生産・密売の元締めとして、欧州や国際機関からは心証が悪かった。また、マスード軍の戦力は限定的であり、単独でのビンラディン捕獲作戦は不可能に近かった。

 

 

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 CIAは空軍の支援を受けて、ウズベキスタンから秘密裡にプレデターを飛行させ、ビンラディンの所在情報を入手しようとしていた。

 問題:CIAの予算不足、プレデターにミサイルを搭載する法的根拠、悪天候に対する弱さ

 非対称戦争の特質……一般市民とまぎれこむ小さなターゲット

 

 2000年10月のUSSコール自爆テロを、CIAは予測できなかった。

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 ブッシュ政権には、ブッシュは論外として、中東情勢に経験のある閣僚がいなかった。

 テネットはCIA長官を留任した。政権発足後、再びマフムードISI長官を訪問し、ビンラディン捕縛への支援を要望した。

 ※ マフムードISI長官は、後に911実行犯への援助が明らかになり解任されている。

 

 

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 ブッシュ政権におけるアフガニスタンタリバン問題の扱いは小さく、確固たる政策はなかった。2001年に入るとテロ脅威レポートが警告レベルを上げていたが、テロは海外で起こるという予測が大勢だった。

 情報機関は、既に米国内に潜伏したハイジャック犯たちを捕捉することができなかった。

 

 

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 同時多発テロ直前、マスードはジャーナリストを装った自爆テロ犯により殺害された。