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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『米国先住民の歴史』清水知久 ――個人的な思い出もあるインディアンの歴史

◆所感

アメリカ合衆国におけるインディアンの歴史をたどる本。

数百年の歴史を通じて、徐々自治や自立の権利が認められてきたものの、インディアン(先住民、ネイティブアメリカン)は、平均的にまだ非常に貧しい状態に置かれている。

 

先住民については、カナダでも寄宿学校で大量の遺骨が発見され問題が浮上している。

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アメリカに住んでいたときにアリゾナ州ニューメキシコ州を通ったが、インディアン保留地も数回通過した。国道から眺める分には、よく見る無人の地と変わらなかったが、ところどころに家屋や、雑貨店があった。

一度、保留地内の雑貨店に入ったが、店員や客は皆ネイティブアメリカン系だった。

 

アリゾナ州ナバホ族居留地バーガーキングには、太平洋戦争に従軍したナバホ族の記念館が併設されている(ハンバーガー屋の中にある)。

 

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ナバホ族は独自の言語を使うため暗号員として南方戦線に投入され、日本軍と戦った。

 

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博物館には、戦利品や写真が残されている。

当時、敵対していた帝国海軍の三川軍一中将が、あまりにインディアンに似ているため、かれらは驚いたという。

 

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  ***

1 現代米国のインディアン

・ジョンソン、ニクソンの時代以降、インディアン政策の過ちを認める教書や、改善策が提示されてきた。しかし、インディアンは合衆国のなかで、いまだにもっとも最下層にいる少数民族である。

モルモン教は先住民の教化に熱心であり、子供を引き取りインディアン文化から引き離す同化政策の一端を担ってきた。

 

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連邦政府1924年にインディアンに市民権を与えたが、はるか昔から大陸に住んでいたインディアンにとっては侮辱でしかなかった。

 

 

2 発見と征服

・インディアンは、コロンブスがきたときには北米に500~1000万人程居住していた。かれらは部族ごとに全く異なる言語・文化・生活様式を持っていた。

・西海岸は人口密度が高く、素朴な社会制度だった。東側は農業社会であり、社会構造・政治制度は複雑だった。

 

・ヨーロッパ人と先住民とは、例外はあるものの、全体としては敵対していた。

・イギリスと先住民とは戦争を行い、各地では虐殺や土地の搾取が行われた。

 

 

3 米国の独立と先住民

1776年から始まった独立戦争は、インディアンの住む土地をめぐる白人同士の争いであり、インディアンも巻き込まれることになった。

インディアンは米国、英国双方に分かれて戦ったが、独立達成後には米国から追放と虐殺の対象となった。

独立直後は、インディアンと全面戦争を行う余力がなかったため、条約によって土地を買い取る方式がとられた。しかし18世紀末にかけてインディアン連合と米軍との戦いが激しくなり、なかでもショーニー族のテクムセは抵抗の象徴となった。

 

白人とインディアンとは土地所有についての考え方が根本的に異なるため、共存はできなかった。

 

1812年の戦争(米英戦争)で活躍したアンドリュー・ジャクソンは、南部でクリーク族と戦い虐殺を行っていた。この戦争ではジャクソンとウィリアム・ハリソンという2人の英雄・大統領が誕生している。

1817年、ジャクソンはスペイン領フロリダに侵入し、セミノール族と戦争を行い勝利し、結果的にフロリダの割譲を達成した(第1次セミノール戦争)。

 

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白人たちは、インディアンを追い出し土地を拡大していくという点で一致した。

 

 

4 ジャクソニアン・デモクラシー

1829年からの8年間、ジャクソン大統領の下で、教育などの平等化が進んだ。しかし、これはインディアンの犠牲の上に築かれたものだった。

1835年、ジャクソン大統領は、最高裁の主張を無視し、インディアンを強制移住させた。

チェロキー族の涙の行進は4000名の死者を出し、フロリダでは第2次セミノール戦争が始まった。

 

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第2次セミノール戦争は7年間続き、セミノール族のオセオーラが米軍と戦った。

 

1838年にチェロキー族強制移住を指揮したのがウィンフィールド・スコット将軍である。

 

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その後もさまざまな部族が強制移住の対象となったが、移住の過程で人口を減らすことが政府の目的でもあった。

 

 

5 抵抗・虐殺・囚人化

ジャクソンの時代が終わっても、インディアンの強制移住、虐殺は続いた。

南北戦争中にも、サンドクリークの虐殺が発生した。

 

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野牛(バッファロー)がインディアンの生活の糧となっていることに注目し、白人ハンターたちはバッファローを乱獲した。

 

19世紀末には、アメリカ人によるインディアン絶滅政策が巷にも知られるようになり女性運動家たちが改革運動を開始した。

1887年のドーズ法は、保留地を各インディアン個人に割り当て、白人による略奪を禁止したものだった。しかし、自営農民としての生活を強いる「同化政策」の側面があったため、大半のインディアンは反対した。

 

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文明化の名目により、インディアンの子供を引き取り白人文化の下で育てるという運動が行われた。

 

 

6 20世紀の問題

第1次世界大戦、第2次世界大戦を通じてインディアンは合衆国の戦争に従軍し、アメリカ人のかれらに対する見方は少しずつ変わっていった。

アメリカ政府は、インディアン政策が間違いだったことを認め、かれらを合衆国内に住む、独自の文化を持つ民族として尊重するという方針をとった。

しかし、社会における差別はすぐには消えず、多くの若者がアル中となった。

 

 

7 死よりも赤を選ぶ

1961年、大学で学んだ若いインディアンたちが全米インディアン会議を結成し、インディアンの人権や権利回復を訴えた。

1961年から1963年までのケネディ政権、その後のジョンソン政権では、不十分ではあるもののインディアンの土地や権利の尊重がうたわれ、また調査によってインディアンの窮状が国民に明らかになった。

インディアン青年評議会が調査した結果、1965年から1966年にかけてのベトナム戦争における死者より、18歳以下のインディアンの死者が上回っていることがわかった。

 

「インディアンの青年は、与えられていない正義や民主主義のために戦っている。またベトナムで米軍がやっていることは、昔インディアンに対しやってきたことと同じだ」として、ベトナム戦争にも反対した。

青年たちは、かつて白人が奪ったアルカトラズ島に上陸し、占拠した。

 

 

8 1970年代

1970年代に入っても、AIM(American Indian Movement)が各地で占拠活動を行った。

ある運動家の言葉。

 

ベトナム戦争もそうだが、われわれはいつも肌の白くない人たちを相手に戦争をしていると思ったものだ。どんな人びとに銃弾を浴びせているのかわからなかった。人の姿など見えなかったからだ。

 

1973年、ウンデッド・ニー交易所をAIMの活動家が占拠し、政府との銃撃戦に発展した。この出来事は内外の市民やマスメディアの注目を集め、インディアンの現状が広く知られることになった。

 

 

9 自決への道

1980年代、レーガン政権の下でアメリカ社会が保守化する一方、従来のアメリカ人としてのアイデンティティは失われていった。

その中で、インディアンたちは自分たちの文化や習慣を残すよう活動を続けた。