うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『私の中の日本軍』山本七平

 敗戦というテーマで買った本のひとつである。

 

 はじめに本多との論争からはじまる。百人斬りという虚報が、いま対中国懺悔の資料として用いられるのはなぜか。それでいて当時の大本営発表がよく知られているのはなぜか。

 戦後、大日本帝国に関して多くの神話が生まれた。外国人は戦場で処刑された兵をみると敵前逃亡者と考えるが、日本人は殺された捕虜と考えるという。

 日本軍は敵軍より自軍が、赤軍派も敵より自分たちの仲間が怖かった。総括と軍隊の私的制裁は根底に同じものをもっている。私的制裁は、公的でないものだからつまり厳禁されたものだった。東条氏は天皇のもとで軍民離間を助長する私的制裁をやめるよう声明を出した。リンチは当時も大きな問題になっていた。

 ――鉄の軍紀であるはずの階級そのものが、少なくとも兵隊の社会では完全に無視されていた……兵隊の実際の階級秩序は、初年兵・二年兵・三年兵という一種のカーストで成り立っていた。さぼりがちな万年一等兵は、二年目の上官に「古兵殿」とよばれていた。年功序列は日本土着の秩序である。

 今のロシア軍とおなじく新兵にたいする拷問、リンチは大きな問題となっていた。

 徴兵が忌避されたのは、なによりもリンチのうわさのためだった。にせ結核作戦。私的制裁は内務班によっておこなわれた。「ショネ公(初年兵)」をシメる。もちろん陛下の兵だから殺すなどはありえない。「テメエら、まだ地方気分が抜けトランゾ」、「しゃーないやないすか」。

 先任上等兵が人格者である場合、その内務班ではまったくリンチがないこともあった。荒れ馬を扱う部隊は粗暴だが、リンチとは関係がなかった。実際に凄惨な私的制裁をおこなったのは一見やさしい人間だった。

 「だが私の体験では、社会の底辺にいた人は、軍隊に来てもやはり軍隊の底辺にいた」。

 彼の経験の範囲内では、リンチ上等兵はみな大卒、中卒、師範学校卒などの高学歴であった。長身痩躯の美男子(儀杖兵)は残虐そのものだった。リンチの恐怖とゴマすり競争と睡眠不足で兵隊は思考停止し、「地方気分が抜けた」。

 

 「部隊内では、将校は半神のごとき存在である」。

 ところが彼らはインフレによって貧窮にあえいでいた。日露戦争時には上流階級であった佐官は、このころには乞食同然におちぶれていた。現在、大卒が以前ほど意味をもたなくなったのと似ている。

 恩給生活者はインフレに致命的に弱い。戦後しばらく、学生や労組が特権をもっていたように、軍隊は貧乏でみじめな実態ながら、社会に甘やかされていた。また警察とのいざこざもあった。「こんな安月給で忠誠なんぞつくせるか」、まさに『キャッチ=22』の世界だと感じる。

 仕事にみあう給与や名声を得られなかった貧乏将校たちはついに社会全体を恨むようになり、クーデターをおこした。最下層の象徴は下士官、とくに「軍曹」だった。

 

 ――日本の軍人は、日本軍なるものの実状を、本当に見る勇気がなかった。見れば、だれにでも、その実体が近代戦を遂行する能力のない集団であることは明らかであり……社会は、能力なき集団に報酬を払ってはくれない、昔も今も、いつの時代も。

 赤軍も日本軍も、自己評価と相互評価のなかでだけで生きた。

 

 日本軍はほとんど歩兵からなっていて、行軍は過酷だった。そのため、苦痛から逃げようとして誇大妄想が生まれた。八紘一宇や何人殺したなどという妄想で、彼らは精神を保つ必要があった。日本軍の潜水艦が救助に来ると信じ込んで、ジャングルに迷い込んで自滅する部隊が多々あった。
当時、補給の概念が皆無だった。牟田口や大本営は戦地の兵隊たちから気違いとののしられたが、補給、後方支援への差別が通常のことだった。

 「俺が裁判長なら全員無罪にしてやる……ただし、全員松沢病院にタタキ込んでやる、あいつらはみんな気違いだ」

 ジャングルは人の入る場所ではない。ベトコンもあくまで平地を拠点にしてジャングルを利用した。追い詰められてジャングルに避難した場合は、生き地獄でしかない。降伏とは司令官が敵と交渉して戦闘を中止することで、投降とは敵前逃亡と同じである。敵前逃亡はどこの国、どの時代でも死刑である。

 ――「戦場は殺される場である者」と「戦場は殺される場だと口にする者」との、決定的な差がある……そして、こういう言葉を口にするのが商売の人、いわば常に「王様より王党的」な言葉を口にし、苦労している本人よりもその苦労がわかっているかの如く口にし、人の苦しみを正義・人道という包装紙で包んで売っている人たちには、この差が絶対にわからない。

 「野戦ずれ」した軍隊は、部隊間生存競争の状態になっていた。「軍系民間人」。百人斬り論争がつづく。

 統帥権について……天皇の命令よりも、直属の上官の命令のほうが効力があった。命令は徹底的にタテにつながっていた。砲兵や観測・通信は、一般の日本人にはまったく知られていなかった。軍事教練によって、ほとんどの人間は歩兵のことだけに通じていた。虚報とは情報を恣意的に編集することだが、アメリカ軍は情報の総量を知っていたから、日本軍の意図が手に取るようにわかった。

 収容所での生活――「深刻ぶる」とか「人道家ぶる」というのはおそらく閑人の道楽か何かの代償行為だろうから、そういう人は「死コン」に入れれば、おそらくその日から陽気になってしまうことだろう。

 「軍隊は原則として人称代名詞のない世界だが、特に「ボク・キミ・アナタ・ワタシ」等は絶対に口にできない禁句にひとしかった」。

 なぜ軍隊では言葉遣いが矯正されるのか? いまでも鹿児島弁と津軽弁では外国人の会話になるだろう。明治政府樹立直後の日本軍では、言葉を統一しなければ、それこそ会話が成り立たなかったはずである。

 娯楽も女性もなにもない戦場で、「人びとが文字通り寸秒をおしんでバカ話やホラ話を交換しても、少しも不思議ではないであろう」。

 軍人の功名心はだれにでもあるものだが、これは軍の上層部、軍隊内での評価にむけられているのであって、彼らの蔑視する地方人(一般市民)にではない。

 女がいないのでホモに走る兵士という問題が「皆無に近かったのが日本軍とソヴィエト軍で、同時に、集団強姦事件を最も多く引き起こしたのが両国の軍隊だそうである。何か関連があるかもしれない」。

 内地に帰りたい、の軍隊内でのみ通じる隠語は「親孝行がしたい、ヨメがほしい」だった。アメリカ兵が映画でかならず「ママ」というのはただのマザコンという意味ではなかった。

 

 「兵士とか囚人とかには、どこの国でも、どういうわけか「母親崇拝」といった一面がある」。

 「考えてみれば、人には他人の苦しみがわからないものである」。

 日本刀神話は根強く残っている。徳川以前の古刀ならともかく、徳川期の新刀はそれぞれまったく性能の異なる工芸品、芸術品である。中国の青龍刀はより実用的であり、さらにもっとも実用的なのが円匙とよばれる槍型シャベルである。丈夫な農具はおそろしい武器になった。闘いにあけくれる民族の刀は、万能ナイフ、サバイバル道具に近くて、それで飯をつくったり穴をほったりする。

 成瀬関次の日本刀の著作、吉市繁光『軍属ビルマ物語』。華麗な装飾をほどこした指揮刀をふるって、騎兵隊をあやつりたいというのは、いつの時代の若者も抱く願望だろう。

 血は一種の塩水なので、人を斬ればそこからすぐ腐食する。包丁で切るときの牛肉豚肉はすべて血を抜いてある。

 「ジンギス汗のモンゴル軍の軍隊検査の規定をみると、その「必携品目」に砥石とやすりがあり、これを持っていないと厳罰に処せられたそうだ」。

 ――斬込隊とは……その実態は「戦車・重火器破壊班」とでも名づくべきものなのである。近代戦とは兵器の戦いだから、目標は「人」ではなく「重火器」である。

 フトン爆雷を戦車に置いて退避すればいいが時間がないのでこれは自殺兵器になる。この場合の「斬り込む」とは「時代を斬る」と同じ比喩・誇張である。

 戦場では、平時なら人道的といわれる行動が、部下を死にさらす自己満足的行動になる。一方、合理的な行動は非戦場の人間からは冷酷だとされる。

 スペイン系フィリピン人のなかには、アメリカの支配に憎悪をたぎらせたものもいた。また、僻地のフィリピン人のなかには、組織や国家、戦争の概念をもたないものもいた。

 戦場では足の負傷をもっともおそれる。それよりは一息に頭を撃たれるか砲弾でふっとばされるほうを選ぶ。自分の手足を撃って病院に逃げるという話があるが、フィリピンなどの撤退不能の戦地でこれをやるのはまったく意味がない。味方の誤射・誤爆による負傷や戦死はどこにでもある。戦場は屍体、排泄物などで徹底的に汚染されているから、傷つくことはすなわち化膿・壊死・敗血症、そして死を意味する。

 戦場ずれした不良下士官はグラサンをかけていた、「したがってサングラスの嚆矢は、おそらく大日本帝国陸軍下士官である」。

 この下士官は膝の負傷後、泣き言だけをいうようになった。

 ――いわゆる愚連隊的人間が、戦場では一番臆病だという定説があるが、私の体験はほぼこれを裏づけてくれる。

 「味方の損害を実数のまま平然と発表できない国は必ず大きな弱みをもち、その弱みに対して実に臆病になっているがゆえに悲壮調の壮語になるのであろう。そして結局は、常にかわらず、この臆病なものが最大の損害をうけ、また最大の損害を周囲に与えるのである」。

 勝った兵隊はかならず「敵は強かった」というが、これは裏返しの自慢である。

 戦況が悪くなると、遊兵というものがうまれる。道路修理や航空場整備、通信などをおこなう兵隊は武器を携行していない。彼らは用をなさなくなると逃げるしかない。

 パレードには最低でも二日かかり、大都市を制圧するには三週間はかかった。

 

 本の最後部は「百人斬り」論争についてほとんどが割かれているが、これはとくにコメントはしない。こういう紛争地帯には踏み入れぬが吉である。まさか文庫本一冊か二冊読んだだけで正しい識者たちの世界に招かれるわけでもあるまい。

 

 近代戦ではふつう敵影は見えない、狙撃でもしないかぎり何人殺したかはめったにわからないものである。また、戦場の夜というのはほんとうの暗闇で、灯りをつければそれは標的にるということだ。

 「通常、戦死者の三倍の負傷者がいる……軍隊は通常その半数を失うと戦闘能力を失う」。

 軍人は質問をするとき、詰問するのであって、「話してもらう」という口のききかたを知らない。まして憲兵はそうである。憲兵は平時には偉いが有事には役立たずになる。二・ニ六以降は、憲兵は軍隊のなかでの特高のような役割を担った。暗い、異端だとおそれられ、また蔑視された。

 人間はまずさいしょに日付を忘れる。著者は、自分が憲兵にたいして証言しなかったせいで、一人の憲兵少尉を処刑においこんでしまったかもしれないと考える。軍事法廷においては証言者も道連れになる可能性が高かった。

 陸軍刑法は、形式的な責任者にも罰を科す。つまり、陸軍刑法にしたがえば統帥権をもつ天皇も罰されるはずだった。

 時代の旗をふる人、恐慌状態になり、敵を殺せと叫ぶ人間は常に存在する。

 日本は自らのつくった虚報によって負け、戦後はその虚報の見出しを残虐行為にかえられた。

 「人間はほんとうの危機に直面すると頬を痙攣させて、これは薄笑いしているようにみえる」

 

私の中の日本軍 (上) (文春文庫 (306‐1))

私の中の日本軍 (上) (文春文庫 (306‐1))