7 中国戦線の栄養失調症
敗戦までの2年間は、中国戦線でも餓死・戦病死が戦死を上回った。
――某病院で数名の栄養失調症患者が臥床していたところ、食餌として与えられた一椀の粥を隣の患者より奪わんとし、仮眠中を利し絞殺しようと喉をしめかけたところ、相手に気づかれ、逆に反抗を受けてかえって加害者が頓死した実例がある。
大陸打通作戦は黄河から仏印までを十六個師団、50万の大軍で進行するという大作戦だった。目的ははっきりせず、中国奥地(桂林や柳州)の米軍航空基地を占拠し本土空襲を防ぐという名目が立てられたが、到着時はもぬけの殻で、米軍はマリアナ諸島から空襲が可能になっていた。
道路状況は悪く、著者は空襲のなか手持ちのスコップや収奪した農具で道路整備をさせられた。鉄道は破壊されており、支線から線路をはがして持ってこなければならなかった。
――第一線部隊がはるか遠い奥地を前進しており、補充員が後方から無統制に追いすがっていく。しかも兵站線がきちんと設定されず、補給がつづかないため、第一線部隊も補充員も徴発をくりかえしているという状況は、1937年の南京攻略戦にも表れている。
中国戦線では、野戦病院での死者が非常に多い。
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第2章 何が大量餓死をもたらしたのか
1 補給無視の作戦計画
・作戦重視、兵站軽視
作戦至上主義、強硬論の提唱者たる大本営の担当者たち……第一作戦部長田中新一中将、第二作戦課長服部卓四郎大佐、作戦課作戦班長辻政信中佐。
牟田口廉也もまた盧溝橋事件発生時の第十八師団長であり神がかり論者だった。
・情報軽視
――ドイツの英本土上陸作戦はできないと英米課が判断したり、ソ連の崩壊はないとロシア課が結論を出していたのに、作戦課は情報専門家の判断を無視して、自分の都合のよいように、作戦課限りで勝手に情勢判断をしていたのである。
作戦課の一握りの人物たちは失敗しても排除されなかった。
――失敗しても不死鳥のようによみがえってまた国の運命を左右する要職につくという陸軍の人事そのものにも問題があったということができよう。
2 兵站軽視の作戦指導
補給兵站物資の大半は対ソ戦に備える関東軍が保有していた。太平洋戦争開始後の南方戦線に対しては、中国戦線の物資を割り当てる形で補給がなされた。
しかし、各部隊に対しては短期間の食糧と自活用の野菜の種を渡し、現地調達主義を強いるなど非現実的なものだった。
日本軍は各国と異なり交通輸送は軍馬が基準であり、編制も軍馬を基準としていた。南方戦線では、馬は全く役に立たず死んでいった。
約100万の馬は一頭も帰還しなかった。
――……上海出張から帰って「馬は痩せて紙のごとく、一枚二枚と数えている」と言ったのがいまだに耳に残っている。
3 参謀
戦争指導が一部の中堅幕僚によって独占されていた……作戦部員、陸軍省軍務課員、幼年学校出身、陸大優等生、ドイツ語専修、ドイツ留学あるいは駐在経験をもつ人物たち。
その最たるものが「田中、服部、辻のトリオ」である。
かれらが人事上の優遇を受け続けたのは、東条英機や富永恭次などが積極論者に好意的だったからだという。
参謀らは非人間的な作戦、人命軽視の作戦を実行させた。
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第3章 日本軍隊の特質
1 精神主義への過信
1907年『歩兵操典』……「銃剣突撃」至上主義、「攻撃精神」、歩兵第一。
昭和期になっても、三八式歩兵銃での突撃を第一の戦闘方法として訓練していた。
――旅順の要塞に白兵突撃をくりかえして、陣地の前に屍体の山を築いた教訓は、少しも生かされていなかった。
銃剣突撃が火力に勝てないことを最後まで学ばなかったが、同時に、そもそも日本の工業力が貧弱で、近代的な重火器を生産できなかったこともある。
主力火砲は日露戦争時代のものと変わらない三八式野砲、呪法も三八式榴弾砲、カノン砲だった。
2 兵士の人権
兵士の地位はきわめて低く、それは生還率に直結した。
陸軍の死者対生還者の比率は、将校33対67、准士官23対77、下士官64対36、兵隊82対18である。
――すなわち准士官以上は7割が生還しているのに対し、兵士の生還率はわずか1.8割だった。
当初陸軍はフランス陸軍を範としており、1881年「歩兵内務書」には服従と礼節が説かれ、西欧的合理性の余地が残っていた。
1882年の軍人勅諭、また1885年からの軍制改革により軍紀と服従は厳格化された。
軍紀の厳正……1889年の「野外教務令」から「陣中要務令」「戦闘綱要」「作戦要務令」へ
陸海軍刑法……体刑、抗命や対上官暴行への厳罰
日清戦争の死者は1417名、戦病死者は1万1800名だった。
1939年のノモンハン事件はソ連軍の火力に日本軍の白兵が完敗した戦闘だったが、その教訓は生かされなかった。
3 兵站部門の軽視
大正末期までの陸軍兵科……歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重。
陸軍では輜重科出身の大将は一人もいない。陸大出身者に輜重科はほとんどおらず、幼年学校出身者は輜重科にはいかない。
エリートが皆戦闘職種に進むため、輜重科には中学校出身者が多くなり、柔軟な思考の持ち主が多かった。
輜重兵は特務兵(人夫のような扱い)が多く、1937年まで万年二等兵だった。
経理部将校、軍医将校は将校相当官と呼ばれ、敬礼を受ける資格がなく、部隊指揮の資格がなかった。
一般大卒が多く、待遇は悪かったが、陸軍エリートよりもはるかに能力が高かったという意見もある。
軍医のなかでも大卒と医専卒、さらに大卒のなかでも東大卒と京大卒の派閥争いがあった。
石井四郎は軍医の地位向上を求めて細菌戦研究を推進し、結果七三一部隊を生むことになった。
4 幹部教育の偏向
陸士教育……師団長の決心、精神教育
陸大教育……さらに観念的
幼年学校はこれらを凌ぐ偏向教育を行っていた。幼年学校はもと軍事知識輸入のための語学教育から始まった。
幼年学校出身者は陸軍の中枢を独占するようになった。
弊害……軍国主義的発想での政治介入、他の出身者に対する排他主義、独仏露に詳しく米英中に疎い。
5 降伏の禁止と玉砕の強制
第1次大戦までは国際法遵守の配慮があった。しかし、日本軍では捕虜を不名誉とみなしている以上、外国捕虜の待遇は国民教育上よくないという議論が生まれた。
その後精神主義の強調、拡大政策などにより国際法遵守の観念は薄れていった。
日中戦争は戦争ではなく事変であるとの認識から捕虜をとらない、つまり殺してもよいという発想につながった。歩兵学校の教材では中国人捕虜は殺害しても問題にはならないとの記述がある。
1941年の戦陣訓発行以前から、捕虜は不名誉なこととされていた。
ノモンハン事件で発生した捕虜は全員捜査され刑罰を受けた。無罪であっても懲罰の対象となった。
◆参考