うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『大本営報道部』平櫛孝 ――大本営発表の内側


 大本営報道部に開戦直後の数年間在籍していた軍人による著書。

 後半は自身の体験談ではなく資料からの抜粋が多くなる。しかし、大本営報道部とマスコミ、国民とのつながりや要素を知ることはできる。

 

 プロパガンダは平時・戦時に関わらず国家政策の重要部分を占めており、これが原因で国民の現状認識を誤らせ自滅に導くことがある。

 日本に限らずアメリカでも(イラク戦争など)、マスメディアは非常に脆弱であり、簡単に権力に屈してしまう。

 

  ***

 1 報道部の発足

 陸軍では幼年学校から大学校まで、政治に関する教育は存在しなかった。軍人勅諭の「軍人は世論に惑わず、政治にかかわらず」のもと、一般社会から隔絶された環境で教育を受ける。

 

 ――しかし、「惑わず」とか「かかわらず」ということと、それを「知らせない」「教えない」ということは違うと思う。戦争のような総合的な判断力を必要とする事件にたずさわるものの教育方法が、はたしてこれでよかったか、という疑問は、当然のこととして残る。

 

 昭和4年頃は青年将校運動の勃興期であり、過激なアジビラが飛び交っていたという。

 著者は昭和16年に陸軍省報道部に異動した。報道部は田中義一時代に設置され、対外広報がその目的だった。しかし日米開戦までは閑職だったという。

 報道部員は従軍作家・従軍記者と深く連携した。

 報道部長はよく大臣に決裁をもらうため大臣室や官邸に向かった。谷萩報道部長は東条かつ子夫人(東美齢と揶揄されていた)を女中と間違えた。

 

 報道部の業務……軍の宣伝、用紙統制、雑誌・新聞社の販売統制、大本営発表日中戦争にあわせて大本営設置)、作家・画家などのコンテスト開催、通信社の統合など。

 二・二六事件の影響で報道部員には大人しい官僚タイプが集まった。服装や勤務時間などは、一般の規範から除外されていた。

 一人が1分野を担当するため、会議や討論はほとんどなく、業務に追われ、各人が独りよがりな仕事をすることが多かったという。

 

 海軍報道部とは特に反目もなかったが、長髪でおしゃれな海軍のほうが宴会でも人気があったという。お互いの虚偽報道や過大戦果を認識してはいたが、あえて反論し国民に混乱を生じさせることはしなかった。

 

 

 2 日米開戦

 開戦前夜から報道部の雑用が増え、職場で泊まり込みとなった。

 報道部は各種会議に参加したが、その視点から当時の戦争指導について回想している。

 当時は内閣総理大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が鼎立し戦争指導が行われた。

 

 ――天皇は、旧憲法によれば、統治・統帥、開戦・講和など多くの大権の保有者だったが、事実上はその権力を行使しない存在だった、という風に東京裁判などでは説明されている。しかし、だからといって、天皇の意志とは関係なしにものごとが決められ、天皇の意志にそむいたものであっても、天皇がしぶしぶながらそれを追認しなければならない、というようなものではなかった。……天皇が軍のロボットにすぎなかった、と強調するのは戦後の政治的な弁明としては理解できるが、必ずしもそれは事実ではない。

 

 大本営が作られたものの、陸軍省海軍省にそれぞれ看板が掲げられただけで統合機能を果たすものではなかった。陸軍省大本営も何度も組織改編を行ったが非効率は解消されなかった。

 陸海軍はそれぞれ軍令・軍政を独自に行い、お互いのことは全くわからなかった。

 

 著者らはJOAK(NHKコールサイン)の放送や、トーキョー・ローズという海外向け放送にも携わった。著者は海外向けに挑発的な放送を流し国際的非難を浴びた。

 

 ――日本軍が国際法の侵犯に不感症になり、捕虜の生命を保障しないことは、事実だった。

 

 かれらは誇張・誇大をよしと考えたが、結果的に「大本営発表」という言葉が、あてにならないものの代名詞となった。

 

 地方での後援も報道部員の仕事だった。著者はあるとき霞が関で講演したが、最前列に近衛文麿がいた。

 

 ――……すると、第一列中央の近衛公が突然立ち上がって、「はなはだ失礼ですが、お願いがあります。私は前総理大臣ですが、軍の戦況については何も知りません。知らされておりません。今日お集りの皆さんもご同様です。どうか一般の国民向けの講演と同じにお願いします」との申し出があった。

 

 聴衆の受けをとるために誇大な話をまくしたて、報道部ではなく宣伝部となっていた。

 陸海軍でお互いに情報の秘匿をおこなった。

 

 ――……マリアナ沖海戦で日本の連合艦隊が実質的に全滅したことを、参謀本部すら知らなかった。陸軍省の大臣以下、私なども、まったく知らなかった(佐藤軍務局長)。

 

 報道統制も、開戦後には、御用新聞御用雑誌ばかりなので大した仕事はしなかった。

 その他……絵画芸術、演劇、映画、音楽担当、検閲、慰問団企画

 

 報道部員はインテリジェンスの一部と考えられ(実態はただの宣伝マン)、防諜対策がとられていた……私服通勤、鞄所持禁止、通勤時居眠り厳禁。

 報道部員に対し、スパイの接近や買収工作があった。

 報道部の検閲は軍事機密に関するものに限られ、一般的な言論検閲は内務省と警察の業務だった。

 著者は権力の力を認識せず、思い上がりで出版社に圧力をかけた過去を反省する。

 

 

 3 アメリカの反攻

 真珠湾攻撃は成功したものの、その後海軍は劣勢になっていった。日米双方ともに戦果報道を操作したが、日本は過大報告に自ら騙されていった。

 

・1942年5月 珊瑚海海戦(ポートモレスビー攻略をめぐる、過大報告の始まり)

・1942年6月のミッドウェー海戦山本五十六が提唱者だった。陸軍は一木支隊三千人を派遣したが、ミッドウェー海戦の失敗により(連合艦隊主力は壊滅)使い道がなくなり、ガダルカナルの対米上陸作戦のために投入された。

 

 米豪分断を狙うFS作戦は中止となった。

 

 こうした一連の戦況を報道部員はただ知らされるだけだった。

 

 

 4 南海の死闘

 太平洋戦争の推移に関する説明が続く。ここは大本営報道部員としての経験というより、ただの作戦解説である。

ソロモン海戦

・南太平洋海戦

・第三次ソロモン海戦

・その他の夜戦・航空戦

ガダルカナルの敗退

 

 当時の礼賛記事や詩歌は次のようなものだった。

 

 ――……叫ぶラジオに、光る電光ニュースに、帝都の町々は道行く人びとの万歳の叫びも混ざって大いなる喜びの一色に包まれた。

 

 ――この放送はさらに徹夜で定時国際放送におりこまれ、一億国民の観劇熱狂は世界のすみずみにまで響きわたった。

 

 ――みんなみの海にとどろきし勝どきをいまこそきかめみぶるひたちて(斎藤茂吉

 

 ガダルカナルの百武部隊(今村方面軍隷下)は飢えと戦っていた。この戦況をめぐって、市ヶ谷では陸軍省参謀本部間で口喧嘩が頻発した。

 

 ――この口論の数年前、帝国議会で「ばかやろう」発言をして、問題をおこしたのは佐藤だったが、今度の「ばかやろう」は田中(新一中将)の方が先で、田中と東条のときも「こんなことをしていると、戦争は負けだ。この馬鹿野郎!」とどなったのは田中だった。

 

 

 5 頽勢いかんともしがたし

 太平洋の戦況が悪化するにつれ、報道部の仕事は小規模作戦の戦果発表、座談会や講演会への派遣、放送を通じての士気高揚がメインとなった。

 

 ――「敗戦のさなかに国民の士気を鼓舞するのは大変だろう。勝った、勝った、と発表しながら、いつの間にか敗けていた、ではすまされぬぞ」といって笑った……。

 

 昭和19年6月頃は太平洋戦線に関する報道が途絶え、独仏戦線などを「隣の町の火事」の話をするかのように報道した。

 また連合艦隊壊滅後は海軍の発言力は目に見えて低下した。

 

マリアナ沖海戦 1944.6

 日本のサイパン放棄

 

・台湾沖航空戦 1944.10

 

 ――……戦争は今や真に決戦段階に入った。日本国民は今日の戦果に応え、また将来の勝利を確信し、全力を挙げて御奉公すべきときである。

 

 ――……天皇陛下より御褒賞の勅語さえ拝した。……後日これらはすべて幻想ともいうべき実在しない海戦であったことが判明した。

 

・フィリピン沖海戦(捷一号作戦) 1944.10

 

 ――有識階級の人はもうとっくに大本営発表を信じなくなり、サンフランシスコ放送を信じるという状態であった。

 

 台湾沖航空戦の過大報告を大本営海軍部が調査した。しかし、調査結果は陸軍部には通報されなかった。

 

・マニラの戦い 1945.2

・沖縄作戦 1945.4

 

 

 6 敗戦

 著者は敗因分析として明治以来の硬直した軍事戦略をあげる。

 

・『帝国国防方針とこれに基づく陸海軍の用兵綱領』(1907年)

 陸軍はソ連、海軍は米国に向いたまま最後まで修正されなかった。

 

 統帥部と現地軍との電報での争いについて。

 

 ――……在サイパンの井桁参謀長に「天皇より井桁敬司に命令す。アスリート飛行場を死守すべし」と電報した。……これが本当に天皇の御意思ならば、恐れ多いが、天皇はむちゃくちゃなお方だということになる。むちゃくちゃを承知で、幕僚が勝手に天皇の名を使ったとすれば、これはもう無責任の一語につきる。公文書偽造にならないのが不思議なくらいである。井桁少将のほうもまた、「できないことはできない」と返電した。来信も来信なら、返信も返信だ。