著者は終戦時、連合艦隊司令部で作戦幕僚を務めていた。その後責任をとるために自殺しようと考えたが司令長官の訓示で思いとどまった。
米海軍の要請により、日本海軍の戦術について回答するために作られた史料編纂部署に配属され、日本海軍の作戦を検討することになった。
著者は対空砲の専門として、艦隊防空などを担当した。このため、海軍の防空能力の低さに当初から警鐘を鳴らしていた。
終戦後ほどなくして書かれたというが今でも納得できる点がある。
山本五十六は航空兵器が海戦の主体となることを予知していたというが、著者はこの見方を否定している。また、日本海軍は真珠湾奇襲成功の後も、自分たちの根本方針を見直そうとしなかった。
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著者は:
武蔵(第2号艦)の高射長予定者
海大に入校するが8か月で繰り上げ卒業
その後巡洋戦艦(battle crueser)比叡に搭乗し、沈没時に脱出した。
・昭和20年2月から連合艦隊司令部参謀となって発見したこと:
本土防空能力なし。
連合艦隊に戦力・燃料なし。
残るは航空作戦と潜水艦のみ。
・著者の主張では大和特攻は復路の燃料も準備されていたという。とはいえ精神的満足が第一の無意味な作戦であることに変わりはないという。
・著者は艦艇勤務一筋で、海軍省や軍令部といったエリート部署での経験はなく、海大も大幅短縮である、と断り書きしている。
緒論
なぜ日本海軍は開戦を決断したのか。その思考基盤は何か。
第1部……海軍は戦争と戦闘を混同していた。
第2部……その実例、検証
1 日本海軍の対米戦争に関する判断
1907年の「帝国国防方針」策定以来、日本の仮想敵は米国であり、その主担当は日本海軍だった。同時に燃料は米国からの輸入に依存していた。
中国海南島占領、北部仏印進駐等で米国は対日禁輸を強めていった。
・米国との対決は海軍では現実化していた。
・出師準備から臨戦準備へ。
・真珠湾攻撃成功の教訓:
1 奇襲成功をきっかけにした驕り・過大評価
2 緒戦の成功自体が、日本海軍の艦隊決戦主義の終焉を示していた
真珠湾奇襲は、航空作戦が海軍の中心となることを示唆していたが、山本長官や海軍首脳部はこれに気が付かず、艦隊中心の思想を最後まで捨てなかった。
海軍の艦隊中心主義への固執は、海軍大学校の教育が原因だったのではないか。
現実に適応していない教育が行われた。教官らは、軍令部からの横滑りか、緒戦しか経験していない将校だった。
著者が卒業所感文において教育内容を批判したところ学生の前でつるし上げられた。
戦術に異様にこだわるが、研究は艦隊決戦の机上演習ばかりで、自軍に有利な想定状況しかつくらない。
その当時、日本海軍の冷戦1機は、実に、米海軍秘蔵のヘルキャットの約10機に相当するとせられていた。実際の戦争場面では1対1の実力も危なかったときにおいてである。
先制と集中、夜戦重視、防御軽視、自軍の練度を過大評価。
もっとも顕著なのは、海上交通保護、防空および艦艇、航空機の防御に対する無理解、冷淡、無関心であった。しかも、そのいずれもが日本海軍の命取りとなった。
あまりにも火の付きやすい一式陸上攻撃機は、「一式ライター」のあだ名で呼ばれていた。
戦務に対する認識不足……補給(燃料、弾薬、人員不足)
潜水艦の軽視。
日清・日露以来、戦争を艦隊決戦としてしか認識せず、その背後の政治や戦略要素はほぼ無視されていた。
日米開戦の判断に際して、海軍はその決断を近衛内閣に一任した。海軍は日米艦隊決戦しか考えておらず、またその他の判断材料として陸軍との予算争いしか考慮していなかった。
資料によれば、永野軍令部総長、嶋田海相ともに、「今の時機であれば」戦争に負けるとは思っていなかった。
2 戦争はかく実証した
実際の戦史を検証し、海軍の「学ばなさ」を指摘する。
ハワイ海戦……第二撃は物理的に困難で検討されなかった。艦隊中心から航空兵力中心へと戦争が変わろうとしているにも関わらず、空母の増産等には消極的だった。
その後緒戦……米側の電波探知機運用により、日本海軍の小手先芸は通用しなくなっていく。
日本海軍凋落の原因……生産力・人員養成計画の差、米海軍の作戦計画の早さ。
・主要な戦術はアウトレンジ戦法で、敵船舶との近接戦を恐れた。
・偵察を軽視していた。
・戦況が不利になるにつれて、簡潔明瞭であるべき命令が抽象的な美辞麗句ばかりになっていく。
・潜水艦作戦と補給の不備。
潜水艦の運用について米海軍が特別優れていたわけではない。むしろ、日本海軍があまりに軽視していたのだという。細部についてはまた別の本で知る必要がある。
・設営隊(航空部隊に不可欠な空港建設)の立ち遅れ
・情報と暗号の軽視:暗号が漏洩していることに戦後まで気が付かなかった。
情報専門の教育はなく、序列の低い通信将校が兼務することが多かった。また暗号部隊はごく少数で、大多数はその重要性を認識していなかった。
暗号の寿命は永遠ではない。また、強度が高ければいいというものでもない。緊急を要する暗号が、難解である必要はない。必要なのはすぐに解読することだからである。
・教育と人事管理
昭和初期の兵学校教育は柔軟であり、また人事も公正だったと評する。
一方、軍縮の際の士官削減が後々まで悪影響を残した。また、大卒出身や予備士官をうまく活用できなかった(かれらの能力は戦闘よりも行政分野で発揮されるのではないか)。一部の「特急組」が要職をたらいまわしにした。
信賞必罰が適切でなかった……艦とともに心中しなかった艦長には懲罰人事が課せられた。一方で、敗戦の責任は特定されることがなかった。
3 総まとめ
・後手後手となった作戦計画
・「あ」号作戦と「捷」号作戦の失敗
特別攻撃について責められなければならないのは、……このような残酷な戦法を実施した作戦指導者である。
・水上部隊の特攻(大和特攻)等は、航空部隊がやっているのに何もしないわけにはいかない、という完全に精神的な理由から行われた。
・マクロ的な考え方と総合性の欠如
戦争についての総合的な考えが欠如しており、またチームワークにも欠けていた。
昭和20年7月以降の本土空襲に対し、小沢海軍総司令長官はほとんど抵抗しなかった。これは本土決戦に備えて戦力を温存していたためである。しかし、そのとき日本政府は既に和平交渉に入っていた。
裏を返せば、日本本土にある海軍部隊の全部を指揮していた海軍総隊司令長官にしてからが、日本政府の和平工作の片鱗すらを知らされていなかったのである。
陸軍と海軍との間に装備・兵器の互換性は一切なかった。
驚くべきことには、両軍の水陸両用作戦の整備にあたって、陸海軍の間に連絡らしいものがほとんどなかったのである。
陸軍が輸送用の潜水艦を建造し始めたとき海軍は冷笑した。この潜水艦は結局完成しなかったという。
(敗北の感想は)時がたつにつれて、いろいろの要素がそこに加わって、完全敗北型から負け惜しみになったりするのは、スポーツの勝負でよく見るところである。
日本はアメリカの物量にだけ負けたのではなく、物量を活用する組織力・チームワーク、そして真珠湾攻撃をきっかけに団結したアメリカ人の「精神力」、「勇気・犠牲的精神」に完敗したのである。
・海軍大学校の教育には、戦争を政治・軍を含む総合的な事象として捉える視点がなかった。
日本海軍は、その健軍の当初から、そのことが正当であったかどうかは別として、政治に関与しないという方針を堅持していた。が、戦争も政治の延長であるという見地からすれば、戦争とは何かという命題について哲学的な思考、思索を加えて、それが軍事面と有機的に機能する面については、十分な考察、研究をして、必要な措置を講じるべきではなかったか、と思われるのである。
昭和9年以来改訂されていない、艦隊決戦思想の「海戦要務令」(軍機)に基づいて軍は整備されてきた。このため、海軍は艦隊決戦以外の戦い方ができる状態になかった。
陸軍は陸大の教育(メッケル少佐の影響)によって権謀術策に頼り、海軍は近視眼的な戦略・戦術に凝り固まった。
大局に立脚してものの本質を誤らない教育が、いかに大切なものであるかを、いまにして、これ以上なく切実に感ずるのである。