◆メモ1
・わかりやすい状況説明と冷静な情勢分析が特徴である。
アメリカにおいて、沖縄戦に関する著作の1つとしてロングセラーとなっているのも納得がいく。
※ 他に米Amazonでレビュー数が多いのは海軍の原為一の回顧録や、小野田寛郎など。
・参謀としての感覚……Amazonレビューにある「ゲーマー感覚」には笑った。冷静な視点、悪く言えば他人事という印象はある。
高級参謀や(大部隊の)指揮官は、どれだけ理屈をつけようと、兵隊よりも死ぬ可能性が低い。これは古今東西の戦争で共通事項である。
非戦闘員を巻き込む形になったことに関しては著者は反省の意志を書き残しているが、一方かれらも防衛義務に準ずるべしと述べており、著者を現代的な人道主義の体現者であるかのように扱うのは誤りだと思料する。
・特攻部隊は駒の1つとして言及される。それには理由もあり、いわゆる航空特攻隊約4千人に匹敵するか、それ以上の数の地上戦闘員が、自爆攻撃に従事していたからである。
・地上戦の最大の脅威は大砲であり、兵をもっとも苦しめるのは砲弾である。
・島に残った沖縄県人……県庁職員、警察署長から一般市民に至るまで、皆献身的に働いた様子が記録されている。
◆メモ2
著者によれば日本軍最大の失敗は、航空至上主義と、攻勢至上主義にあるという。
航空戦力は重要だが、日本の生産力が徐々に貧弱となったため、最終的には航空攻撃=特攻となってしまった。特攻の実質的な効果はあまりなかったようである。
――……現代陸戦は違う。客観情勢を把握検討し、現状を洞察し、推移を予見し、まず不動の作戦目的――なんのために戦うか――を確立し、しかも論理的に人命尊重の線に沿って戦うべきである。
指揮官の役割について……牛島司令官は人間的にできており温厚、また長参謀長は豪快な人物として描写されている。
しかし、かれらが指揮官、参謀長としての役割をしっかり果たしていたのかは非常に疑わしい。
牛島司令官は自分からほとんど指示を出さず、現場にも出向かず、部下の文書はろくに確認せずハンコを押していた。
本書の中で唯一意思表示しているのは、中央からの圧迫で攻勢(万歳突撃)に出るよう八原を叱責したときぐらいである。
日本では上から下まで、指揮官は神輿スタイルがよしとされていたのだろうか。
参謀長は豪快・豪傑という自己イメージを保ちたかったのか、非合理的な攻勢作戦にこだわり続け、それが失敗するとすべてを投げだして死に場所を探すようになった。
こうした態度の人物が職務において評価され昇進していったことで、非合理的な組織が出来上がったと考える。
なおこの長参謀長は1937年南京攻略戦の際に捕虜の殺害を示唆(「やっちまえ」)している。
◆メモ3
日本陸軍・海軍は戦時中も、平時と同じ将校人事・高級幹部人事を続けた。このため、本書でも言及されているように、参謀や指揮官は数年で定期異動し、現場の責任は後任者に託される。
配置を通じたキャリアアップのために軍は通常この制度を採用しているが、戦争中にも同種のローテーションが行われることに関しては、イラク戦争後半の国防長官ロバート・ゲーツ(ラムズフェルドの後任)も問題視している。
――戦争中に求められる将校の資質は平時とは異なる。平時のままのローテーション人事を続けたために、優れた指揮官が数年で異動させられていた。(『Duty』Robert Gates)
異動すればその配置での責任は解除されるため、前任者・後任者の引継ぎではよく問題が起きた。
わたしの経験では職場・上官への恨みから自分の業務資料をすべて破棄して転勤する者がいた。また、前任者が隠していた問題が噴出(未提出の書類や、会計上のミスなど、「地雷」と呼んでいた)したとき、当人に電話しても居留守をされることがあった。
所詮、自分の金ではない、自分が死ぬわけではないから気楽である。
***
1 作戦準備
第三十二軍は昭和19年3月に南西諸島守備のため編成された。
著者・八原博通は陸大教官から参謀要員に異動、はじめ市ヶ谷台、その後那覇で第三十二軍の編成業務に取り組んだ。
当時、マリアナ防衛線(東条ライン)は難攻不落と認識されており、南西諸島(沖縄、徳之島、喜界島、大東島など)にはほとんど戦力は存在しなかった。
陸軍は航空至上主義に傾いており(飛行場設定軍との自嘲)、航空機の生産、航空将校の育成、飛行場の建設に全力を投入していた。しかし、著者はこの方針の問題として、太平洋各地で建設された飛行場を、そのまま米軍が占領し利用することが多かった点を指摘する。
参謀本部と防衛総司令部との間には温度差があった。総司令部は非現実的な図上演習を行っていた。
著者は来る米軍にそなえ沖縄県民を大規模動員し飛行場建設を行った。
市ヶ谷での参謀長会議の際、参謀次長後宮将軍は必勝戦法として戦車への体当たり攻撃(爆弾を抱えて戦車の下に飛び込む特攻)を提唱し、著者も同意した。
第三十二軍は18万の規模となり、築城と飛行場建設に取り組んだ。
しかし、長勇(ちょう・いさむ)参謀長と著者は、陸軍中央の航空至上主義・地上戦軽視に反対していた。飛行場の建設ばかりでまともな地上戦準備ができていなかったからである。
捷号作戦(フィリピン、あるいは台湾・南西諸島での米軍迎撃作戦)が始まると、1個師団をフィリピン戦に差し出さなければならなかった。著者は砲兵の力を重視したため、火力のある第二十四師団を残し、第九師団を差し出した。
司令官:牛島満
参謀長:長勇
10月に米軍の沖縄空襲があり、著者は米軍の沖縄上陸が1945年春になると確信した。
大本営の方針転換と虚偽報道について。
――……風の便りによればルソン島で決戦する方針を、急きょ一擲してレイテに変更したとか。私は内心危ういと思った。国運を賭する大会戦の方針を、そう軽々に換えてはならぬ。……戦後に承知したのだが、この作戦方針変更の主因は、台湾沖航空戦の戦果を、まともに信じた結果であるとか。
著者は沖縄作戦計画を起案し、敵を嘉手納湾あるいは小禄付近から迎え、南部を中心に持久戦を行う方針を定めた。
――実に軍の運命の根本はこのときに決したのである。
――わたしは最善を尽くしたのだから、別に悔いるところはないはずだ。だのに心の奥のどこかに、割り切れぬものがある。皆は、そして私もそうだが、果たしてこの作戦方針を、身をもって如実に実行するのだとの、徹底した自覚と真摯さがあったであろうか。計画は作ったが、実行する人はほかにある。戦の始まるころには、俺たちはまた、どこかに転任しているだろう、といった軽薄な気持ちが、少しでもあったら、厳に慎むべきである。
軍は首里司令部洞窟を建設した。
住民疎開については北部に約5万人を避難させたが残りは南部に残留した。北部は食糧事情も困難だった。
一方、県の行政トップは続々と内地に避難していった。
1945年明け、中野学校出身の尉官数名がやってきて、沖縄占領後のアメリカ軍偵察任務についたという。
圧倒的な鉄量に対しては、築城のみが対応できるという信念のもとに、壕の建設を急がせた。それが著者のいう「寝技戦法」である。しかし、壕の掘削に不可欠な坑木が不足していた。
特攻隊や決死隊(航空特攻、体当たり攻撃、水上挺身隊)は通常戦力と同じように扱われており、その是非に関してコメントはない。
近代戦争における非戦闘員の処理について……軍司令官は、非戦闘員は降伏してもよく、玉砕を強いる必要はないだろうと言った。
しかし、著者の見解では、勤労男子は全員防衛義務に殉じるべきである。
――一般に、ややもすると司令部、本部の人員が膨張しがちである。あたかも国家の役人が必要以上に増加して、国民の寄生虫的存在になるのと同じ現象である。真に戦うものは第一線の小、分隊である。
1945年3月、米軍の上陸直前にもまだ定期異動があり、将校たちはだれがどこに異動する、昇任する、と下馬評で盛り上がっていた。
――日本人は、その性格の弱さから、ややもすると、自己の意志を殺し、長いものには巻かれる主義の行動に出で、与えられたいわゆる運命に屈従する傾向がある。
米軍による洞窟陣地への馬乗り攻撃に対しては……複数の出口、陣地相互の支援を可能とする築城、野戦陣地の設定、立哨の確保、適時適切な肉迫攻撃によって対抗した。
米軍に対しては上陸後十分に引き付けてから射撃を開始しなければならなかった。
沖縄は孤立し海上輸送も米潜水艦によって途絶した。このため支援や増派はまったく期待できなかった。
第三十二軍の主要編成:
第二十四師団 雨宮中将
第六十二師団 藤岡中将
独立混成第四十四旅団 鈴木少将
第五砲兵司令部 和田孝助中小
その他三十二軍直轄部隊
海軍陸戦隊 太田少将
[つづく]