日本は敗戦までの30年間、ミクロネシアを国連委任統治領として支配していた。
歴史から忘れられがちな太平洋諸島と日本の関わりをたどる。
◆所感
・サイパンなどの南洋諸島には10万人超の日本人移民がおり戦闘で半数以上が死んだ(戦死や集団自殺)。
・徴用漁船は6万人の犠牲者を出した。
・日米の対立は、第1次世界大戦後に日本が南洋諸島を委任統治領とした時点から始まった。
ハワイの思い出:
ハワイで生活していた間、何人かミクロネシア出身の住民に会った。
米国はミクロネシア連邦と条約を締結しており、ミクロネシア出身者は米国に永住する権利を持っていた。このためハワイには多数のミクロネシア出身者がいる。
しかし、1986年以降、多数のミクロネシア移民がホームレスや無職となり、医療福祉予算を圧迫する中で、出身者に対する差別が発生し、ハワイ州も予算を削減するなどの措置を行った。
聞いた話だが、ミクロネシア出身者は元々貧しい暮らしをしていたため、ハワイでホームレスになっても問題なく生活できるということだった(ハワイ州は全米で最もホームレス率の高い州の1つ)。
https://www.usccr.gov/files/pubs/2019/08-13-Hawaii-Micronesian-Report.pdf
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明治以降、南進政策は常に政府・世論の双方で持ち上げられてきた。特に日中戦争から太平洋戦争直前にかけては、中国戦線の行き詰まりを打破するために、満州と対比させた太平洋への南進論を、政府が盛んに宣伝した。
南洋諸島は、大航海時代以来様々な国によって探検・統治され、また交易拠点となってきた。
名前の由来:
特に19世紀は列強が進出し、スペインは現地人との戦争で殺戮をおこなった。
第1次世界大戦がはじまると、日本海軍は南洋諸島に進出し、ドイツ人を無血開城させた。戦後、南洋諸島は委任統治領となった。
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日本統治時代、1939年には現地人よりも日本人移民のほうがはるかに数が多かった。
皇民化教育が実施されたが、日本人と現地人はすべて別々に生活するよう決められていた。それまでのヨーロッパ諸国や、戦後のアメリカの統治よりはましだたが、現地人は明確に三等国民の扱いを受けていた。
南洋諸島は委任統治領であるため、信教の自由を保障しなければならず、台湾・朝鮮のような神道強制はできなかった。
パラオでは人種ごとの差別が存在し、序列が日本人、パラオ人、沖縄人移民だった。
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南洋諸島を日本が獲得したことは、フィリピン、グアムを領有するアメリカの太平洋支配にとって潜在的脅威となった。
このときから日米の対立要因が生じている。
1933年に日本が国連を脱退すると、委任統治領である南洋諸島の主権はあいまいになったが、実質的な日本領土の状態になった。
南洋諸島が海の生命線であるとの宣伝が始まり、特に海軍は積極的に島々の軍事化を推進し、対米作戦を計画した。
防衛線をできるだけ本国より遠ざけたいという本能が他国との衝突を招き、「生命線」は国家をまる焼けにする「導火線」になってしまった。
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サイパン島のバンザイ・クリフでは、1000人以上の民間人が投身自殺した。
南洋諸島は、特に貧しい沖縄人移民にとっては楽園であり、多くの入植者が終戦まで生活していた。
太平洋戦争が始まると、米海兵隊は敵前上陸という、従来無謀と考えられてきた作戦を主軸とし、日本陸軍を駆逐していった。
米海軍と上陸部隊である海兵隊は、物量と人員の数で守備側を圧倒した。
サイパンでは、1944年までに邦人10万人のうち1万6000人程度が引き揚げていた。男性は戦闘要員として残留した。
『大本営機密戦争日誌』によれば、大本営は、1944年2月にはサイパン放棄を決定し、また一億総玉砕による敵の戦意喪失を目標にしていたという。
米軍の砲爆撃によって、残っていた住民のうち半数が死亡した。追い詰められた邦人は北部のバンザイクリフやスーサイドクリフで集団自殺を行った。
戦略の欠陥を具体的にあげると、まず太平洋での航空戦が長期の持久戦になるとうい認識がなく、常に一発勝負の艦隊決戦を志向したことで、先に述べたように基地航空戦力の充実を怠ったことがある。
また消耗戦となったため、国力の差で航空機生産量に決定的な差をつけられた。広い太平洋の各島へ劣勢な航空戦力を分散配置せざるを得ず、はるかに優勢な戦力を集中できる米機動部隊に各個撃破されてしまった。
ペリリューの防衛からは、従来の水際迎え撃ちからゲリラ戦術に方針が変わり、海兵隊は甚大な被害を被った。
「米兵の首を斬って殺し、『やった!』と思った瞬間、バーンと逆にやられてしまった。首を斬られた米兵が手りゅう弾を握っていた手を開いたからなんです」
上陸突撃には多くの黒人兵が含まれていたが、米軍の公式文書では意図的に隠されている。
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1939年、国内の受刑者たちがマーシャル諸島ウォッジェとテニアンに派遣され、航空基地建設労働に従事することになった。
1938年、国家総動員法成立により朝鮮人も動員が始まり、南洋諸島での労働に従事した。
しかし島が米軍に奪取されるとB29の攻撃拠点となった。
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海軍の動員計画により多数の民間漁船が徴用され、6万人の犠牲者(うち3万人が小型漁船)を出した。
戦後、米国は防衛戦略の観点からミクロネシアを領有した。太平洋は米国の核実験場となった。
1954年の第五福竜丸事件では、放射能に基づく偏見から国内でバッシングが続いた。
アメリカも船員を共産党員スパイ呼ばわりし、日本もそれにならって船員の身元調査を実施した。実際には他の船も多数が放射線を浴びていた。
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ブラジルと同じく、南洋諸島の日本人移民の間でも勝ち組負け組抗争が発生し、日本の勝利を信じる勝ち組が暗殺隊を組織した。
パラオの混血児からなる組織「サクラ会」は、帰国した日本人親族との関係構築のため活動した。この活動を受けて、「パラオは親日国」というイメージが形成されていった。