◆所感 自殺? 自決?
戦況悪化につれて八原が仕える参謀長・指揮官は自暴自棄になっていき、最終的に自殺する。
米軍の降伏勧告を無視した後、死ぬまで戦えの命令を出して一足先に自殺するというこの状況を受けて、わたしは責任放棄としか感じない。良い悪いは置いておき、確実なのは指揮を放棄しているということである。
逃げ延びて、米軍や世論を相手に「俺じゃない、あいつがやった、知らない、すんだこと」と責任逃れする人物に比べれば、自決した軍人らは自分の責任を認めている。
しかし、多数の人命を預かっている以上、巻き込み心中のような形で職場を離脱すべきではないと考える。今の時代の軍隊はこの自決の道徳を見習ってはいけない。
2 決勝作戦
天号作戦:大本営陸海軍による南西諸島防衛計画。
米軍艦隊が出現し慶良間群島に砲撃を加え制圧した。4月1日に嘉手納湾から上陸し、当初は賀谷支隊が応戦したが、主力は南部で待機していた。
やがて、大本営、関係航空軍、第十方面軍(三十二軍は台湾第十方面軍の隷下)からの干渉が始まった。かれらは持久戦を否定し、北・中飛行場奪取に向けて攻勢をかけよと圧力をかけた。
長参謀長は攻勢論に傾き、幕僚たちもそれに付和雷同した。
――彼らは軍の作戦準備の現況や、戦場の地形さえもほとんど知らず、今即席で攻勢を主張するなど無責任もはなはだしい。昨秋来の戦略持久方針を忘れてしまったのか。まるで陸軍大学校の五分間決心問題を解答するような軽率な態度である。
白紙委任でハンコを押す牛島軍司令官もこれに従い、急きょ、突撃戦術に転換となった。
――わが陸軍将校、なかんずく高級将校や参謀らは、陸軍大学校で気分本位の上滑りの作戦や、本質を離れた形式戦術を勉強し、しかも卒業後はほとんど用兵作戦の勉強をしない。
――……それは素質劣等な軍隊と戦った経験をもって、強大な陸海空軍を擁するアメリカ軍に、攻勢一点張りの作戦を強行しようとするからではないか。
ところが敵輸送船団が南西に接近中との電報を受け、即座に攻勢は中止となった。
――ことここに至った理由は何か。私はあえて繰り返していうことを辞さぬ。それは、過去の航空優先の亡霊にとらわれた戦略思想であり、空軍的海軍的発想に基づく地上戦闘の現実を無視した誤れる戦術思想である。
洞窟司令部の状況……温度85、6度、湿度100パーセント
――いつしか洞窟内の将兵の悲壮な緊張感は、日ごとに激化する戦況とは反対に緩和され、慢性不感症となった。軍司令部内には、のんびりした、否一種鈍感ともとれる空気さえ流れ始めた。
中央からの圧力におされての攻勢計画や夜襲計画など、作戦参謀であれば、失敗するとわかっていても作成しなければならなかった。
4月中旬から、本島南部において海兵隊との激戦が始まった……嘉数、前田、南上原高地、仲間など。この項では米軍側記録を引用している。
著者は、持久戦術にしびれを来たし突撃しようとする現場を抑えなければならなかった。
戦闘部隊でない部署(後方要員)はほとんど機能しなかった。
――日本人だから、日本軍と名の付くものだから、と漫然その働きを期待しても、未訓練の部隊はやはり烏合の衆に過ぎない。これは今に始まったことでなく、古来のわが戦史に間々見るところである。
米軍は浸透戦術(防備の弱点に戦力を集中する)を使い、また戦車や物量をもってローラー作戦、「耕す戦法」のように徐々に進軍してきた。
5月にいたり、軍は1か月近く米軍の攻勢に持ちこたえた。著者はこの成果を受けて「自信を深め、内心かんじたるものがあった」。
ところが中央の圧力や、将校たちの忍耐不足により、攻撃主義が頭をもたげ、著者は司令官から攻撃計画を作成するよう叱責された。
――我々軍人は平素の訓練において、攻勢至上主義で訓練されてきた。陸軍大学校の教育においても、わが一個師団はソ連軍の三個師団に相当するという前提で演習を実施した。装備我より優秀なソ連軍に、どうしてその三分の一の兵力のわが軍が対抗できるか? 曰く統帥の妙と旺盛な攻撃精神によるのだ、と。自惚れも極まれりというべきである。精神教育よりすれば、こうした主観的な思想も一理あるが、いやしくも高等用兵を研究すべき陸軍大学において、戦いの本質から外れた教育演習は避くべきであった。
5月3日に無謀な攻撃計画が予定され、前夜に各部隊長たちが洞窟司令部で宴会をおこなった。
かれらは意気揚々だったが攻勢は失敗し主力部隊は3分の1以下になった。長参謀長や牛島司令官は攻勢を撤回し、再び持久作戦を著者に一任するようになった。
著者のメモ
――日本軍高級将校
先見洞察力不十分――航空優先の幻影にとらわれ、一般作戦思想、兵力配置、戦闘指導をことごとくこの幻影より発する。
感情的衝動的勇気はあるが、冷静な打算や意志力に欠ける。
心意活動が形式的で、真の意味の自主性がない。
地上戦闘に対する認識が甘い……
死を賛美しすぎ、死が一切を美しく解決すると思い込んでいる。……勝利や任務の達成を忘れた死は無意味だ。
日本軍幕僚
主観が勝って、客観が弱い。自信力が強すぎる。
戦術が形式的技巧に走って、本質を逸する。
軍隊の体験が乏しい、等々。
3 戦略持久戦
自分の思い付き突撃が失敗した後の参謀長の台詞……
「八原! 俺の切腹の時機はまだ来ないか?」
内閣が交代し小磯から鈴木となった。こうした国家首脳部は、沖縄の情況を正しく認識していなかった。沖縄は、大部分の戦力を台湾やフィリピンに吸い上げられたにも関わらず、本土決戦の前哨戦として重要視されていた。
――個人の場合ならば、自らの意地や面子に身を亡ぼしてもそれまでであるが、国家民族の場合は、そうはゆかぬ。特に指導的地位にある人びとの、個人的な意地や面子のために、国家民族が犠牲に供せられるようなことがあってはならぬ。
――大東亜戦争は美しい口実で開始されたが、畢竟支那事変の処理に困却しはてたわが指導グループがその地位、名誉、権力等を保持延長するための、本能的意欲から勃発したものと考えられる。
戦線は南下し、天久台、シュガーローフで激戦が行われ、米軍に多大な出血を強いた。
著者の発案により、喜屋武半島への後退が決定した。その際に、持久戦を唱え続けてきた教訓として、根回しの重要性を実感したという。
――従来、あまりにも理論1点張りで通そうとした、自分の態度が悪かったと気づいたからである。自分の主張がいかに正しくとも、集団を動かすには、政治的配慮が必要であることを通観していた。ことを行うには、まず根気よく、根回しをなすべきであったのである。
5月27日、洞窟司令部は司令官以下撤退を開始した。
一行は砲弾をよけつつ、摩文仁の洞窟に逃げ込みそこを新しい司令部とした。著者は水浸しで非常に狭い洞窟の様子を回想している。
最後の戦闘の後、牛島司令官と長参謀長は自決した。近代戦において元帥大将が部隊もろとも玉砕した例はまれである。戊辰戦争においても、投降した勝海舟や榎本武揚は新政府の重鎮として活躍している。
最終命令を合議した際、参謀長は次の文句を書き加えた。
――……最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受けることなく、悠久の大義に生くべし。
――降伏を知らずとの伝統を純情一途に守って、国民を文字通りに玉砕させるのはあまりに小児病的ではないか。うがって考えれば、降伏に伴う自らの生命地位権力の喪失を恐れる本能心から、口実を設けて戦争を続けているのではないか。
その後、参謀たちは教訓を持ち帰り本土決戦に備えるため、身分を偽ってそれぞれ脱走を始めた。
アメリカ第十軍司令官サイモン・バックナー中将の戦死は、たまたま本土からの電報で知ったという。
4 脱出
著者は洞窟を脱出後、荒廃した喜屋武半島をさまよい、洞窟に集まっていた避難民に紛れ込む。その後、米兵に投降し、難民として扱われる間、脱出の機をうかがっていた。
しかし、CIC(Counter Intelligence Corps(アメリカ陸軍防諜軍団))の尋問においてかつての県庁職員らに正体を見破られ、捕虜となり将校としての待遇を受けた。そのまま敗戦を迎えた。
――私は二年間の駐米生活で、アメリカ人の本質は承知している。今私の支配下にある数十名の難民を敵手に渡しても、現在以上不幸な境地に陥るとは考えられない。
その後本土に送還され、第三十二軍の残務整理担当として働いた。
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参考
連合軍機構(抜粋)
南西太平洋地域軍 マッカーサー大将
太平洋地域軍 ニミッツ大将
中央太平洋機動部隊 スプルーアンス中将
琉球軍 バックナー中将
戦術空軍 ハル少将
中国戦域軍 ウェデマイヤー中将
第二十空軍 アーノルド大将