うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日本残酷物語 2』その1 ――ブラックとしか言えない昔の生活

 ◆所感

 貧困や過酷な自然環境の下で生きてきた日本人の歴史について。

 

 1

 対馬

 対馬は古来から朝鮮貿易の中継所として使われてきたが、土地は非常に狭く平地も少なかった。江戸時代には鎖国政策にも関わらず、他国(上方や九州)の密貿易業者たちは7千人規模で滞在していた。

 対馬自体が離島であるため、犯罪者は拝領奴という底辺下男として武家の家等で働かされた。しかしほとんどは逃げ出し、最底辺の人間として一生を終えた。

 住人の生業は漁業と小規模の畑で、漁民は朝4時から夜中の1時まで働いた。食糧不足のため、部外者を受け入れないよう村のしがらみは強固だった。

 対馬のさらに離れ島で妻と2人で生活した老人の話。

イカ釣りとスルメ製造

コレラの流行による大量死

 

 薩南十島

 薩南諸島は九州から奄美、沖縄、そして台湾に続く飛び石に似ており、古来、東南アジアとの交通路として用いられてきた。薩南十島への定住の歴史は古く、言葉は薩摩方言より関西に近い。

 薩南諸島奄美は、鎖国によって外界から閉ざされ、明治以降は技術や交通の発達から取り残されてきた。十島村トカラ列島自治体)の役場は島にはなく鹿児島市にある。

 昔、島には船が停泊する港がないため、島民が舟を出して物資や郵便を受け取る必要があった。

 各離島……鼠が作物を食い荒らした。アブ、蛭、蚊が大量におり裸でいるとすぐに体中を刺された。

 漁業や作物栽培も明治以降行き詰まり、生活扶助(生活保護)を受ける者の割合は本土よりも多かった。

 長い間医師がおらず、貿易船が疫病を持ち込むたびに大量に島民が死んだ。

 

 先島諸島

 奄美大島以南はアジア大陸の影響を古来から受けてきた。明治26年、南方を探検した青森県士族笹森儀助について。

 先島……石垣島西表島与那国島は、琉球王朝沖縄本島)から搾取されていた。与那国では美人の娘を接待に利用するため、来訪者が子供を妊娠させる事例が多かった。

 那覇には売春宿が栄え、多くの島民が性病にかかっていた。

 西表島には三井組の経営する炭鉱があり、懲役囚や、内地からだまされて連れてこられた炭鉱夫(老人、子供ふくむ)が監禁状態で働かされていた。

 カタツムリの使用法……飢饉のときに食べる、土に混ぜてこねて器にする。

 沖縄諸島はたびたび大型台風に襲われ、そのたび飢饉に苦しんだ。宮古島では軍政時代、多くの島民が蘇鉄を食べて中毒になった。

 奄美大島は1604年、薩摩藩琉球入りのとき征服され、沖縄本島とは異なり直接統治されることになった。薩摩藩は恐怖政治を敷き、旧体制の士族らを没落させた。

 大島には家人(やんちゅ)とよばれる奴隷制度があった。これは古代の家人(けにん)の変種とされている。家庭で使役される奴隷身分は明治政府による廃止令後もしばらく残った。

 薩摩藩は大島に対し黒糖を年貢米の代わりに納めるよう指示し、島民は藩庁と代官(横領が多かった)とに苦しめられ、自分たちは少しの砂糖を使うことも許されなかった。

 維新後も大蔵省の警告を無視・隠蔽し、商社をたて奄美諸島に対する砂糖黍の買い上げ制度を続けたが、西南戦争後ついに廃止になった。しかし自由取引解放後は、砂糖業者に騙される例が多かった。

 

 沖縄の離島苦

 沖縄は字(あざ、村に相当)を中心とする極度の村社会であり、部外婚は許されなかった。平和な時代の後、1606年の薩摩の支配が続いた。琉球は表向き清朝の柵封国家だったが、薩摩は自分たちの存在を清国からは隠すよう命じた。実態は、琉球は薩摩の植民地に等しかった。

 明治維新後、薩摩出身の奈良原繁は、教員、警察、管理を鹿児島出身者で固めた。

 戦争中は、二級市民としての汚名を晴らそうと積極的に戦争協力したものの、戦後は米軍による婦女暴行や略奪に苦しんだ。この時期までには、沖縄は村社会の集まりを脱し県・国としての意識に目覚めていた。

 

 世十年前には、ある村に、何かの不幸があっても、それは、その村だけの不幸であり、他村の人びとは、そのことについて何の関心も示さなかったものだ。……沖縄人は、この四十年のあいだに、とくに戦後の十五年のあいだに、完全に近代人になり、権利意識と相互連帯の意識を身に着けている。

 

 伊豆七島

 青ヶ島について

 

 

 2

 山の住民

 サンカとは、里に住まず山で生活していた人々を指す言葉だが、実態は不明確である。かれらは村里と隔絶していたわけではなく、里に下りてきて取引なども行った。

 他に鉄の生産に従事するタタラ者や鍛冶屋も山で生活していたが、かれらは原料である鉄や燃料材木が尽きると場所を移動していった。

 木地屋は木工を特技とする人びとで、滋賀県を拠点にしていたが、その生活レベルは非常に低かった。

 

 便所はところかまわずそのあたりを利用した。壺などへしておくと、夜半、狼などが塩気のあるものをもとめて飲みに来たといわれる。狼がこないにしても野獣は多くて、夜間戸外へ出ることは危険であり、いろりでは火の気を絶やすことはゆるされなかった。すべてが深い警戒と用心の中で生きていかなければならなかったのであるが、それにしてもその生活は絶えず脅かされていた。良材がなくなれば居住をうつし、凶作があればまず死絶を余儀なくされた。

 

 山の人びとは、貧しさのために里から軽蔑されていた。天竜川上流の人びとは、川を下った里よりも、さらに北上した信濃の奥山と交流を持っていた。

 

 [続く]

 

 

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

the-cosmological-fort.hatenablog.com