NHK取材班に、昭和館の戸髙一成氏が提供した「海軍反省会」録音テープをもとに、戦争時の海軍首脳の実態を検討する本。
1980年代から録音された当時の海軍参謀・エリートたちの懇談会は、それまで語られなかった海軍組織の問題などを明らかにするものだった。
元海軍士官たちの反省会を通じて、現代にも通じる組織の欠陥……「責任者のリーダーシップ欠如」、「身内をかばう性質」、「組織の無責任体質」を考える。
同名のドキュメンタリー(全3回)をより掘り下げた内容になっている。
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1 資料発見
取材班が録音資料を集めた経緯について説明される。
海軍では陸軍以上に、兵学校での卒業年次と成績が重要だった。士官の絶対数が少なく、狭い舟に乗るため、人間関係が重視された。
テープに記録された座談会では、軍令部に所属する元参謀たちがテーマを決めて話し合っていたが、なぜ戦争を開始したのか、なぜ負けたのかということについてどこか他人事だった。
2 開戦 海軍あって国家なし
海軍軍令部第1部作戦課は、海軍の作戦計画を担当する中枢部署だったが、部員はわずか10人程度だった。作戦課に配属されるのは、士官学校をトップで卒業した優等生だけだった。かれらが開戦の真相を知っているはずだった。
反省会は東郷神社内の施設で、主に海兵50期代のOBらによって行われた。そのうちの佐薙元大佐(元空幕長)は、防衛庁戦史叢書に不満を抱いており、開戦経緯の真実を伝えたいと懇談の中で述べている。
統帥権の独立により、戦争計画や開戦の判断はただ天皇とそれを補佐する陸海軍にのみあり、内閣は埒外である。
当時の海軍首脳は次のような思考回路で開戦を決断していた。
- 陸軍は大陸で多くの死傷者を出しており撤退できない。
- もしアメリカの言いなりになれば陸軍の一部がクーデタをおこすだろう。
- 海軍は、規模の点から陸軍に対抗できないだろう。
- それなら開戦に反対して陸軍に鎮圧されるより、開戦したほうがいい。
(自存自衛やアジア開放が目的ではなかったのかときかれて)それだと非常に良いんですがね、そうじゃないから問題になってるんですよ。
軍縮時代には、政府に属する海軍省の方が、軍令部よりも力を持っていた。参加者らによれば、軍令部総長に伏見宮博恭王がつくと、規則改正で軍令部の権限を強めた。同時期に海軍省の良識派が次々と辞めたという。博恭王は対米戦を指向していたが宮様に逆らうものはいなかった。
伏見宮総長の下で次長についていた高橋三吉は、海軍省の井上成美に対し、兵力量決定権限を軍令部に移す相互協定を結ぼうと動いた。
昭和天皇は海軍が、陸軍と同じようにコントロール不能に陥る状態を懸念したが、決裁は行った。その後伏見宮は艦隊条約を脱した。
反省会では、海軍省と軍令部の上層部で構成される第一委員会についても議論している。
第一委員会は永野修身総長に対して対米開戦すべきの報告を挙げており、総長の意思決定に影響を与えたのではないかと考えられている。
第一委員会は、アメリカが対日石油禁輸措置を行った場合に開戦すべしと主張していたが、いざ南部仏印進駐でアメリカが激怒すると狼狽した。
海軍としては、予算のために対米開戦をしたいとうたっていたが、実際には長持しないのを知っていたので、開戦直前まで、本当にやるのかどうかもめていた。
対米戦・対米危機を根拠に予算を獲得するのが業務になっていた。
海軍は国防という本来の任務から乖離し、組織を肥大化させることが自己目的となっていた。まさしく、海軍あって国家なし、である。
対米戦に備えるという名目で軍備を拡張してきたので、今さら「戦争できない」とは言えない、これが軍令部の本音だった。
シミュレーションでサイコロ結果を捏造する神重徳の様子がここで語られている。
開戦後も軍令部の定員は増やされず、少人数ですべての戦争指導をするはめになったが、当然手が回らなかった。真珠湾攻撃から半年後には海軍は不利な状況に陥った。
ミッドウェー海戦については、軍令部は反対したが、当時威光のあった連合艦隊の山本五十六に押し切られたという。ミッドウェーの虚偽発表に関しては軍令部も加担した。
反省会メンバーは「われわれは本当は反対だった」とナチ戦犯裁判のような言葉を皆繰り返している。
あなたの話を聞いていると、あなたはこの戦は負けるんだと。それで誰かにいっとったと。誰にあなたはいっとったんですか。
いや、具申ということは海軍ではみんなやらんようにしておるから、誰にも具申することないですよ。
そうでしょうね、三代さん。いい考えだったんでしょうけども、おそらくそうだったんでしょう。残念でしたね。
3 特攻
特攻隊の悲劇は有名だが、特攻作戦の立案者や責任者がだれかは非常にあいまいではっきりしない。
水交会講演において元軍令部第一部長の中沢佑(たすく)が、特攻は中央では指示していないと話した。このことを反省会メンバーが批判した。
実際には、最初の特攻作戦が始まる前に大海指に基づいて人間魚雷回天の運用が指示されており、これを(大海指の発簡者たる)軍令部が知らないはずがなかった。
※ 大海指は、天皇から海軍への命令である大海令に基づく海軍の指示(リンクは参考)
中沢やその下の課長だった源田実、特攻兵器開発を指導した黒島亀人らは自らの責任を否定するか沈黙を保った。
回天開発は現場の将校が発案したという逸話があるが、その前に黒島が開発の指示を出している。
海軍が本格的に特攻の効果や意義を分析した形跡は残っていない。海軍首脳は、特攻に対し崇拝か神頼みのような気分を抱いていたのではないか。
特攻による死者は5000人以上と推測されているが、いまだに正確な数は判明していない。
4 特攻その2
回天搭乗員の生き残りや、直掩として特攻隊員の爆死を見届けた人物への取材が紹介される。
軍令部は特攻を作戦の1つと認識していたが、敗戦後の東京裁判対策では、「特攻は現場の熱意に基づくもので中央の責任ではない」との想定問答集を作成している。
この作成者は反省会のメンバーの1人、三代元大佐である。
軍令部員の遺族への取材を通じて、責任回避やごまかしをしていた幹部たちも、自分がやましいことをしているという認識があったのだろうということが示唆されている。
5 裁判
東京裁判において海軍側の裁判対策を担当した豊田大佐の発言を中心に、海軍を含む戦争指導者たちの責任回避傾向を検討する。
東京裁判はニュルンベルク裁判と並び戦争指導者の罪を裁くという点で異質な戦争裁判だが、なぜ海軍がほぼ免責されたのかの研究は進んでこなかった。
豊田大佐は海軍省から命じられ東京裁判対策担当となった。その目的は、天皇と国家を保護すること、被害を最小限にすることだった。
海軍省の後継である第二復員省(二復)は、人事情報の提供などでGHQを補佐する立場だったが、陰で裁判対策を進めていた。
本書で問題になっている潜水艦事件とは、インド洋の潜水艦隊が商船を攻撃し乗組員を尋問し殺害した一連の事件を指す。これは、実際には軍令部の指示に基づいて行われたが、裁判では参謀らが偽証し潜水艦部隊の独断によるものとされた。
またスラバヤ事件では艦隊側が責任を回避し陸上部隊に属していた大佐のみが処刑となった。これも、上を助け下を切り捨てる二復の方針が反映された結果だという。
陸軍の人にいわせると、海軍というところは俘虜の取り扱い、思い切ったことをやるもんですなと言われてる。……いよいよ明日米軍が上陸するというので、これは、内部で反乱されては困るというので、俘虜を全部ですね、海岸に並べて、撃ち殺してしまったわけです。
えー、俘虜取り扱いに対する海軍側の感覚といいますか、あるいは、戦犯に対する証拠隠滅に対する、わたしもラバウルでも証拠隠滅を図ったんですけども、まあ、生き残りの人を全員殺害して証拠隠滅を図るといっても今のように2つとも生き残りの人が一人づつ出て、あの、証拠がばれてしまったという事件がありました。
反省会では、全員一致で天皇の戦争責任を否定している。
海軍の米内らは天皇免責のためにGHQに積極的に働きかけたが、GHQ側も、天皇を免責し統治を容易にするためには日本側が天皇無罪の弁を述べてくれれば助かると話していた。