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『KGB衝撃の秘密工作』スドプラトフ その2 ――NKVD暗殺の歴史

 

 

6 大祖国戦争

間もなくスドプラトフは特殊任務局長となり、代理にエイチンゴンが、課長にセレブリャンスキー、マクラルスキーがついた。

 

特殊任務局は、ゲリラ戦の組織化、ドイツ軍占領地における非合法工作員のネットワーク作り、敵を欺くためソヴィエト連邦内部における極秘作戦や、虚報、うわさを流布する情宣活動など、ドイツとその衛星国に対する情報活動を担当する中心的な機関になった。

 

スドプラトフは約150人の逮捕されていた情報将校をベリヤに釈放させ(ベリヤはかれらが本当に有罪かどうか一切確認しなかった)、工作活動に従事させた。

NKVDのゲリラや特殊部隊は独ソ戦で大きな貢献を果たし、クズネツォフ、メドヴェージェフ、プロクプク、ヴァオプシャゾフ、カラショフ、ミルコフスキーなどの英雄を生んだ。この時代を記述する歴史書は、後にスドプラトフが逮捕・収監されるとかれの名前の代わりに点々(・・・)が入るようになった

 

  • ドイツ侵攻直後、モスクワ陥落に備え、NKVDは占領下ネットワークを構築した。スドプラトフは、地下鉄駅でのスターリンの式典と、例年通りの軍事パレードが皆に勝利を確信させたと語る。
  • レッド・オーケストラはドイツ占領下で活動したスパイ網だが、かれらよりもイギリスに根を張ったスパイ網の方が活躍していた。イギリスが、ドイツ軍暗号エニグマを解読していたことをソ連は気がつかなかった。
  • カフカスへのドイツ侵攻が問題になった時、スドプラトフはグルジアチェチェンの土地勘を持つ地元民や登山家を採用した。戦闘では数人の重要なNKVD職員が戦死し、またスドプラトフも、自ら戦地で指揮し身を危険にさらしたとして叱責された。グルジア人、カバルダ・バルカルの民族は協力的だったが、チェチェン人は政府に従わなかった。
  • 修道院作戦は、もっとも成功した作戦である。亡命ロシア貴族の末裔、通称マックスは、ドイツ工作員に雇われた。かれは対独協力者を装い、ソ連の占領地から偽情報を流し続けた。マックス、本名デミヤノフの欺瞞情報によりソ連軍は多くの戦闘に勝利した。

 

※ 「ロシア・ビヨンド」はロシア国営メディアです

 

当時、ドイツ陸軍の情報機関に所属していたラインハルト・ゲーレンは、マックスの正体を見破れなかった。同じくドイツ情報機関の幹部シェレンベルクは、ドイツがマックスに騙されたと告白している。

 

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  • 密使作戦とは、ドイツ軍占領地におけるロシア正教会の情報網である。これをきっかけに、スターリンロシア正教会の地位を復活させた。
  • 独ソ戦開始後しばらくは、NKVDとGRU、SMERSH(ロシア軍防諜機関は協力し活動していた。やがて、NKVDのベリヤとSMERSHのアバクーモフとの間で権力争いが発生した。NKVDの優秀な職員イリインは、この闘争の犠牲になり逮捕された。かれは尋問でも虚偽の罪を自白せず、数年間牢獄で耐えた。戦後、無一文で放り出されると、鉄道の作業員として生活をはじめた。かれは1950年代に復職し、名誉回復された。イリインは1990年まで生きた。
  • 情報業務に不可欠だったのは無線通信技術である。無線通信技師は重宝され、複数のスパイ網を掛け持ちすることがあった。

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大祖国戦争祝勝会で、スターリンは、スドプラトフら若手にも暖かい声をかけた。スドプラトフは、心の底からスターリンを偉大な指導者であると考えた。

 

7 核のスパイ

ソ連は1940年頃から、アメリカにおける新兵器開発の動向を探っていた。スターリンは新兵器開発のための委員会をつくり、まだ若手の科学者クルチャトフに指揮を命じた。これは、アメリカが若いオッペンハイマーに原爆開発を主導させていることを意識したものだった。

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NKVDは科学者のネットワークを活用し、ロス・アラモス研究所の職員……オッペンハイマー、エンリコ・フェルミ、レオ・シラードらに接近した。またニールス・ボーアも核開発技術の普及に協力的だった。こうした科学者はドイツが原爆を開発することを懸念していた。

NKVDは多くのスパイ網を敷いたものの、情報入手の核は、科学者たちの自発的な協力にあった。ソ連は、親ユダヤ人政策などの話題を餌に、科学者を懐柔した。

確信犯的な科学者に対しては、NKVDは友人のように接した。

 

オッペンハイマー、ボーア、フェルミは反暴力の強い信念をいだいていたので、原子力の秘密を共有することによって力の均衡を生み出し、それによって核戦争を防ごうとしていた。それが戦後の新しい世界秩序をつくる重要な要素になるだろうと考えていた。

 

ボーアはいかなる意味でもわれわれの息のかかった人物ではなかったが、彼個人の意見として、核の秘密は世界中の科学者たちが共有しなければならないと考えていた。

 

ベルギー領コンゴチェコスロヴァキア、オーストラリア、マダガスカルなどのウラン鉱山に対する情報網も整備された。ロシア内にはよい鉱山がなかったので、ブルガリアのブコヴォ開発が進められた。

スターリンは自国の核開発を進める一方、米英の核兵器備蓄量も常に情報を探らせていた。アメリカは、中国共産党に対して核を使う準備がまだできていないようだった。1949年、ソ連は最初の核実験に成功した。

 

今思えば、ソ連にしろアメリカにしろ科学者チームはどこにも、政治志向の強い人物がいたと言えるかもしれない。ソ連ではクルチャトフ、アメリカではエドワード・テラーがそうだった。

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……核爆弾は、科学者に歴史上初めて政治家としての行動を要求する新しい科学の時代を開いたからである。

 

 

8 冷戦

1946年の、チャーチルによる「鉄のカーテン」演説の前から、冷戦は始まっていた。東欧解放作戦のときから、ヨーロッパ分割をめぐる東西の抗争は始まっていたというのである。

 

超大国間の秘密取引において、つねにイデオロギーが決定的意味を持つとは限らない。それはゲームのルールの1つでしかないのだ。

 

ヤルタ会談におけるアメリカの外交団メンバー、アルジャー・ヒスは有名なスパイだが、スドプラトフによれば自主的な協力者で、金は受け取っていなかったという。スパイは通常、お互いに存在を知らされず競合させないのがルールだが、アメリカに浸透していたグループはこれに反し内部分裂をおこしていた。

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政治に関する諜報情報は、その約80%が諜報員ではなく、秘密の連絡員から得るものである。通常、これらの連絡員は防諜機関がつきとめてしまうが、諜報員活動と証明するにはつねに困難がともなう。

 

情報源がとくに重要な場合には、その人間が共産主義に幻滅したことを装うため、党からの離脱を公表するよう命じられていた。

 

ソ連はドイツやフィンランドに賠償金を科し経済復興に使おうとしていたが、米英がマーシャル・プランを持ち出したため決裂した。マーシャル・プランは国際援助の枠組みであり、ソ連が敗戦国から工業製品を入手することを不可能にした。

 

新たに改変された国家保安省(MGB)長官イグナチェフの下で、スドプラトフは様々な工作に携わった。

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ポーランドブルガリアチェコスロバキアなど各国で、有象無象の圧力・テロにより政権を奪取する工作が行われた(チェコスロバキアのゴットベルト、ブルガリアのディミトロフ)。

 

1940年代のスドプラトフの活動は、アメリカやNATOの配備状況の監視だった。ルドルフ・アーベル(本名ウィリアム・フィッシャー)は、アメリカ合衆国における非合法工作ネットワーク用の通信網を確立する役目を担った。

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※ アベルを題材にした映画が「ブリッジ・オブ・スパイ

 

 

 

 

ウクライナバルト三国民族主義者は戦後も武装闘争を続けた。かれらは各民族の教会や西側諸国から支援を受けていた。

スドプラトフは、ウクライナ民族主義者を鎮圧した後、ウクライナは高度の自治を獲得したと弁明している。また、ここでもフルシチョフは、失態を繰り返す間抜けなウクライナ担当者として扱われている。

ソ連クルド人指導者の持つ部隊を訓練し、イラク、イラン、トルコにゆさぶりをかけ、西側の影響力を動揺させようとしていた。

 

振り返ってみても、超大国クルド問題を本当に解決しようなどと考えていなかったことは明らかだ。……クルジスタンの油田獲得が、東西双方のクルド族蔑視政策の決定的動機だったと思われる。……クルド族はもてあそばれたのだ。

 

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9 ラオウル・ヴァレンベリ、ラボXなどの特殊任務

フィンランドの政治家にはソ連の工作がいきわたっており、かれらはソ連に協力するかわりにフィンランドの独立を保障されていた。

史料によれば、首都や政治の中枢にソ連の情報員やスパイが大量に常駐している状態が冷戦を通じて継続していたという。

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NKVD監獄の内部に毒物研究所があり、所長マイロノフスキーを中心に処刑や暗殺のための毒物開発が行われた。毒物は保安機関の職員には必須だが、その運用は、命令者、実行者のモラルに依存するところが大きい。

 

歴史が物語るように、最高機密の決定であれ、極秘の犯罪、テロ計画であれ、永遠に隠すことはできない。これは、ソ連および共産党支配の崩壊がもたらした偉大な教訓の1つである。ひとたびダムが決壊すれば、極秘情報流出の洪水は止められないのだ。

 

10 ユダヤ

第二次大戦末期、アメリカの支援を得るためユダヤ人をクリミア共和国に住まわせるという計画が存在した。

ロシア革命勃発時、党の役職者にはユダヤ人が名を連ねていた。かれらには管理職にふさわしい教育があったからである。1923年以後、ユダヤ人は民族組織を失った。

1928年に設立されたユダヤ自治州は、辺境に人を住まわせて中国人や白系ロシア人の侵攻を食い止める目的を持っていた。

 

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スターリンはクリミア共和国のアイデアを気に入らず、代わりにイスラエルユダヤ人ゲリラを支援し、米英に対抗しソ連の影響力を強めようとした。

晩年のユダヤ医師団事件シオニスト陰謀事件は、「官僚機構のなかに地位を占めているすべての権力の中枢を一掃して、国家の最高権力を掌握している自分を脅かしそうにない小物に置き換えるためのものだった」。

スターリンはあらゆる民族主義者を見下しており、ユダヤ人は自らの権力強化の道具に使われたに過ぎなかった。英米イスラエル支持を見て、アラブ世界がソ連になびくことを予測した。

クリミア共和国案を唱えていたユダヤ人指導者ミホエルスは毒針で殺害された。

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ユダヤ医師団事件による粛清が始まると、スドプラトフの子供たちも学校で反ユダヤ的噂を聞くようになった。しかし、子供を教え諭せば党機関の目に留まり、まとめて逮捕される恐れがあった。事件はスターリンの死とともに終わったが、ベリヤはユダヤ人であることを隠していたとして逮捕された(これは通説と異なる)。

 

反ユダヤ主義は、でっちあげの事件が終わった後も社会に残り、多くのユダヤ人が西側やイスラエルに逃げ出した。

 

11 スターリン統治最後の日々

スターリンは戦争が終わるとジューコフ元帥やノヴィコフ元帥、クズネツォフ海軍大将を降格させ、無能なブルガーニンを国防大臣に任じた。

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このようなやり方はすべて、権力をわが手に握っておくための煙幕であった。弱い部下たちの間に、権威を小分けに分散させておくのである。

 

スターリンは自分の部下たちを派閥に分けて争わせた。かれらがあらゆる社会領域を政争に使ったため、例えば科学者たちも学問に政治論争を持ち込んだ(ルイセンコ)。

 

 

 

スターリンの死の直前には、マレンコフ、フルシチョフがベリヤを陥れようとし、またイグナチェフ、リューミンらが権力のために疑惑をでっち上げた。ユダヤ人の陰謀や医師団、ミングレル族(ベリヤの出身部族)のスパイ疑惑などは全て、スターリンが側近を入れ替えるために画策されたものだった。

 

スターリンの葬式では交通整理や統制の不手際が目立ち、数百人の弔問者が圧死した。

 

スターリンが死に、ベリヤがMVD長官となると、帰宅時間はそれまでの午前2、3時から夕方6時に変わった。

 

12 ベリヤの失脚と私の逮捕

ベリヤが失脚し逮捕されると、かれの部下だった者たちが次々と逮捕された。スドプラトフもフルシチョフやマレンコフらから事情聴取を受け、ベリヤの犯罪行為に加担していたことにされた。

スドプラトフの長年の同僚だったエイチンゴンも逮捕された。同時に捕まった者の中には名誉を守るため自殺したものもいた。

かれは尋問を乗り切るため、徐々に食事を減らし衰弱状態に持ち込む作戦をとった。革命前の活動家ペトロシアンはドイツ警察に捕まった後、栄養失調・精神病を装い病院から脱走した。

 

ペトロシアンは若手のチェーカー要員らに、語っていた。いちばん大事なのは、昏睡から覚醒させて正気を取り戻させるために施される脊椎穿刺の痛みに耐えるときだ。このテストさえ乗り越えれば、どんな精神科の医師団も、取調や裁判の尋問を受けられる状態ではないと証明するだろう。

 

スドプラトフは精神病院兼刑務所に収容された。

 

 

13 裁判

かれは15年の懲役を宣告された。スドプラトフとエイチンゴンの処遇はフルシチョフが決めていた。2人は、フルシチョフに考えを改めてもらうために名誉回復活動を続けた。また、KGBに対し、ケネディ大統領が設立したグリーン・ベレーに対抗して特殊部隊を創設すべきである、と進言し、受け入れられた。

こうしてスペツナズが誕生した。

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1970年代には、スドプラトフに対する処遇が変わった。かれは他の元非合法工作員とともに、自宅に集まっては酒を飲んだ。

 

いくらスターリン時代とは違う世の中だとはいえ、私が驚かされたのは、現役のKGB大佐連中がここに立ち寄って酒を飲み、ブレジネフ指導体制やKGBの規則、不正などを公然と非難して、罪も受けないでいたことであった。

 

ブレジネフ、チェルネンコ、アンドロポフ、ゴルバチョフと党のトップが変わっていったが、スドプラトフらは粘り強く名誉回復運動を続けた。

非公式にではあるものの党やKGBはかれらの無実を確信しているようであり、1980年代には政府機関において何度も講演を行った。

しかし、ゴルバチョフヤコブレフらはスドプラトフの名誉回復に反対した。これには、当時のフルシチョフ評価が影響していた。

 

……なぜなら、現指導部にとって、自分たちの改革モデルに据えているフルシチョフの自由化政策を貶めるような真実を新聞等に公表することなどできぬ相談だったからである。……フルシチョフスターリンの共犯者として、また自らの政敵殺害の組織者として弾劾することなど、彼らにはできなかった。

 

したがって、私の事件が白日の下にさらされれば、フルシチョフ以下党指導部全員がベリヤとその腹心をスケープゴートしたことが暴露されることになる。

 

スドプラトフは、スターリンやベリヤ、モロトフ、ペルヴーヒンは、殺戮者であったと同時にソ連超大国にした人物だと考える。

一方、フルシチョフ、ブルガーニン、マレンコフらは、ただ権力闘争に明け暮れソ連を弱体化させたに過ぎないとする。

 

ソヴィエト連邦に私は全身全霊を捧げた。……そのソヴィエト連邦――誇り高き帝国――が消え去ったときになって初めて私は復権され、名前もその正当な場所に復帰することができた。

 

どうか忘れないでいただきたい。この私も政治的抑圧の犠牲者だということを。