うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Ivan's War』Merridale, Catherine その3 ――第二次世界大戦のソ連兵の体験談

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 1944年6月22日、バグラチオン作戦が開始された。この作戦はほぼ同時期に西側で始まっていたオーバーロード作戦(ノルマンディ上陸)と同等以上の規模だった。

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 1943年の秋以降、赤軍の士気は低下していた。かれらの精神や肉体は蝕まれ、大規模戦闘はなくひたすら待機と小移動を繰り返す日が続いた。

 戦場でのストレスから多数の兵士がPTSDや精神疾患に苦しんだが、赤軍の医療体制は、緘黙やけいれん、遁走状態といった作業に直接影響するものを除いて、精神疾患を認識していなかった。

 

 懲罰大隊出身者や囚人が通常部隊に混ざるにつれて、兵士たちの文化は変質していった。リンチ殺人、けんか、放火、酒のトラブルが頻発した。

 ある将校は「この飲酒癖がなければ我々は2年前にドイツを倒していただろう」と書いた。

 

 将校や秘密警察自身が加担する大規模窃盗・横領や賄賂ネットワークが流行し、公式の報告だけでも、1割の兵士が犯罪に関わっていた。

 

 バグラチオン作戦はベラルーシの首都ミンスク近郊から開始される予定であり、この意図は徹底的に秘匿された。

 攻撃開始は、防御戦に飽きていた兵士たちを興奮させた。ドイツ軍は総動員体制を敷いていたが質は低下し、兵士たちは事務員か銀行員、自営業の中年男性にしか見えなかった。

 

・資本主義国の領土に入ると、その豊かさに赤軍兵たちは激怒した。ルーマニアでさえ、大半のロシア農村よりも生活レベルが高かった。

 

ソ連共産主義ナショナリズム、人種差別について:

 ソ連は表向き国際主義をうたっていたが、実態はまた別である。ウクライナベラルーシ出身の兵は「西方人Westerners」として信用されなかった。

 

 ポーランドにってソ連は、かつてドイツと同盟を組んで国を占領した敵だった。スターリンポーランドをまったく信頼せず、1944年のワルシャワ蜂起も見殺しにした。

 

 党は、ソ連の最大多数であるロシア人が、ファシストによる最大の犠牲者であると訴えかけなければならなかった。

 このためユダヤ人虐殺は当初隠蔽された。このときソ連側だったウクライナバルト三国も、ホロコーストの推進に加担していた。

 赤軍がマイダネクやアウシュヴィッツを発見したとき、ソ連報道は、これがユダヤ人の虐殺であることを隠した。スターリンは、共産主義ユダヤ人とのつながりを打ち消そうとしていたからである。

 

 赤軍やNKVDは、兵隊たちの間に根深く残る反セム主義を取り締まろうとしていた。しかし、ユダヤ人は前線から逃げていると陰口を言われ、後年にはスターリン自身がユダヤ人医師団事件で大規模な迫害を行った。

 

・著者のインタビューに回答する退役軍人は、ユダヤ系を多く含んでいた。かれらは現代の民族主義的なロシアに義理立てする必要がないから、戦争の実態をよく話してくれたのだろう、と著者は推測している。

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 ハンガリープロイセンといった敵領土に侵入するにつれて、ソ連兵の暴力……殺人や強姦、略奪は増大していった。しかし公式文書には一切こうした事実は書かれなかった。

 スターリンは「報復せよ」との声明を出し、戦場での犯罪を黙認した。

 

 レイプ:

 指揮官たちは兵を統制し、全員がドイツ人女性を強姦できるよう配慮した。赤軍兵のほとんどはこの時期泥酔しながら行動していた。

 兵の性犯罪について、スターリン・党の黙認に責任があるのか、現場の個人にも責任があるのかは議論が続く。

 赤軍のレイプはシステマティックに行われた。その主目的は性的欲求ではなかったという。

 ドイツ軍と異なり、赤軍の前線には女性や慰安婦はほとんどおらず、そもそもソ連社会自体が性欲をブルジョワ(と党エリート)のものとして抑圧していた。

 

 軍は完全な男社会だったため、兵たちの間に反女性的な価値観が広まっていった。故郷の妻や家族が兵士を裏切るので、兵たちは女性一般に対して憎悪を抱くようになった。

 

 掠奪:

 豊かな資本主義国に入ると、兵たちは掠奪を始めた。軍は、階級に応じて兵たちが故郷に荷物を配送できるとする規則を定めた。戦利品や箱の山は最重要任務として貨物列車に載せられた。

 前線のすぐ背後では、兵士だけでなくNKVD職員も、略奪、現地女性のレイプや結婚、酒盛り等に明け暮れていた。

 ある報告はNKVD職員らが町の広場で「検閲されていない」歌を歌っていたと述べる。

 

 ベルリンの戦いは4月16日に始まった。ベルリン陥落の直前から、すでに飲んだくれる兵士(NKVDやSMERSH含む)がおり、かれらはドイツの降伏を目にすることなく死んだ。ドイツが降伏しても戦争は終わらず、一部の部隊は早くも列車に乗り込み極東に向かっていた。

 

 

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 戦争の膨大な犠牲は、将校たちの間に、生活改善の夢と希望を湧きあがらせた。将校たちはまたファシスト国家の収容所や秘密警察を目にしており、今度は自国を省みることになった。かれらは強制収容所や恣意的逮捕の廃止、集団農場の廃止等を訴えた。しかし一連の、より幸福な生活への希望は1つも実現されなかった。スターリンの統治は変わらず、戦勝の喜びもソ連式パレード行事によって塗りつぶされた。兵士たちの多くは平時の複雑な社会についていけず苦しんだ。

 

 兵の大半は中東欧で労働力として使われ、一部は対日参戦に向かった。

 

 ドイツでは、ソ連兵の規律が低下し犯罪が増えるにつれて、ドイツ人とソ連人との関係も悪化していった。このため軍は兵に対し民家への侵入や街への出歩きを禁じた。

 

 敵の殺害に熟達していたソ連兵は、道の掃除や運搬といった平時の作業に耐えられなかった。

 

 ソ連兵捕虜の選別のため、スターリンは100以上の収容所を建設した。捕虜たちは祖国の裏切り者、脱走者、臆病者として尋問された。500万人を超えるソ連兵が本国へ送還されうち100万人程度が処刑や懲役刑となった。

 

 捕虜やウラソフ義勇兵だけでなく、兵たちも資本主義の影響……金、女、貨幣、自由の影響を受け始めていた。スターリンはドイツ駐屯兵をより扱いやすい若者と入れ替えた。

 兵たちは戦争に勝つことにかけては優秀だったが、党はかれらに官僚的な魂を要求した。

 

 復員する兵には緘口令が敷かれた。またこの頃、ジューコフら功績のあった軍人が数多くスターリンによって失脚させられていった。

 スターリンは緒戦の失敗を隠蔽するため、戦争に関する報道や発言を封殺した。

 

 傷痍軍人たちはまともな保障を受けられず多くは流浪の身で死んだ。

 プロパガンダが描くような温かい理想の社会は存在しなかった。

 

 不運なことにソ連人民は嫌々ながらもスターリニズムの勃興を許容し、またこれを守るために苦闘し、いままた僭主が居座ることを認めてしまった。祖国は征服されなかったが、自らの奴隷となった。

 

 

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 戦争の記憶は公の歴史によって隠され、また政治や宣伝によって歪められていく。

 兵たちはソヴィエトに使役されたが、戦後体制の変化や改善に貢献することはできなかった。かれらは都合の良い存在として党の幹部たちに利用された。

 イデオロギーは、ほとんど読み書きのできない兵士たちにとっては敵に打ち勝つスローガンに過ぎなかった。

 

 著者がクルスクにおいて退役軍人たちにインタビューしたとき、かれらのほとんどは、プロパガンダに見られるような、検閲された体験談だけを話した。そこには戦闘や屍体はあったが、血は通っていなかった。

 これは兵士たちが自己防衛のために話を伏せていたのではない。

 兵士たちは悲惨や苦痛を乗り越えるめ、物事に対して鈍感になる必要があった。それがかれらの生き方であり、戦争が終わってもこうした無感覚に対する誇りは残った。

 

 

 戦争は退役軍人たちにほとんど何ももたらさなかった。夢見がちで、苦労を知らぬ保守派が好む、戦争が国民をより強く、より前向きにするのだという思い込みは、スターリングラードの現実を前にして2分ともたないだろう。