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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Ivan's War』Merridale, Catherine その1 ――第二次世界大戦のソ連兵の体験談

 ◆メモ

 当時、兵たちが作成した手紙や(違法とされていた)日記、秘密警察の報告文書、また元軍人からの聴き取りを頼りに、第二次世界大戦における赤軍の内部を明らかにする。

 

 ドイツを撃破した兵隊たちは一枚岩ではなく、そこには迫害される少数民族ユダヤ人が存在した。

 戦況が上向くにつれて、戦争犯罪や賄賂、掠奪も盛んになり、「前線者(Frontviki)」たちの素行は悪くなっていった。

 

 ソ連当局は戦争の実態を隠蔽したため、公文書はかれらの悲惨さや内部の戦争犯罪については何も語っていない。戦場の現実を明らかにしてくれるのは兵士たちの証言だけだが、かれらにとっても、あまりに惨めな現実を覚えておくことは苦痛だった。

 兵士たちの多くは、悲惨な現実、仲間を見殺しにした経験、人格を疑われるような犯罪行為の記憶から逃れるため、類型的な英雄譚や戦争譚だけを話すようになった。

 

 

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 独ソ戦における赤軍兵たちの体験は、史上最大規模の動員と犠牲――赤軍の死者数(800万~1300万)は、米英独参加国を合わせた数よりも大きい――を伴ったにも関わらず、これまで表立って語られてこなかった。

 これは戦争を英雄譚として取り扱うソ連の方針が影響しており、生々しい体験や記録は公開を許されなかった。ソ連崩壊後、教師を務めていた著者は、学校の子供たちとともに退役軍人たちから直接体験談を聞く機会を得た。

 

 ソ連兵は、ナチスや冷戦時代のアメリカが分析したような「アジア的・モンゴル的野蛮人」ではない。

 ロシア人、ウクライナ人その他草原、農村から多数の民族が集められ、年齢は青年から第1次大戦経験者まで多様であり、1つの民族性でくくれるものではない。

 

 史上最も野心的な独裁体制によって統治されていたにも関わらず、兵隊たちはそれぞれ個別の性質を持っている。

ソ連兵の士気の源泉は何か

・戦後、彼らは後遺症に苦しんだ

 

 

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 1

 スターリン体制は、来るべきファシズムとの戦いに向けて備えていたが、それは到底ドイツ軍を抑えられるものではなかった。

 

 1938年のプロパガンダ戦争映画「If There is a War Tomorrow」を例に、対独戦に対する楽観的な見方が映画界だけでなく軍事戦略にも浸透していたことを示す。防御を重視する軍人は排除され、敵地に乗り込む攻撃作戦だけが採用された。

 ソ連は設立以来、戦争(第1次大戦、内戦)と飢餓、貧困に苦しみ続けてきた。1929年から始まった五か年計画では1000万人の農民が餓死し、その後も貧困は続いた。

 しかし、内戦後に生まれた若者にとって、ソ連はかれらが唯一知っている理想の社会だった。貧しい農村で生まれた多くの若者が、軍隊に入り教育を受け出世した。若者は労働力として重宝され、また出世の道もあったため、かれらにはソ連を守る動機があった。

 

 第一次世界大戦に従軍し、後に赤軍のトップとなった者(ジューコフ、コーネフ、ティモシェンコら)も、多くは農村出身だった。

 

 革命後に育った世代は共産主義の理想を信じ、また革命の本質は戦争であることを教え込まれた。軍はかれらの憧れであり、30年代後半には航空機と落下傘降下が隆盛を極めた。

 

 内戦後に生まれた若者は、大粛清の直接的な被害者ではなかった。古参党員の多くが粛清され、密告やNKVDによる拉致、拷問、処刑が常態化したが、これは人民の統合のために必要なものと考えられていた。

 

 「われわれは偉業をなしとげる準備はしていたが、敵軍には備えていなかった」

 

 

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 2

 1939年10月に始まったフィンランドとの冬戦争は、ソ連軍が12万人以上の死者を出す実質的な大失敗に終わった。

 戦争を通じて、これまで秘密に包まれていた赤軍の欠陥があらわになった。

 

 フィンランド軍はモロトフカクテルやスキー部隊でソ連兵を翻弄した。

 赤軍内部の士気や練度は、それまで全く明らかになっていなかった。特に徴集兵の士気は非常に低かった。

 

・特にドイツは赤軍を過小評価するようになった。冬戦争で生き残ったソ連兵は、独ソ戦初期にほとんど消滅した。

・徴集兵の大半を占める農民は、帝国時代と同様、召集を災いと考えていた。村から地方の軍事務所に出頭する時点に既に泥酔していたが、軍もそのほうが取り扱いやすかった。

・最良の若者はNKVD(内務人民委員部、ソ連の秘密警察)にとられ、通常軍には、スターリンの名前を知らない者、字の読めない者が採用された。

・平時の兵隊は集団農場の手伝いが主であり、皆不平たらたらだった。

・下着、足布(靴下の代用品)は共有品だった。将校だけがけん銃と腕時計を支給された。兵隊が実際の武器を目にするのは演習時だけだった。

・軍隊の規模拡大に伴う住宅不足と食糧事情……兵たちは屋根のない地面に寝た。密集したためチフスが流行した。ねずみ入りのスープ、生きた虫入りの食事、腐った肉、黒い泥水でつくったコーヒー等。

・軍は30年代を通して、食糧調達のため自ら農場を経営した。

・備品の盗難、闇市の隆盛。

・政治教育は連隊、大隊レベルではコミッサール(政治委員)が、中隊以下ではPolitrukと呼ばれる政治将校が担った。政治将校らは宣伝者、従軍牧師、スパイの役割を兼ねた。政治教育を統括したのはレフ・メフリスの指揮するPURKKA(Political Administration)という組織だった。

・政治将校は、教育や宣伝を適時行っていたが、肉体労働をせず銃もあまり使わないため兵たちは偽善を感じていた。また、服務事案の責任者であるため憎まれていた。

 戦争が始まってから、共産主義の理解度と戦場での信頼性はあまり関係がないことに気がついた。

 

・戦争勃発前の時点で、若手将校の自殺率は驚異な数字を示していた。かれらは目の前のみじめな現実(環境、物資不足、訓練不足)を体制のせいにすることができなかった。

・新たに徴兵されたベラルーシポーランド地方の若者はロシア語が読めず、敬虔なクリスチャンで、共産主義を信じていなかった。

トハチェフスキーの粛清により、かれの縦深防御戦略は捨てられた。

独ソ不可侵条約は、政治将校だけでなく兵隊たち皆を唖然とさせた。

・冬戦争においてソ連兵はフィンランド兵の機関銃の的になった。兵たちは銃撃されたときに伏せることを知らず、一部の将校は迷彩を臆病者の道具と考えていた。

・一方、督戦業務を担当したNKVDは自動小銃を持っていた(逃亡兵や臆病者を撃つため)。

 

 このときの赤軍は後の精鋭とは程遠い存在だった。

 

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 3

 1941年6月22日のドイツ軍侵攻について、スターリンが多数の警告や情報を黙殺していたことはよく知られている。

 前線では、西方特別区司令官パヴロフら担当指揮官たちが後に処刑された。しかしスターリンは当初反撃を禁じていた。

 

 ドイツ侵攻とともにソ連国民の大多数は対独戦に志願した。

 

・非ロシア人(ドイツ系、衛生諸国、グルジア等)の中にはモスクワの危機を自民族・自国の好機と考えるものもいたと秘密警察は記録している。

・都市部では志願者が殺到したが軍は処理しきれず、通りや駅に大量の若者が寝泊まりし、ほとんどは酔っぱらっていた。招集命令を受けても、移動手段は確保されていないため、どうにかして出頭しなければ脱走扱いになった。

・7月3日に行われたスターリンの演説は絶大な効果を及ぼした。人びとは自分たちの頼るべき指導者を見出した(非ロシア系民族、農村部は除く)。演説では前線の実態は示されなかったが、大量の戦死、捕虜、逃亡が発生していた。

・装備・物資不足……前線への輸送手段なし、ライフルが行きわたらず、19世紀のライフルで銃剣突撃、ヘルメットで塹壕を掘る、4分の3の旧式戦車が使用不能かつ部品枯渇、貧弱な通信、平文で無線を使う技師たち。

 

・「西洋人」…ウクライナ人、ベラルーシ人、バルト三国出身者の脱走が相次いだため、かれらは戦車乗組員になることを許可されなかった。

 

ウクライナでは、住民が商店を略奪し、NKVDが人家を略奪していた。ドイツ軍はその無法状態に驚いた。

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 [つづく]

 

 

 

イワンの戦争:赤軍兵士の記録1939-45

イワンの戦争:赤軍兵士の記録1939-45