うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『岸信介』原彬久 ――岸についてのまとまった説明

 岸の功罪について考える。

 

・戦前は国家統制、国家主義を推進し、関東軍とともに満洲国経営を主導した。また太平洋戦争時、指導者の1人だった。

・一方的な駐軍協定だった安保条約を、保護的内容に改定しようと試みた。

・その過程で強行採決等を行ったため、強権政治の印象が強まった。

 

 安保法改定について……

 国の主権維持のためには軍事力は必要であると考える。

 

 しかし、軍事力がコントロールを失い破局に見舞われた歴史が、日本人に対して軍事力への強い忌避を植え付けた。

 岸の提唱する日米の双務性強化は、日本の軍事力強化を意味したため、東條内閣の一員であった岸の軍備増強策に国民の多くは反感を抱いた。

 被占領体制からの脱却のために軍事力を強化した先の進路も1つではない。日米の双務性を高めるのが良かったのか、あるいはより中立主義的な方向にいくのが良かったのか。

 表面上の双務性は確保されたものの、今現在も日本の隷属的な地位は変化していない。

 

 戦争責任について……

 後に決裂したとはいえ、後の東條内閣の閣僚として戦争指導に加担したことは否定できない。

 満洲国経営は、侵略と傀儡国家経営への加担である。

 

 憲法改正について……

 自衛隊憲法の矛盾した関係が、憲法の拡大解釈や憲法無視を許すようになってしまったと考える。また、司法の独立性が担保されておらず、違憲判断は政治に従属する。こうした点から私は憲法改正を否定しないが、その方向性はおそらく岸の目指すものとは全く異なる。

 本書によれば岸は国家社会主義、統制主義的な傾向があったというから、目指す国家像もおそらくそのようなものだろう。

 

 まとめとしては……

・冷戦のために米軍から不起訴処分を受けたとはいえ、岸の戦争責任は間違いなく存在する

・国家の主権を取り戻すために防衛力を強化した一方、米国に対する従属性を払しょくすることはできなかった。

・岸の目指す国家観は統制主義的・国家主義的であり、戦前の社会や満洲国を範とするものである。

・政治資金集めに関して非常に巧妙だったというが、金や汚職をめぐる政治家の悪習に対する反省や懸念等は、全く感じられない。やって当然のことという態度が評伝の端々から感じられる。

 

 

  ***

 1 生い立ち

 岸信介は1898年に生まれた。曾祖父の信寛は吉田松陰伊藤博文とも交流があり、維新にも関わった地方の名士だった。

 佐藤家は教育熱心であり、岸は岡山中学、山口中学でほぼ全期間首席を維持した。

 岸は吉田松陰の思想――「君臣一体」の皇国思想から強い影響を受けた。

 

 ――岸における立志の野心は、佐藤一族が放つ教育への熱気と、一族に伝わる長州の維新的、革新的思潮によって確実に発酵されていくのである。

 

 

 2 国家社会主義

 岸が東京帝大にいたのは第1次大戦後であり、米騒動、国民経済の悪化、ストライキ社会主義国家主義などの勃興など、大きな社会変動の最中だった。

 岸は国粋主義者上杉慎吉の影響を受け木曜会に加入した。

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 思想的影響:

 北一輝の国内改造・対外膨張国家主義

 大川周明の大アジア主義

 また、大川・北を通して、間接的にマルクス主義の影響も受けているという。岸は統制・計画経済や社会保障に取り組むことになるが、この点には社会主義との親和性がみられる。

 

 

 3 官僚時代

 東京帝大卒業後、岸は農商務省に就職した。

 

 ――岸は、農商務省入省から満州国を去るまでの19年間というもの、一貫して日本の国権拡大と軍国体制強化に力を注ぐと同時に、みずからをその渦中に埋没させていったのである。

 

 ドイツを研修し、経済産業を学んでからは、国家主導の統制経済こそが日本のとるべき選択肢だと考えるようになった。これは産業合理化運動として浜口内閣で採用された。

 一方アメリカに対しては、日本は到底国力の点でかなわないということを痛感し、対米戦争は不可能であると感じた。岸のアメリカに対する対抗意識はこの時代に芽生えたという。

 ソ連に対しては、五カ年計画から直接的なヒントを得た。

 岸は権力志向だが、浜口内閣の官僚減俸運動には反対した。

 

 ――つまり岸の反権力は、それがみずからの権力培養に応用されてしまうという意味では、自身の権力主義と何ら矛盾しないのである。

 

 岸とその上司吉野信次は臨時産業合理局において国家統制の強化、コスト低下にまい進した。

 2回目の訪独後に書かれた国家統制論は軍部に肯定的に迎えられ、以後岸と軍部の蜜月が続くことになった。

 昭和11年に商工省を辞職し満洲にわたるまでに、岸は重要産業統制法の制定、各工業のカルテル化、あらゆる産業への国家統制を推し進めた。それは軍部の統制論とも共鳴するものだった。

 

 

 4 満洲

 満洲国における勤務を通して岸は人脈を広げ、政治家になるための基盤を確立した。

 満洲において実権を握っていた「2き3すけ」……星野直樹東條英機岸信介鮎川義介松岡洋右のうち、東條と星野以外は親類である。

 岸は親戚である鮎川に働きかけ、日産を満洲国に移転させることに成功した。また、産業界に対する国家統制を提唱し、関東軍や当時参謀総長だった東條からの信頼を得た。

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 岸は関東軍との癒着を進めるとともに、推定では、アヘン貿易で手に入れた資金を利用し勢力を拡大した。

 

 岸の濾過器論について。

 

 ――……いかにして資金を得るかが問題なのだ。当選して政治家になった後も同様である。政治資金は濾過器を通ったものでなければならない。つまりきれいな金ということだ。濾過をよくしてあれば、問題が起こっても、それは濾過のところでとまって、政治家その人には及ばぬのだ。そのようなことを心がけておらねばならん。

 

 

 5 終戦まで

 昭和14年、阿部内閣のとき商工次官に任命され、国家統制強化に取り組んだ。

 東條内閣では商工大臣を務めたが、やがて東條と対立するようになった。真珠湾攻撃にいたるまでに、日米交渉は続けられていたが、帝国国策遂行要領は、交渉がうまくいかない場合は武力行使を行うと決めていたため、戦争を避けることができず自縄自縛に陥った。

 岸は、米国の力を知っていたため、日米開戦には反対だったという。

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 6 戦犯

 GHQに対しては、東條と対立した経緯を強調することで訴追を免れようと試みた。

 岸の獄中日記……訴追か釈放かの間で、シャバへの執着に揺れる心情を吐露している。

 

 ――……今次戦争における日本側の「正当防衛」を主張し、みずからに理あるところを立証したいというのが岸の立場であった。したがって、岸が太平洋戦争を反省することなどありえない。もし反省があるとすれば、それはただ一点、「敗戦」そのものにたいする反省である。

 

 岸は東京裁判を勝者の報復であるとみなし、対日占領政策そのものに反感を抱いていた。

 しかし、その後岸が首相として日米関係を主導していったことを考えると、この人物の行動原理は、「反米」のように単純なものではない。

 冷戦の勃興は、岸自身の復活のチャンスであるとともに、「統制と秩序」の国家日本が再起するチャンスでもあった。

 

 やがて岸の思考は、日本が反共の障壁として米軍の下で義勇兵を派遣すべき、という方向に展開していった。

 

 A級戦犯起訴・不起訴の最大の分岐点は、開戦前の日米交渉に関連して大本営政府連絡会議、昭和16年の御前会議に出席したかどうかだった。

 岸は御前会議に出席していたが、GS(民政局)とG2(治安・情報担当)との抗争を通じて、反共のために利用できるとしてウィロビーらに注目されるようになった。

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 7 55年体制の結集

 岸は昭和23年12月に釈放された。

 

 昭和27年4月28日 対日講和条約発動

 再建連盟……保守と社会党右派の結集、日米連携、反共を掲げるが失敗

 昭和28年、自由党から出馬し当選

 

 保守本流保守傍流……鳩山一郎吉田茂日本自由党の流れを汲む保守本流と、進歩党と国民協同党らの一部からなる、芦田派を代表とする保守傍流

 

 29年から30年にかけて、保守合同が進められ、自由民主党が結成される。

 自由党内で岸は「反吉田」運動を石橋湛山芦田均らとともに主導し、鳩山派を支援した。鳩山、岸らは昭和29年、日本民主党を結成した。

 鳩山、岸らは吉田政権の「被占領政治」からの脱却を志向していた。

 

 ――「ワンマン」と称された吉田の権威主義に対して、鳩山はつとめて「庶民宰相」を演出し、一種の鳩山ブームを巻き起こした。その政策も、吉田の「対米追従外交」には「対中ソ国交回復」をもって、吉田の「改憲慎重」論には、「憲法改正」論をもって対抗するといった具合である。すなわち「独立の完成」の具体化であった。

 

 その後、反共の砦、米の同盟国となるための保守合同の必要性を訴えた岸らにより、昭和30年、自由民主党が誕生する(55年体制)。

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 8 権力の頂点

 石橋内閣の外相となった岸は、首相急死後臨時首相代理となった。かれが据えた目標は日米安保体制の合理化だった。

 重光・ダレス会談において、アレン・ダレスは日本の防衛力増強と海外派兵制限解除が重要であると言った。岸ら保守政治家はこの会談から大きな影響を受けていた。

 岸の交渉相手であるマッカーサー駐日大使も、アイゼンハワー大統領に対し、「現在の日米体制のまま反米感情を増大させることは、日本の中立主義への移行につながる」として改善策を提案した。

 

 ――つまり岸は、単なる「駐軍協定」としての旧条約を双務的な防衛条約に改めることによって、吉田が果たそうとして果たせなかった「対等の協力者」としての日本を今度こそアメリカに認めさせなければならないこと、しかもそのためには、この東南アジア訪問によって「アジアの盟主」としての日本をアメリカ側に了解させなければならないと考えたのである。

 

 日本の在日米軍防衛、米軍の日本防衛を双務とした協定案が締結されるかに思われたが、反動的な「警職法改正」に対する反対運動をきっかけに岸の自民党内の基盤は弱体化し、日米協定そのものも延期となった。

 安保改定日米交渉は昭和35年1月に終結した。

 しかし、国会での承認をめぐって野党、党内反岸派、デモ団体による反対運動が起きた。岸は6月のアイゼンハワー大統領訪日に合わせた承認を目指していたが、デモの激化、樺美智子の圧死等治安問題から、アイク訪日を見送り、同時に自らも退陣を表明した。

 条約自体は、6月に自然承認となった。

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  ***

 エピローグ

 独立と対等を目指した岸の日米安保改定の評価……

・第三国の在日基地権を削除

・米軍による内乱鎮圧権(内乱条項)削除

アメリカは日本本土を防衛し、日本は在日米軍基地を防衛

アメリカは極東平和のために在日米軍を使用可能、日本は事前協議が可能

 

 岸は日米の双務防衛を目指していたため、新安保の不完全さを理解していた。

 退陣後も岸は政界に影響力を持ち、また憲法改正への執念を持ち続けた。

 岸は、田中角栄を評してカネ集めに不用心であると言ったが、彼自身はより巧妙に資金洗浄を行い、FX選定などで何度も疑惑を取りざたされながら一度も訴追されなかった。

 

岸信介―権勢の政治家 (岩波新書 新赤版 (368))

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  • 作者:原 彬久
  • 発売日: 1995/01/20
  • メディア: 新書
 

 

 ◆参考

 

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