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『キメラ―満州国の肖像』山室信一 その1 ――国民の存在しない国

 ――満州国は今後も世界史の中に残り続けるだろう。日本人が、この歴史をなかったことにすることは不可能である。

 

 キメラ:満州国は、日本の傀儡国家であると同時に、一部の人びとにとっては理想の地でもあった。本書はこの両面について検討する。

 文体は仰々しいが、論旨は明確でわかりやすい。

 

 満州国が同床異夢の地であったという説はLouis Youngの著作『Japan's Total Empire』にも書かれている。当時、軍人や政治家、産業界だけでなく、ユートピアや理想を求めた左翼運動家たちも満洲に向かい、結果的に帝国主義に加担した。

 

Japan's Total Empire: Manchuria and the Culture of Wartime Imperialism (Twentieth Century Japan: the Emergence of a World Power)

Japan's Total Empire: Manchuria and the Culture of Wartime Imperialism (Twentieth Century Japan: the Emergence of a World Power)

 

 

 

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 満州国は特に中国、台湾から偽満州国として強い非難の的となっている。満州国は日本の傀儡国家に過ぎなかった。

 日本の統治に反対するものは匪賊として征伐された。また、統治の過程で多数の中国人が殺害・逮捕・拘束されたため、「満州国を傀儡国家というよりも、アウシュビッツ国家、収容所国家とでも概念付けたい慄然たる衝動に駆られるのもまた自然な心の動きといえるであろう」。

 一方、満州は欧米帝国主義を排しアジアに理想国家を建設する試みでもあった。林房雄岸信介らは満州国の意義を肯定している。

 

 ーー当時、満州国は東亜のホープであった。

 

 満州国の二面性を認識する必要がある。

 

 ――また、結果責任こそが問題となる政治の世界においては、その行為がいかに至純な情熱に発していたにせよ、それによって負うべき責を免れられるわけではない。自己の理想が、相手にとっては耐え難い偽善であり、圧迫とみなされることもあるであろう。いかに自らにとって利欲や名誉を離れた理想の追求であっても、それが行われたときと場所によっては、侵略や抑圧とみなされることも当然あるに違いない。

 

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 1 満蒙領有論

 満州は日本、中国の利益が交錯する土地となっていた。日清戦争日露戦争を経て、日本は満州における特殊権益を手に入れた。日本にとって、満州開発は、「明治大帝の御偉業」を受け継ぐことにほかならなかった。

 一方、中国は毎年百万人規模の移民を満州に送りこんでいた。中国にとって、満州の主権を奪った二十一か条の要求は不正な取り決めであり、満州=東北三州、東三省は自分たちの領土だった。

 

 田中義一内閣は東方会議において、国難打破のために満州の領有やむなしと考えた。1928年、張作霖爆殺事件により、満州権益強化が試みられたが、かえって排日・反日運動は激化した。

 

 石原莞爾は、満蒙領有論に基づき満州事変を引き起こした。

 

 満洲領有論の論理は以下のとおりである:

 

・総力戦のために満州を領有し、自給自足体制を確立する。

 国際協調を重んじる一方、腐敗し機能していない政党政治を排除する思想も、陸軍において固まりつつあった(桜会の三月事件など)。石原は、まず外地において自給自足圏を確立したのち、内政を改革するべきだと主張した。

・朝鮮と中ソとの間に緩衝地帯を作り、赤化を防止する

 当時、朝鮮人独立運動満州に逃れることが多かった。このため、満州の治安は悪化した。また、満州で生活する農家や作業者が朝鮮人であることが多かったため、朝鮮人もまた、中国人の憎悪の対象となった。

・対ソ戦略の拠点

・日米最終戦争のための準備

 石原は戦争史研究と日蓮信仰に基づいた奇妙な思想を有していた。当時アメリカは中国統一を支援し、満州における日本の進出を規制しようと画策していた。

 石原は、満蒙領有が最終的にアメリカの利害と衝突し、最終戦争につながるだろうと予言していた。

・満蒙領有正当化の根拠

 石原は、中国人に自ら統治をおこなうことは不可能だと考えた。日本の治安維持、統治が、中国のために最適である、中国人にとって幸福であると考えた。また、満州満州族の土地であり、中国人より日本人により近いので、日本による統治が理想であるとも考えた。

 

 かれは論文で、中国人は日本による統治を感謝するだろう、と主張している。

 

 ところが満州事変が引き起こされると、満州国領有論は日本軍・政府双方によって否定された。この時点で、満州領有の正当性を主張することが、日本中枢にさえ困難だったことが読み取れる。

 

 ――……結局、石原ら関東軍参謀たちが用意した正当化論理だけをもってしては諸外国どころか、同じく満蒙問題武力解決路線をとっていて立場的に最も近かったはずの陸軍中央さえ説得できなかったということを意味する。ましてや、排日・反日運動の燃え盛る中国やワシントン体制をリードするアメリカなどに対してはまったく無力であったろう。いかに論理として正当性を緻密に組み立ててみても、軍事占領が国際的に受け入れられる情勢にはなかったのである。

 

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 2 満州国建設と国家理念

 満蒙領有論は陸軍中央から否定され、独立国樹立に後退した。さらに、反日感情の高まりのため、東北軍閥の懐柔はうまく進まなかった。

 軍は、満州国を既成事実化することで国民政府との交渉を避けようとした。また、満州から目をそらすために上海事変を起こさせた。


・保境安民主義とは、東三省を中国本部から隔絶して、ここに独立国家による王道政治を敷こうとするものである。東北モンロー主義とも呼ばれた。

・不養兵主義は、兵を持たず、日本に警備を委任するという思想である。軍閥のはびこる中国では、孫文をはじめ、軍を持たないという思想は特別のものではなかった。手に余る軍を放棄する代わりに他国に警備を委任するという構図は戦後日本がとったものと同様である。

 

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 満州青年連盟は大連新聞社を中心に組織された。

 連盟は、日本人を含む諸民族は、満州における張学良政権による圧政の被害者であり、このため、排日政権つまり張学良を排除し、民族協和国家の建設により友愛発展させるべきであると主張した。

 連盟は満州事変を支持した。

 その他民間団体:興亜主義と仏教思想(極楽土の建設)の混合

 満州国自治指導部の笠木らによる理想は、一方では押しつけ、自律性を奪うものとしてとらえられた。

 橘樸(たちばな・しらき)は、1906年ごろから中国で雑誌・新聞を刊行し、魯迅などとも親しく交流した。かれは、中国人のナショナリズムを認め、日本人は中国人を対等の相手として扱うべきであると主張していた。

 しかし、石原莞爾満州国に賛同し、自治指導部に協力、王道政治思想の基盤を確立した。

 著者は、橘には満州統治の実情が知らされていなかったのか、単純に事実誤認していたのかもしれない、と書く。

 

 [つづく]

 

キメラ―満洲国の肖像 (中公新書)

キメラ―満洲国の肖像 (中公新書)