7
板垣との面会、溥儀が満洲国執政を受け入れる経緯について。
――……かれは鞄のなかから『満蒙人民宣言書』と五色の『満洲国国旗』をとりだして、私の前の小卓の上に置いた。私は怒りで胸もはりさけそうになっていた。ぶるぶる震える手でそれらの品物をおしのけてたずねた。
――「それはいったいどういう国ですか。それが大清帝国だとでもいうのですか」
溥儀は、満州国という国名、執政という称号、議会の存在に我慢がならなかった。
――匪賊出身の張作霖とわたしのような「常人とは異なった」「竜種(皇帝)」とをならべることはできない、とわたしはもともと思っていたが、日本人が心のなかでは、わたしを「竜種」とは見ていないことに、そのとき気がついて、板垣の青白い顔に注目せざるをえなかった。
この口論の翌日、板垣は溥儀に通告した。
――「軍部の要求はもはや変更できません。もし受け入れられなければ、敵対的態度をとるものとみなして、こちらも敵にたいする手段でむくいるしかありません。これは軍部として最後的な線です」
***
6章 「満洲国」14年
1
溥儀が執政になることが決まり、板垣征四郎の主催で宴会がおこなわれた。
溥儀は横にいた芸者に「商売の方ですか?」と下手な中国語で話しかけられた。
かれは執政をやる気になっていたが、やがて自分のおこなう公務がほとんどなく、執政の職権も実際には与えられていないことを発見した。
2
満洲国国務会議において、日本人の俸給が満洲人より高いことに不平を述べたときの、総務長官駒井徳三の言葉。
――……日本人は能力が高いのだから、当然俸給も高くなければならない。それに日本人は生活水準が高く、生来米を食べている。……「親善をいうなら、日本人に少し俸給をよけいにとってくださいということこそが親善です」。
――「きみは満洲の歴史を知っとるのか。満州は日本人が血と引き換えにとったものだ。ロシア人の手から奪い返したものなんだ。きみはそれがわかっとるのか」
3
溥儀の臣下は日本人と相談し、日満の密約をきめてしまっていた。それは満洲国の主権のほぼすべてを日本軍が掌握するものだった。
関東軍司令官本庄繁が更迭され、武藤信義が就任した。あわせて、密約は「日満議定書」として明文化された。
4
リットン調査団の来訪と報告書について。
溥儀は教えられたとおりの答弁を行い、満州国の正統性を調査団に述べた。
報告書は日本に対し大変宥和的だったにも関わらず、日本側がこれに満足しなかった。
溥儀は、玉座に再びのぼるためには「日本人にさからわないこと」が重要だと再確認した。
5
関東軍司令官が菱刈隆に交代した後、溥儀は満洲国皇帝となった。念願の竜パオを着用し即位式を行った。かれは各種行事……巡幸や五臨幸といった皇帝行事によってよい気分になった。
日本訪問の歓迎ぶりに感動し、溥儀は日本の天皇と満州国皇帝は平等だと思うようになった。
この時の司令官南次郎は、日本に不平を述べた鄭孝胥を排除・監禁した。
6
1937年の盧溝橋事件に先駆けて、日本軍は徐々に南下していき占領地域を増やしていった。蒋介石は協定を通じて日本軍に譲歩し、正面衝突を避けていた。
日本の統治に不満を持っていた皇族の1人は、日本軍によって反乱の容疑で捕らえられ、家族ともども斬首された。一方、日本に阿諛追従していた張景恵は総理にとりたてられた。
日本の士官学校に留学していた弟の溥傑は、関東軍の要請により、日本人の女(嵯峨浩)と結婚することになった。同時に、皇位継承に関する法律が改正され、溥儀に子と孫がいない場合は弟の子が継承すると書き換えられた。溥儀はこれを、日本による帝室乗っ取り計画だと考えた。
溥儀が私費を投じて養成していた200人程度の護衛軍は、関東軍の取り締まりを受け、虐待・拷問された後、国外追放された。
7
関東軍参謀・帝室御用掛の吉岡安直は終戦でソ連の捕虜になるまで溥儀に付きまとい、逐一関東軍からの指示を伝達した。
かれはあまり上手ではないが中国語をしゃべり、英語も話したため、溥儀と会話することができた。
安岡の態度は日本軍の戦況が悪化するにつれて変化(悪化)していき、最後には「関東軍はあなた(溥儀)の父だ」というようになった。
8
――「仏というものは、外国から伝わってきたものです。ふん、外交の宗教ですわ。日満の精神が一体なのだったら、信仰は同じであるべきですな、ああ?」
張鼓峰事件・ノモンハン事件の失敗で更迭された植田謙吉に代わり、梅津美治郎が関東軍司令官となった。
かれは溥儀に対し、日本皇族の祖先「天照大神」を迎えて国教とすべきと指示した。
――……噂によると、比較的中国人の心理を理解している日本人、たとえば本庄繁などが、この行為は東北人民のあいだに強い反対を引き起こし、日本をいっそう孤立させる可能性があると考えたので、沙汰やみになったのだということだった。
裕仁天皇が、天照大神への信仰を表明した溥儀に対し、三種の神器を説明してくれた。
――私は心のなかで思った。北京の瑠璃廠へ行けばこんなものはいくらでもあると聞いている。……これが神聖不可侵の大神なのだろうか。……帰りの車のなかで、私は泣けてくるのを押さえられなかった。
――いわゆる八紘一宇という意味は、すべてが日本という祖先に源を持っているということなのだった。
1944年には戦況は悪化しており、吉岡安直も自分のあわてぶりを隠さなくなっていた。溥儀は、私物の衣類・貴金属や宮殿内の家具・装飾品などを供出させられた。
9
虐待、暴力、精神不安定、注射と薬への依存
溥儀は引き取った戦争孤児を連れてきて奴隷として働かせた。かれらは体罰、ストレスと栄養失調のため18歳になっても10歳程度の背丈しかなかった。
迷信の実践で家臣たちは混乱していた。
エンヨウは溥儀から黙殺された。
――わたしが知っているのは、彼女がのちに吸毒(アヘン吸飲)の習慣に染まったこと、許しえない行為があったこと、だけである。
吉岡は、スパイ目的からか、さかんに日本人の側室を推薦した。溥儀は、これを拒否したが、妥協策として、日本軍が訓練した中国人女学生を受け入れた。
10
1945年8月、関東軍司令官山田乙三と幕僚秦彦三郎の報告により溥儀らは通化へ遷都した。
溥儀は小型飛行機で日本に逃げようとし、そのとき貴人(側室)を置き去りにした。
――私の心は麻のように乱れ、どうしたら死を免れることができるかと、繰り返し繰り返し考えていた。汽車がどうだのこうだのということにどうしてかまっていられよう。
***
7章 ソ連にて
1
ソ連のチタで拘留されている間、溥儀は中国から脱出し亡命することを考えていた。
2
ハバロフスク収容所での快適な生活。
――私の一族の者が、他人にサービスをするなどということがどうして許されよう。
マルクス主義教育はちんぷんかんぷんで、いびきをかく者もいた。収容所で、溥儀は野菜を育てる楽しさに目覚めつつあった。
――夕食後は自由時間だった……廊下の一方の端では数組が麻雀をし、もう1つの窓際では、空に向かって合掌し、大声で「南無阿弥陀仏、観世音菩薩」と唱えているものがいる。2階の日本人戦犯のところからは、「ウーウーウー」と日本の謡曲が聞こえてくる。
3
東京裁判に出廷したときには、自分を棚に上げて日本軍国主義者の東北侵略を非難した。しかし、法廷で米国人弁護士に責任逃れを厳しく追及された。
***
8章 不安から罪の承認へ
・1950年、溥儀は新中国に引き渡された。
・溥儀は自分で衣服をたたむことやしわを伸ばすことができず、かつては家臣であった満洲の軍人たちから怪訝な目で見られた。
・共産党に対し改心と誠意を示すため、溥儀や旧満州国家臣たちは競って忠誠を表明する……朝鮮戦争志願や、溥儀自身の宝物の献上行為。
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9章 改造の受諾
・共産党の寛大な取り扱いにより、溥儀は自分の罪を反省し改心することの重要性を確認した。
・日本軍の虐殺行為で親族を失った所長や、農民たちの寛大な対応を受けて、溥儀は感動した。
・朝鮮戦争における中国・北朝鮮の勝利は、溥儀や中国人たちを勇気づけた。
・1959年、溥儀は特赦を受け北京に戻ってきた。かれは共産党の恩情によって刑罰を受けることなく、思想改造により自身の罪を認識した。