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『わが半生』溥儀 その1――宮殿の異常な人びとと、そこにたかる人びと


 宣統帝愛新覚羅溥儀が1964年に北京で出版した自伝で、直後香港で話題になり世界で増刷された。

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 ◆所見

 溥儀は西太后の指令によって光緒帝の養子となり、皇帝となった。溥儀の家系は西太后らが展開する醜悪な権力闘争を生き延びた。

 共産党に提出した反省文の形式をとるため、溥儀が、日本軍にそそのかされ利用されていく様子を自ら語る様子は非常に自虐的で、滑稽味がある。

 自身を進んでピエロとして演出しているようでもある。

 共産党による思想改造後、中国国内で出版されたため、当然、当局に対する批判はない。

 新しい中国社会は、清朝や日本侵略時代と比較され、理想郷として描かれている。

 

 溥儀の自伝以外にも、様々な関係者の記録が残されており、正確な事実は推測するしかない。

 中国や日本の王族・貴族階級独特の世界観や平民とのギャップを知ることができる。

流転の王妃の昭和史 (中公文庫)

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  ***

 1章 私の家系

 1

 溥儀は1906年載ホウ(第2代醇親王ジュンシンノウ)の子として生まれた。祖父の初代醇親王奕ケン(イフワン)は西太后と同世代だった。

 咸豊帝(かんぽうてい)の妃、西太后(「慈禧太后」(ツーシー))は息子同治帝、養子光緒帝の時代に権力を振るい、やがて溥儀を光緒帝の養子とし1909年に皇帝として即位させた。

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 西太后は息子同治帝の妃をいじめ殺し、光緒帝のお気に入りの珍姫を井戸に投げて殺した。

 また癇癪持ちであり、将棋をしていた部下を撲殺するなどした。また自分の顔の筋肉がひきつるのを気にし、気まぐれに従者を鞭打ちにした。

 

 西太后は1890年から頤和園の建造に乗り出し、艦隊更新は後回しにされた。この不出来な北洋艦隊は4年後の日清戦争で壊滅した。

 祖父の醇親王は、西太后につぶされないよう息を潜めて生き延びた。

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 2

 溥儀の外祖父(母方の祖父)栄緑は西太后に取り入って出世した満洲人だった。当時、太后と光緒帝の仲は険悪であり、お互いが党派を寄せ集めて抗争していた。

 戊戌政変(1898年)では、栄緑とその部下袁世凱の働きによって光緒帝はクーデタ疑惑をかけられ幽閉された。

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 ――慈禧太后は政権を握ったその日から外国人にたいしてははれものにさわるように用心深かった。外国人が中国の人民を殺そうが、中国の財宝を奪おうが、彼女にとってはたいした問題ではなかった。しかし外国人が康有為を保護したり、光緒帝の廃立や皇太子を立てることに反対したり、彼女の支配に直接反対したりすることはがまんのならないことであった。

 

 義和団の乱

 西太后は当初、義和団討伐を主張する部下の首を刎ねた。そして義和団を支援し外国人排斥を煽ったが、連合軍が北京まで迫ると、今度は義和団鎮圧を主張し、これまで西太后をサポートしていた支援派の首を刎ねた。

 

 西太后は、外国人が光緒帝側を正統な君主とみなしている気配を察し、溥儀の父(すなわち光緒帝の弟)と栄緑の娘とを結婚させることにした。

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 3

 袁世凱のクーデタ疑惑に対応して、西太后は溥儀を皇帝に、溥儀の父を摂政王に指定した。間もなく光緒帝が急死し、西太后も死んだ。

 

 

 4

 溥儀の父は、優柔不断で気の弱い人物として描かれる。皇帝溥儀に対して敬語を使った。

 かれは袁世凱を排除しようとしたができず、武昌蜂起(辛亥革命)の際には袁世凱とその腹心段祺瑞および馮国璋(ふうこくしょう)に軍権を奪われた。

 

 

 5

 親王家の母と祖母について。

 

 

  ***

 1章 私の幼年時代

 1

 溥儀が即位したとき、外では革命が、内では袁世凱が、清朝の滅亡を予感させていた。

 

 ――わたしはわけがわからぬままに三年間皇帝をつとめ、またわけがわからぬままに退位した。

 

 革命軍を鎮圧するはずだった袁世凱は、革命軍・外国政府と連絡をとり、清朝皇帝の退位・共和制の樹立を迫った。

 溥儀は退位したが、紫禁城での生活は保障された。

 

 

 2

 

 ――わたしは、1924年、国民軍によって追い出されるまで、ずっとこの小天地に住み、この世でもっともばかげた少年時代を送った。ばかげたというのは、中華民国と称し、人類が20世紀にはいっているのに、わたしは依然としてまったく昔のままの帝王生活を送り、19世紀から残されたほこりを吸っていたからである。

 

 溥儀には常に数十人の従者が絶えず付き従った。

 皇帝にはトイレがなく、従者が大小の便器を持ってついて回る。また大量に廃棄される食事、一度も着ない衣服のために数百人の役人が働いていた。

 全盛期には内務府の役人は1200人を超えた。

 

 

 ――機構の大きいこと、使用人の多いことは、まだ一般の人も想像できようが、役目のくだらなさかげんは、あまり人に知られていない。

 

 

 絵や書を補佐するだけの部門など。

 

 

 3

 母親や兄弟たちとの交流

 

 

 4

 複数の家庭教師がついたが、教わったのは中国の古典だけであり、算数、科学、中国の地理歴史さえほとんど何も教わらなかった。

 満州語は先生が死ぬと中止になり、溥儀は1単語しか覚えなかった。

 英国人ジョンストンは、溥儀に対しては「民国、革命すべて害悪」とコメントしている。

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 皇帝退位を進言した裏切り者が死ぬと、溥儀はこの人物に不名誉な諱(醜、謬など)を送ろうとし周囲から褒められた。

 

 

 5

 太監(宦官)は清朝の全盛期には10万人以上いたが、溥儀の時代には数百人にまで減っていた。下級の宦官は低い給料しか与えられず、罰や労働で苦しんだ。

 

 溥儀は皇帝として育てられたため他人の気持ちを理解することができなくなっていた。

 

 太監が自分の命令に従うのがおもしろくて、地面の汚物を食わせたり、消火水をかけたりした。

 唯一、乳母だけが溥儀を諭した。この乳母は貧しい農村から宮殿に連れてこられ、実の娘が死んだときも、母乳の質が落ちるということで訃報を知らされなかった。

 

 

  ***

 3章 紫禁城内外

 1

 民国4年になると、袁世凱清朝大政奉還するのではないか、といううわさが紫禁城で発生し、家臣たちはうかれた。やがて、袁世凱自身が中華帝国皇帝に即位したためこの盛り上がりは消滅した。

 しかし、袁世凱も国民からの強い反発を受け2か月後に死亡した。

 

 

 2

 1917年の張勲復辟:

 袁世凱の跡を継いだ黎元洪(れいげんこう)と国務総理段祺瑞との抗争が起こる中、張勲は勤王軍を集め溥儀に対し皇帝復位を要望した。溥儀や腹心の陳 宝チンはこれを受けるが、張勲が段祺瑞軍に討伐されオランダ公使館に逃げ込んだため13日間で復位はなくなった。

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 3

 北洋軍閥が馮国璋(直隷派)と段祺瑞(安徽派)とに分裂したときも、紫禁城の役人や皇族たちはだれかが復辟してくれないかと期待していた。

 第4代民国大総統徐世昌も清朝をかつぐのではと期待されたが、北洋軍閥の分裂で足場を失うと見放された。

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 4

・直隷系(曹コン)と奉天系(張作霖)とが合作し、安徽派を破った

・その後、奉直戦争が起こり、張作霖は敗れて北京を脱出した

・直隷系呉佩孚(ごはいふ)の台頭と没落、馮玉祥の台頭

 

 

 5

 英国人教師ジョンストンは、清朝が徐世昌を通じて招いた人物だった。

 溥儀はジョンストンに心酔するようになり、英国文化、西洋文化を重んじるようになった。

 [つづく]