本書は、アメリカ(情報関係部署)が蓄積した文書資料をもとに、政治プロデューサーとしての児玉誉士夫を検討するものである。
同盟諸国に対するアメリカの政治工作について細かく書かれている。
著者はメディアや米占領期に関する研究者で、政治的立場は私とは異なる部分もある。
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1
福島県本宮市で生まれた児玉は、父が政治活動で没落すると極貧の状態で朝鮮に里子に出され、その後東京の鉄工所で働いた。この時の苦労をきっかけに、富裕層に反感を持つようになり、また労働者や農民を尊重しないソ連を憎むようになった。
その後、右翼団体に加わり鉄砲玉として働いた。満州に渡った後、五・一五事件直後のクーデタ未遂で逮捕され、37年に出所すると右翼の大物的な地位になっていた。
外務省情報部長河相達夫は児玉を満蒙・北中国に派遣し、対ソ作戦のための偵察を行わせた。この時代から児玉は情報工作員としても活動を始めた。
・香港での汪兆銘護衛隊結成
・昭和通商(武器・アヘン販売兼情報収集のために陸軍が設立した会社)の業務
・東亜新秩序を唱える石原と、信奉者である辻政信との連絡役
・反米右翼への参加、政治テロの支援
2
陸軍の皇道派が一掃されると、児玉も石原に近い人物として排除された。その後、海軍航空本部の下で、戦略物資調達のため中国に渡り物資の買い付けを行った。この児玉機関は物々交換により物資を手に入れた。また、併せて情報を収集し、タングステンやモリブデン鉱山の開発経営も行った。
物資調達に際して児玉機関が暴力を行使したとのうわさがあったが、実証はされていない。
軍やその特務機関は、三井・三菱といった商社を介して資金を集めなければならなかった。
――日本軍が中国各地で略奪や麻薬の売買や強制労働などに手を染めなければならなかった理由はここにあった。
3
戦後、児玉は経済学者の都留重人の情報提供によってGHQに逮捕され、A級戦犯指定を受けた。GHQは、児玉が国粋主義勢力や政治家を援助するのではないかと危惧していた。
児玉は自らが政治活動に参加するのではなく、政治家に資金提供することでかれらを培養し政治をプロデュースするようになった。
巣鴨プリズンにおいて児玉は、自分が軍務局長武藤章の許可を受けて、昭和通商の社員としてヘロイン売買に関わっていたことを証言した。武藤は39年の時点で対米戦のための物資調達に関与していたとして訴追されることになった。一方、児玉や、汪兆銘工作を担当していた影佐貞昭が重用していた里見甫は訴追を免れている。アヘン売買は中国国民党もやっていたからだった。
この時児玉が蓄えていた資産についてははっきりわかっていない。
4
48年、児玉の釈放と前後するように、国民党で働いていた辻政信、岡村寧次なども帰国している。かれらは中国国民党とGHQの監督の下、台湾義勇軍を中国本土に送り込む要員に選定されたようである。
児玉は占領期、中国国民党やG-2のために働いたがその目的は日本とアジアの共産化阻止だった。
台湾義勇軍の支援と同時に、本省人の台湾独立運動(外省人=国民党と敵対)にも加担していた。
児玉は辻に対し、米空軍OSIに協力するようリクルート活動をしており、また朝鮮戦争時にも日本人義勇軍を派遣しようと働きかけていた。また台湾義勇軍のための密輸事件にも多数関与した。
――……(児玉の活動は)冷戦の枠組みのなかで行われた反共産主義工作であり、児玉はそのような工作においてきわめて有用なエージェントでありコマだったのだ。
5
当時占領下の日本で活動していたG-2と、対立するCIAについて。
児玉は、対日協議会(ジャパン・ロビー)の反共・民主化工作の協力者として、タングステン取引などを行った。
著者はこの時期の対日協力者に対して好意的である。
――児玉のほかに、正力松太郎や岸信介などもCIAと関係したが、彼らはCIAを最大限に利用しようとはしたが、走狗となることはなかった。彼らほどの器量を持った人物ならば当然のことだ。
6
保全経済会は、児玉と三浦義一の監督のもとに資金を集め、その金は再軍備・反共を掲げる鳩山一郎派(三木武吉や河野一郎)に流れた。鳩山らの目的は吉田茂打倒だった。
55年の保守合同に際しては、CIAと児玉がともに政治家に資金援助を行い、かれらの目的……再軍備・反共を達成しようとした。
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自民党初代総裁鳩山一郎が引退すると、党内は乱戦状態となった。
――もっとも困難なのは総裁を決めることで、多数の派閥を味方につけて自派閥から総裁を出すためには、政治的妥協はもとより多額の現金をばらまかねばならなかった。そのあとも、党内をまとめ、法案を通すために多額の現金が使われた。金権政治が加速した。
児玉は岸を尊敬していたが、岸は児玉の金を借りなくとも闇の力と資金源を持っていた。
戦闘機選定に際して児玉は、グラマン社に対抗しロッキード社の秘密顧問となり反グラマン運動を展開した。このとき岸はグラマン社=CIAから資金を受け取っていたとされる。
――……アメリカから見て、CIA秘密資金は、アメリカの航空機メーカーの日本の政治家への巨額の賄賂とは性格が違う。単に自民党政権を維持するためというより、岸政権を長期化させ、安保改定を行わせ、アジアにおける核戦略の拠点を確保し続けるための「必要経費」だったのだ。
8
その後の安保改定では、児玉は岸を支援した。児玉はタニマチではなく政治プロデューサーであり、自身の政治理念に合致するのであれば支援対象者を乗り換えた。
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61年にクーデタを成功させ軍事政権を樹立した朴正熙は、元満州国軍将校ということもあり日本にアプローチした。このとき、腹心のKCIA長官金が接触したのが、日本政界につながりをもつ児玉だった。児玉は、インドネシア賠償関連でも利権を手にしていたために、日韓国交回復に乗り出す意欲があった。
その後、児玉は自身が培養していた大野伴睦、河野一郎を失い、どのように生き延びていくかを考えなければならなくなった。
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69年からロッキード社の売り込み工作を始めた児玉は、田中角栄とともにロッキード事件で明るみに出された。
――しかし……アメリカの航空機メーカーが絡むこの種の事件は、日本側の政治家個人の欲望もさることながら、日米関係に淵源がある。日本の政治家や黒幕は、CIAや国務省の秘密工作の対象となり、アメリカが外交目的を達成するためのコマにされた面もある。
航空機産業は、アメリカの軍需産業の最も大きな部分を占めるものであり、ロッキードやGEが経営危機になるということはアメリカの国力を弱めることにつながった。
このため、ニクソン大統領の指示のもと、航空機の売り込みが始められた。アメリカが航空機を輸入させればそれだけ(日本による)国産化は減速するだろう。
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ロッキード事件の細部について。
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76年、ロッキード働きかけに応じた日本政府高官の名前が米議会で証言されると、当時自民党幹事長を務めていた中曽根はアメリカ大使館に政府高官リストのもみ消しを依頼した。
そのリストには自分も含まれているからだったが、このため中曽根はアメリカに対し弱みを握られた。
三木首相は賄賂について追及をはじめたが、国務省が外務大臣の宮澤喜一を通じて、「CIAの活動については触れるな」と要望したため、三木も納得した。
――三木とアメリカ側の暗黙の了解は、ロッキード事件自体のもみ消しをアメリカ側に対して働きかけていた中曾根の思惑とも結びついた。いうまでもなく、児玉が当時もっとも強い影響力を持っていたのは中曾根に対してだった。そのことは政界や財界で知らないものはほとんどいない。
――アメリカ政府は、ロッキード事件が日本で騒がれても、できるだけP3Cに日本国民の目が向かないように、そしてこれ以上CIAと児玉のことがマスコミに注目されることがないよう願っていた。
その後アメリカ側はP3Cの100機導入を成功させ、児玉や中曽根の考える「自主防衛」構想は後退した。
米軍は撤退せず、日本はアメリカの太平洋戦略の一部に組み込まれた。
児玉も脳梗塞で生活に支障をきたす中、有罪を宣告された。
結論では、児玉も含めて日本はアメリカの戦略にからめとられたとしている。
おわり