うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『スカルノとスハルト』白石隆

 インドネシア初代大統領スカルノと2代大統領スハルトの伝記。

 著者によれば、スカルノは貴族の子であり、ロマン主義者である。一方、スハルトは小役人の子であり、現実主義者である。

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 スカルノはオランダ東インド統治下、ジャワ島スラバヤで生まれた。オランダ語とオランダの大学で教育を受け、やがて政治活動を始めた。かれは演説と集会によって大衆を動員し、ナショナリズムイスラーム共産主義の運動を国民党として統合した。かれはインドネシア人としての国民意識、国民精神を目覚めさせようと奮闘した。

 しかし、総督デ・ユンゲによって弾圧され、流刑された。

 2

 1942年に日本軍がインドネシアを占領し、オランダ統治関係者は追い出された。スカルノは派遣軍司令官今村均と会談し、政治協力が始まった。

 日本軍占領はいくつかの影響を及ぼした。

・白人の権威が失墜した。次に東インド経済が崩壊した。

・中央集権国家であったオランダ領が解体され、スマトラ、ジャワ、東インドネシアの3領域に分権化が進んだ。

・インフレにより行政機構が腐敗し、汚職と賄賂が蔓延した。

 スカルノは対日協力の窓口として機能し、様々な組織化による大衆動員を行った。また、インドネシア義勇軍が設立され、日本軍の支援を行ったが、のちに国民軍となる。

 独立直後、各地で無秩序な革命が発生した。権力中枢はスカルノの大統領府、スディルマン大将指揮下の国軍、内閣だったが、いずれも統率力に欠けていた。

 1949年、オランダとの戦争の後、アメリカの仲介によりインドネシアは独立を達成する。その後、地方における反乱が続いたが、1958年スカルノとナスティオン陸軍参謀総長が協力し、敵対勢力やゲリラは制圧された。

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 1959年から始まったスカルノの指導民主主義体制とは、スカルノのカリスマ性により分裂が抑えられた体制である。スハルト権威主義との違いは、物理的な抹殺や弾圧を行わなかった点にある。

 ――……指導民主主義は、社会的には保守的、政治的・イデオロギー的には宙吊りの体制だった。

 1965年、インドネシア経済はインフレによって崩壊していたが、さらにスカルノが倒れた。同時に国軍においてクーデタが行われ、アフマッド・ヤニ陸軍司令官、ナスティオン参謀総長以下8名が殺害された。

 これは共産党と協力した一部の将校による行動だった。

 クーデタに対処するため、陸軍戦略予備軍司令官スハルトが直ちに陸軍を掌握し、決起部隊の鎮圧を指揮した。

 その後、スカルノの健康は回復したが、スハルトは引き続き共産党関係者の殺害を指揮し、45から50万人が殺害され、共産党勢力は消滅した。

 スハルトは1968年、大統領に選出された。

 4

 スハルトが村の下級役人の子から成り上がることができたのは、日本軍の占領をきっかけとする社会の混乱のためである。

 ――そこに見えてくるのは、なんとか政府に就職しよう、行員でなければ、下士官でも警察官でもよい、そしてプリアイ(貴族)になろう、そうもがいているジャワ人青年の姿である。

 軍に入隊後、軍隊生活が気に入り軍人として働き続ける。やがてジョクジャカルタの守備隊司令官としてスカルノと国軍の権謀術数を観察し、政治とは陰謀であることを学ぶ。

 戦略予備軍司令官として陸軍のナンバー2だったときに、共産党派の将校がクーデタをおこした。かれはこれを黙認した後、鎮圧に乗り出し、自らのクーデタを成功させた。

 5

 スハルトの統治は「安定」と「開発」を軸とする独裁主義である。これは途上国に共通の政治傾向だが、加えてインドネシアでは非公式の慣行により組織や構成員を養う家族主義が核となった。

 スカルノとは異なり、スハルトナショナリズムイスラーム共産主義、いずれのイデオロギーも許さなかった。

 定期異動人事によって国軍を掌握し、同時にアリ・ムルトポと華僑を中心とした私的な工作機関を活用することにより、治安維持を図った。

 アメリカ帰りの経済学者たち、通称「テクノクラット」の働きもあり、スハルト体制においては財政再建と経済発展が実現した。

 一方で、非公式の家族主義に基づく賄賂と汚職のシステムが完成した。

 家族主義のシステムは本質的に不公平であるため、民衆の不満を抑えるために政治的な弾圧と監視体制が敷かれた。

 6

 スハルト体制の崩壊への道は次のとおり。

 世代交代が進み、スハルトと同世代の者がほとんど死ぬか舞台を去った。スハルトは娘婿を国軍の中で抜擢しようとしたが、その不自然な人事が、新しい世代の将校たちの不満を買った。

 スハルト一族のファミリービジネスが加減を越えて巨大化したために、国民の経済発展と矛盾するようになった。これは、マクロ経済を学んだテクノクラットたちと、家族主義による経済システムとの対立が深まってくるのと同期している。

 スハルトによる暴力を知らない世代が、新秩序にうんざりし、スカルノの娘であるメガワティに希望を託し、政治活動を始めるようになった。

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 この本はスハルト体制が崩壊する前に出版されているため、顛末については書かれていない。

 テロにより国家を安定させ、開発に専念させるところまでは成功したが、やがてスハルト独裁が王朝化することにより、国民の利益と反するようになり、ポジションを追われたようである。