ドイツ国防軍がヒトラーをあなどり、やがて掌握されていく様子を時系列で詳しく書いた本。
著者であるイギリス人ウィーラー・ベネットは、20年代から30年代までドイツで政治研究を行っていた。
非常に生まれが良いため(ケント州のアッパーミドル出身)、当時のドイツ貴族階級や政治家たちと実際に交流する機会を得た。「長いナイフの夜」事件で難を逃れ脱出した。
解説によれば、著者自身にいくつかの偏見があるという。
・政治は君主と貴族のためのもので、時には大衆の要望に応じないといけない。
・国連で武装解除業務に関わった経験から、ドイツを不誠実で軍国主義的な存在とみなす。
・ドイツ軍(共和国軍)に対して矛盾した批判を行っている……かれらはワイマール共和国において政治介入した。一方、かれらは政治介入しヒトラーを排除しなかった。
しかし、解説者の指摘によれば、ドイツ軍は歴史上常に権力に従順であり、反乱を起こしたことがない。
◆所見
今現在のヒトラーとドイツ軍の対立に関する知識、暗殺計画についての細部のほとんどは、この本が主な出典になっているようだ。
Wikipediaの記載なども、本書から引き抜いたと思しき箇所が多い。
ドイツ軍のシステムや運用は非常に優れており、第1次大戦前夜や戦間期には各国が参考にしたという。
欠点は短期戦にしか対応できないことにあった。
しかし、最大の問題は服従の倫理に従うあまり、気の狂った最高指揮官に対し最後までまともに抵抗できなかったことである。
たとえ戦闘能力が高くとも、狂ったリーダーに何も言えずついていくばかりでは、結果的に国民を亡ぼすことになる。
同時に、軍隊が逐次政治的判断を行い、自分たちの判断で指導者に抵抗すれば、国は不安定になるだろう。
本書を読んでいくと、国民・兵隊のヒトラー支持が根底にあった場合、どうあがいても破滅は避けられなかったのではないか、という印象を受ける。
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1部 軍と帝国
1 スパ(Spa)からカップ(Kapp)まで
スパとは第1次大戦時ドイツの大本営があった場所のことである。カップは1920年のカップ一揆(Kapp-Putch)を示す。
ドイツ帝国において将校団(The Officer Corps)は特権的地位を保持していた。
あるフランス人は、「軍隊が国家を持っている」と評した。
ナポレオン戦争後の1808年から始まるプロイセン軍事改革は、シャルンホルスト(Scharnhorst)とグナイゼナウ(Gneisenau)によって行われ、プロイセン将校団と参謀本部(General Staff)が誕生した。
1810年、クラウゼヴィッツ(Clausewitz)はプロイセン軍事大学(War Academy)を創設した。
以降、プロイセン国における軍の特権は階級は徐々に上昇していった。
将校団は貴族からなり、プロイセン国王に忠誠を誓ったため、ドイツにおけるプロイセンの覇権に大きな影響を及ぼした。
将校団はプロイセン国王すなわちドイツ皇帝の親衛隊(Paladin, praetorian guard)として機能した。非常時にはかれらは超法規的存在となった。また平時には、文民の法律の外にあり、軍法と名誉法廷(Court of Honour)に従った。
1914年の第1次世界大戦勃発時、ドイツ将校団はクラウゼヴィッツによれば「独自の法規、慣習を持つ一種のギルド」であり、騎士団に類似していた。
当初、ドイツ軍の最高指揮官であるウィルヘルム2世(Wilhelm2)は戦争大臣を無視し直接指揮統制を行った。ところが停滞と失敗が重なり直に力を失った。最後の人事権行使は1914年9月のモルトケ(Von Moltke)参謀総長更迭(後任ファルケンハイン(Falkenhayn))である。
代わって、タンネンベルク(Tannenberg)とマズーリ湖(Masurian Lake)で戦果を上げたヒンデンブルク(Hindenburg)とルーデンドルフ(Ludendorff)が、ドイツにおける半神として浮上した。
1916年、ウィルヘルム2世は各所の不満に屈し、ヒンデンブルクを帝国司令部の参謀総長、ルーデンドルフを参謀次長に任命し、最高指揮をとらせた。やがてかれらの権限は国家のあらゆる部門に及んだが、外交や戦略など様々な箇所で失策を繰り返し、最終的に敗戦を招いた。
新宰相マックス・フォン・バーデン(Max von Baden)による連合国との講和の際、皇帝と軍は、君主政の保持と軍の特権保持を画策したが見透かされた。
1918年11月ドイツ革命の勃発により、皇帝は、君主制存続の為に自身が退位するという講和条件を拒否し、亡命した。ルーデンドルフもスウェーデンに逃亡した。後にはドイツ軍最高司令官となったヒンデンブルクが残された。
ワイマール共和国は、皇帝逃亡の混乱のなか成立した。
リープクネヒト(Liebknecht)とルクセンブルク(Luxembourg)のスパルタクス団(Spartakusbund)がソヴィエト成立を宣言したため、穏健派である社会民主党SPDのシャイデマン(Scheidemann)は対抗して共和国成立を宣言し、統治をおこなった(人民委員会(People's Commissaries))。
社民党エーベルト(Ebert)らは、過激派ボルシェビキが台頭するのを恐れ、1919年1月、スパルタクス団を鎮圧するためにドイツ軍を頼った。
ルーデンドルフの後任グレーナー(Groener)は、国防相ノスケ(Noske)との協力により、将校団の特権保護のため共和国政府に忠誠を誓った。
エーベルトはスパルタクス団や独立社民党(The Independents)らの反乱を恐れ軍に依存した。エーベルトは、停戦後に残った義勇軍であるフライコール(The Free Corps)の公認を行った。
1919年2月、ワイマール憲法が成立すると、軍は大統領と議会(Reichstag)によってコントロールされることになったが、同時に中央集権化が進んだ。
連合国の提示した屈辱的な講和(ドイツの開戦責任、戦犯裁判、領土割譲、賠償金、軍の無力化など)をめぐって受入派と拒否派が対立した。戦時プロパガンダにより国民の多数は自分たちが革命と反乱によって敗れたと信じており大規模な抗議デモが発生した(Stab in the back「背後の一突き論」)。
エーベルトがグレーナー(とその上司ヒンデンブルク)に意見を求めたところ、次のような回答を得た。
・講和案拒否は軍事的に不可能であり、連合軍の進駐や領土分割を招くだろう。
・拒否した場合ただちに左派(スパルタクス団、独立社民党)による内乱が起きるだろう。
ヒンデンブルクの受け入れ容認により1919年6月ヴェルサイユ条約が成立した。以後、条約を受けいれた共和国派と右派・軍(軍の主力であるプロイセン将校は徹底抗戦を唱えていた)との対立は決定的となった。
軍隊の10万人への削減が決まった後、元帥とグレーナーは退役し、フォン・ゼークト(Von Seeckt)が共和国軍の担い手となった。
1920年、極右活動家ヴォルフガング・カップ(Kapp)とリュトヴィッツ将軍(Luttwitz)、ルーデンドルフがエアハルト海兵旅団(Ehrhardt Marine Brigade)を動員し一揆をおこしたが(Kapp-Putch)、何も計画しておらず、3日間でベルリンから逃げ出した。
旅団が給料支払いを要求したところ、カップは銀行から奪えと言ったのでエアハルト大佐(Ehrhardt)は唖然とした。
このとき兵務局長(Chief of Truppenamt)の地位にあったゼークトは軍による鎮圧を拒否した。エーベルトらはゼネストを呼びかけ事態を収束させたが、以後左派勢力が政治を脅かすようになった。
カップ一揆の失敗は、軍国主義勢力に政権運営の計画が何もないことを露呈した。
[つづく]
The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945
- 作者:Wheeler-Bennett, S.,Overy, R.
- 発売日: 2005/03/01
- メディア: ペーパーバック
◆参考
ゼークトの戦間期ドイツ軍改革については以下の本を参照。
the-cosmological-fort.hatenablog.com
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